愛から始まる物語


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【番外編】『真理と摂理』《真理は語る》



 無菌室に人が入ってきた。

「ようやく呼んでくれたんですね。ありがとう」

 わたしはその声の主を見る。これが睦貴……か。
 少し長めの黒髪に黒目がちの焦げ茶の瞳。写真を見て顔は知っていたものの、実際目の当たりにして兄の秋孝とはまったく違う見た目に驚く。どちらかというと優男っぽい見た目なのだが、なんとも不思議な空気を醸し出している。
 彫刻のような見た目で精悍な顔つきでいつも自信満々な秋孝に対して、はかなげで少し世の中を斜めに見ているような、世間から距離を置いているような自信のなさそうな表情の睦貴。どうしてこの男は、こんな表情をしているのだろう。あれだけ母から愛情を受けて、そして文緒からもこれだけの愛を受けていながら。『愛』を一度ももらったことのないわたしには、睦貴のこの表情はまったくもって理解しがたいことだった。『愛』さえあれば……心穏やかに生きていけるのではないのか? わたしが追い求めていたものは、間違っていたのか???
 睦貴の後ろに隠れるようにしている少女に目を向けた。蓮に見た目がそっくりな美少女で、すぐにそれが文緒だということが分かった。肩より少し長めの黒髪のくせ毛、大きな黒鳶色の瞳。不安な面持ちでわたしのことを見ている。

「おまえは……秋孝以上に馬鹿だな」

 本当に来るとは思っていなかったので、わたしは素直な感想を述べる。

「馬鹿で変態で鬼畜でヘタレだよ、俺は」
「そうだな」

 そのくせ、思わないところで大胆だ。秋孝より経営するのに向いているかもしれないな、この性格は。
 秋孝と睦貴の仲はなかなか良好のようだ。それはきっと、この睦貴があまり物事にこだわらず、権力というものに固執していないせいなのかもしれない。
 高屋と辰己。昔からいがみ合っている家同士なのに、この男はそんなことはどうでもいいらしい。このくだらない対立に幕をおろせるのは、この男しかいないのかもしれない。
 わたしが死ねば……高屋と辰己という対立を終わらせることができるのだろう。
 そうか??。
 その考えにいたり、わたしは微笑んだ。

「だからおまえを選んだんだがな」

 わたしは起き上がってきちんと話をしようとしたが、

「起きるな、じじい」

 と睦貴に言われ、止められた。

「おまえにそう言われるほど、わたしはおいぼれてないよ」

 気持ちだけは若いつもりでいたが、どうやら身体はわたしの思いにはついてきてくれないようだ。諦めて、そのまま会話をすすめることにする。

「わたしにはもう時間がないらしいから、手短に告げる」
「そうしてくれ」

 睦貴の言葉にわたしは微笑み、ふたりを見た。ふたりの瞳は不安そうに揺れている。そこに嫌悪の光がないことに気がつき??わたしはとても安堵する。

「わたしは、ほしいものはすべて手に入れてきた。だけど、どうしても手に入らなかったものがある」

 望んで手に入らなかったものは??『愛』だけだった。

「深町と蓮と奈津美を欲した。だけど……とうとう手に入れることができなかった」

 深町はちょくちょくわたしの様子を見には来てくれているが、奈津美と蓮は文緒が生まれる前に会ったきりだから??十六年もの間、会っていないということか。文緒を見ると、とても愛されて育ってきたのだなというのがよくわかる。

「唯花が摂理と逃げた時、わたしの中でなにかが壊れたんだと思う」
「それは違うだろう。あんたはその前から壊れてたんだよ。だから、唯花に頼まれた摂理はおまえから逃げたんだろう」

 睦貴の言葉に、わたしははじかれたように彼を見る。
 この男は??わたしのことが分かっている?
 もしかして……この男は??。
 わたしはその考えを否定するように首を振る。
 ありえない。この男は、わたしがほしくても与えてもらえなかった母の愛を受けて育ってきたのだ。わたしのこの気持ちなど??分かりはしないだろう。この男に、わたしのなにが分かるというのだろう。

「ふふ、そうかもしれないな。わたしは、殺したいほど唯花を愛していた」

 わたしの言葉に睦貴の後ろに隠れるようにしていた文緒が首を振る。

「おかしいよ。殺したいほど愛してるなんて!」
「だれかに奪われるくらいなら、自分が殺したい、と思うことは??ないのか? それほど強く、人を愛したことはないのか」
「ない! 死んだら、愛することができないじゃない!」

 文緒のまっすぐな言葉に、わたしは眩しくて目を細めて笑う。

「文緒、おまえは蓮と奈津美に正しい愛を教わったな。そう思うと……やはりあのふたりを手に入れられなかったのは、残念だよ」

 十六年前の最後に見た奈津美と蓮の姿が、目の前にいる文緒と睦貴にダブる。
 最後に見たふたりは、公私ともに満ち足りていたようで輝いて見えた。それがわたしには眩しくて、やはりこうして目を細めて見ていたような気がする。
 愛する者が側にいる。お互いが思いやり、お互いが尊敬し合える関係。そこには純粋な『愛』しか存在していなかった。
 しかし、わたしが欲したのは??あれだったのか?
 なにかが違う気がした。
 文緒は、摂理と唯花の娘の智鶴に育てられたと言っても過言ではないようだった。その智鶴のことを……深町は腹違いの妹と知りながら愛しているらしい。そんなことを以前、深町本人の口から聞いたことがある。
『真理、智鶴になにかしたら……僕はもうあなたとは一切口を聞きませんからね。こうして呼び出されても、絶対に来ませんから。僕は彼女のことを愛しているんです』
 あまりのことに驚いて問いただした。腹違いとはいえ、血がつながっているのに愛しているとはどういうことか、と。
『そのままですよ。僕は智鶴をひとりの女性として、愛しています』
 ゆがんでいる想いなのにまっすぐな告白に、心が揺さぶられた。そして、深町の言葉はわたしが智鶴に対してなにかしたら必ず実行することが分かり??智鶴を陰ながら守らなくてはならなくなってしまった。ひいては智鶴の周辺の人間も保護しなくてはならなくて。結果的には対立をしていながらも守る、という矛盾した行動をとっていた。深町がわたしから離れていくことだけはどうあっても避けたかった。深町はそれを知っていたのかどうか知らないが、嫌な顔をしつつもずっと付き合ってくれていた。
 そして、わたしが病に倒れたと聞いた時も嫌な顔をしながらまめに顔を見せてくれた。態度は嫌々ながらも、彼はそれなりにわたしのことを気にかけてくれているようだった。それが今では唯一の肉親ゆえの情の上だと知りつつも、深町には感謝していた。

「真理、あんたは愛がほしかっただけなんだよな」

 やはりこの男は、わたしが真に欲したものがなにか、を知っていたのか。あぁ、もっと早くに出会えていればよかったのに。こんなタイミングでしか呼ぶことができなかった自分の弱さが悔やまれた。
 わたしと睦貴はずいぶんと年が離れているが??もしかしたら、親友と呼べるものになれていたのかもしれない。
 そんな生ぬるい関係など要らない??そう思うが、それでもわたしはその生ぬるい関係を今更ながらあこがれてしまった。

「そんなもの、要りはしない」

 最後の強がりを口にした。

「そうじゃないだろう。唯花さんの愛をだれかに奪われる、と思ったから??殺したいほど愛を持っていたんだろう?」

 首を振る。ここで肯定してしまったら??わたしの最後の砦が崩れそうだった。そんなどうでもいい砦にしがみついている自分の弱さに??自分をあざ笑った。

「分かった」

 文緒はそういうなり、わたしの枕元に歩いてやってきた。なにをされるのか分からず、不安の面持ちで文緒を見上げる。

「蓮となっちゃんの代わりになるかどうか知らないけど、私の愛を少しあげる。睦貴、いいでしょ?」

 文緒の瞳には不安の色が宿っていて、すがるような視線で睦貴を見つめている。睦貴は黒目がちな焦げ茶の瞳にかなりの戸惑いを乗せ、小さくうなずいた。

「真理さん、こんな小娘のちっぽけな愛で申し訳ないんだけど、あげるよ」

 なにをされるのか分からず、わたしはただ文緒を見つめているしかなかった。

「どうすればいいのかわからないんだけど……」

 その大きな黒鳶色の瞳を少しうるませながら、わたしの顔に近づいてくる。なにをされるのか分からず、そのまま固まったように文緒を見つめていた。
 唇になにか柔らかな感触を感じて、驚きのあまり目を見開いた。そうして文緒の顔がゆっくりと離れて行った。なにをされたのかまったく分からず、文緒をただ見つめることしかできなかった。

「あの……」

 文緒の戸惑った声に、わたしはようやく自分がなにをされたのか知った。
??初めてのキス。
 唯花の唇に口づけたいとずっと思い焦がれていたもの。それは結局叶うことがなかったが??。
 あれほど欲した奈津美と蓮の娘。わたしが唯一愛した唯花と摂理の??そして深町に愛された智鶴に育てられ……。母から異常な愛情を注がれて育った睦貴に愛されている文緒。
 あぁ、わたしは??一番欲したものを今、手に入れることができたのだ。わたしのほしかった『愛』を、今、こうして一度にすべてを手に入れてしまった。それはなんと甘美で、幸せな感触なのだろうか。
 知らず知らずのうちに、わたしの瞳からは涙があふれていた。

「わたしは……」

 あまりの幸せに、腕を折り、手のひらで顔を覆った。そのせいで点滴の液を供給している機械が音を立ててアラートを発し始めてしまった。外があわただしくなり、看護師が入ってきて、睦貴と文緒は追い出されてしまった。
 わたしは……ようやく安らぎを得ることができた。
 看護師が腕を伸ばすように指示をしてきたが、わたしは構わずそのまま泣いた。
わたしは??すべてを手に入れることができた。もう、思い残すことはなにもない。

「ありがとう……」

 顔を覆っていた手をはずし、わたしはようやく看護婦に言われたとおりに腕を伸ばす。これでようやく、穏やかに眠ることができる。

 わたしは瞳を閉じた。

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