俺さま☆執事!?04
兄貴と深町さんと別れ、じいの元へ向かう。
「これは睦貴さま。珍しいですね、呼び出していただければお伺いしましたのに」
すっかりはげ頭になったじいは少しつらそうな表情で部屋を開けてくれた。
「いいよ。どうせ俺、暇してるんだから」
じいは困ったような表情をしてお茶の準備をしようとしている。
「ああ、お茶ならいらない。さっき、紅茶を飲んできたから」
じいを制止して、椅子に座らせる。
「睦貴さま、申し訳ございません」
俺が物心ついたころからここでこうして俺たち家族の世話をしてくれているじい。
じいの本名を知らないことに気がついた。名前ばかりかじいのこと、ほとんど知らないような気がする。ここにくればいつもいてくれて、にこにこと笑顔を絶やさず俺たちを守ってくれているじい。
「睦貴さま、またなにかございましたか?」
現在の兄貴たちの部屋の横の部屋に移動する前、母親の異常な行動に耐えられなくなってしまった俺はじいのこの部屋に駆け込んだことを思い出した。それ以来かもしれない、こうしてじいの部屋を訪れるのは。
「なにかお困りのことですか?」
「いや。聞きたいことがあって」
文緒の執事のまねごとをしなくてはならない、という話をしたらじいは目を丸くして笑った。
「じいがお教えすることはございませんよ。睦貴さまは普段通り、文緒さまに接すればよいのですよ」
普段通り?
自分の行動を思い返してみる。
……言われてみれば、確かに文緒に対する態度は執事のようだ、と言われれば納得できる部分もある。先ほどの紅茶にしても用意して片付けまでしたものな。
「十五年前、じいの部屋に飛び込んできたときと同じ表情をしていたので、またなにかあったのかと心配しましたよ」
じいになら、話せるかもしれない……。
「じいはいつでも睦貴さまの味方ですよ。秋孝さまともし対立したとしても……睦貴さまの味方です」
「じい……。おまえはなにを……」
兄貴と対立するなんて、絶対にあり得ない。それはじいも分かっているはずだ。
「じいは秋孝さまのことも大好きでございますが、あの方はお強い。それに、智鶴さまがいらっしゃる。ですが、睦貴さまには」
そこでじいは言葉を区切り、少し覚悟を決めた表情で口を開く。
「じいにはもう時間がないのです。お迎えがくるのも時間の問題だと思っていますからあえて申し上げます」
なにか言いたかったが、言葉にならずにじいを見つめる。
「十五年前、じいを頼ってここに逃げてこられた時からなにがあっても睦貴さまの味方をする、と心に決めておりました」
十五年前。
奈津美さんがこのお屋敷の廊下で文緒を出産した。
梅雨明けしたかしないかというタイミングの七月の頭。たまたまその場に居合わせてしまった俺は若干十六歳で文緒を取り上げる、という人生において遭遇するかしないかというアクシデントに見舞われ……それがきっかけで俺の中の『なにか』ががらがらと音を立てて崩れた。
十六年の価値観が音を立てて崩壊して、戸惑い、母にも父にも相談できず。逃げるようにじいの元へやってきていた。
ちょうど母との『関係』に悩んでいた矢先の奈津美さんの出産は……。俺に命の尊さと大切さ、そして……母の間違った異常な愛情を思い知らされた。
逃げることなどできなかった。『高屋』から逃れることなど……できないのだ。
それを嫌というほど知っていた俺は、高屋とはまったく関係のないだけど俺のことをよく知っていてくれるじいに助けを求めたのだ。
「じいは……睦貴さまがお母さまとの関係に悩んでおられるのを存じておりました」
じいの毅然とした態度が苦しくて目をそむける。
「睦貴さま、目をそむけないでください。あなたが悪いのではありません、お母さまが悪いのです」
今までだれひとり、そんなことを言ってくれなかった。驚いてじいを見つめる。
「いいですか、睦貴さま。あなたはそうやって顔をまっすぐ前に向け、上を向いていればいいのです」
しわしわの顔をくしゃりとさせてじいは笑っている。
「俺……」
「睦貴さま、今までつらかったでしょう。じいはだれにも話しませんし、墓場まで睦貴さまのつらい思いを持って行きますから、どうかお話しくださいませ」
ずっと心の奥の奥にしまっていた嫌な思い出を少し思い出し、心の中が苦くて仕方がなかった。もう一度厳重にかぎをかけて片づけたが……その後味の悪い苦味は残って心を責めている。
どうして拒否しなかったのか。
実の母子で──。
俺は振り払うように頭を振り、じいにも拒否の気持ちを伝える。
「それでこそ睦貴さまです」
話さないことを怒られるかと思ったら、じいはますます顔をくしゃくしゃにして俺を見つめている。
「じいは睦貴さまの味方ですが、睦貴さまは強い。じいの味方なんて要らないほどに……強い方です」
そんなことない。俺は──ヘタレでニートで馬鹿なヤツなんだ。
部屋に帰ろうと立ち上がろうとしたその時。
じいの身体がぐらり、とかしいだ。
「じい!?」
倒れこむじいの身体をキャッチして床にぶつかるのはどうにか免れた。冷や汗を出して眉間にしわを寄せて苦しそうな表情。これは……。
じいを横に寝かせ、受話器を取り救急車を呼ぶ。心筋梗塞の可能性が高い。
いや、これでも俺、獣医だし? 人間も獣の一種!
救急車を待つ間、じいの手をギュッと握っていることしかできなかった。
しわしわで枯れた手。指先は氷のように冷たくなっている。苦しそうにずっと眉間にしわを寄せている。土気色の顔に、見ているこちらが苦しくなってくる。なにもしてあげることがなく、ただただ、力なく手を握るしかできなかった。
救急車のサイレンが聞こえ、バタバタと人が出入りする音が聞こえてきた。部屋を出て、救急隊員にじいがいる場所を教える。救急車に同乗して病院に一緒に向かった。
病室に運ばれ、治療が施されている間、祈るように廊下のソファに座っていることしかできなかった。膝の上に肘を置き、手に頭を乗せてじっと待つことしかできない自分が情けなかった。
「ご家族の方ですか?」
看護師から声をかけられ、ゆっくりと顔を上げる。年配の看護師が立っていて、少し心配したような、だけど表情を出さないようにした顔を見て、少し安堵する。
今ほど見知らぬ他人の存在がありがたい、と思ったことがなかった。
発見が早かったため、経過はよいようだ。それを聞き、ほっとした。
じいにもしもがあったら……しばらくなにも手につかなくなりそうだった。
病室に入ってよいと言われたので、入る。
先ほどの真っ青を通り越した土気色の顔からようやく人間らしい顔色になっていることを知り、安堵した。
「じい……」
小さく呼び掛けたが、眠っているらしく返事はない。パイプ椅子を開いてそこに座り、病院について離されるまでずっと握っていた手をもう一度握り直す。氷のように冷たかった手には血液が通るようになったからか、少し温かかった。
気まぐれに部屋を訪れたのが良かった。
じいももう年だし、さみしいけどお屋敷の仕事から引退してもらった方がいいのかもしれない。
だけど……家族はいるのか? あの部屋に寝泊まりしているようだし。そうすると……俺たちがじいの家族、なのか。
じいがよくなってお屋敷に戻るのなら、じいと一緒に暮らしてもいいかもしれない。ひとりだとまたなにかあった時、困る。
「じい、元気になったら一緒に暮らそう」
聞いていないと知りつつも、そう呟く。
「じい、俺の話を……聞いてくれるか」
起きて普通に聞かれていたら話せないけど、今なら話すことができる。聞いていてもいなくても、じいに語ることで……気持ちが少し軽くなるような気がしたから。
「あれは……」
胸の奥の奥のずーっと奥にしまっておいた嫌な記憶を引っ張り出して来て、厳重にかけていた鍵をゆっくりと開ける。それだけで心が凍っていくのが分かる。にがくて嫌な感触に眉根に力が入る。できることなら、一生開けたくなかった『記憶』。忘れたくても忘れられない、『記憶』。
かちり、と鍵を開ける音がしたような気がした。深呼吸をして、ふたを開ける。
そこには、記憶にあるものたちが寸分たがわず静かに牙をむいておとなしく箱の中に詰まっていた。