愛から始まる物語14
ネズミーランドから帰ってきて、ほどなくして文緒は学校が始まった。
京佳は夏休み最終日に深町さんが迎えに来て、帰って行った。まあ、散々深町さんにいじめられたんだがな! もう俺、深町さんの言葉責めにぞくぞくしたよ。だめだ、自分がMなのを自覚してからますますやばいよ。悪の総本山の真理なんかと渡り合った日には、失神してしまうかも、気持ち良すぎて。
そんな馬鹿なことを考えていた土曜日。
文緒が俺の部屋に来て本棚に置いてある本を漁っているところに、鳴るはずのない固定電話が部屋の静寂を破った。
……間違い電話か?
恐る恐る、電話に出た。
「はい」
電話に出ると、向こうは無言だった。なんだよ、無言電話かよっ!
それとも、女の子が出たら
『おじょうちゃん、今日のパンツの色は?』
といういたずら電話かよ?
どちらにしても、迷惑極まりないな。
そう決めつけ、受話機を電話機に叩きつけようとしたその時、荒い呼吸音の下、聞いたことのあるような声が聞こえた。
『睦貴、か』
この声は……。深町さんに似てるけど、違う。これはまさか。
「おまえ、真理か?」
俺の言葉に、文緒は驚いて本を閉じて俺のもとに来る。
「なんの用だ。というかだ、この電話の番号、よくわかったな」
まあ、真理ならこんな番号調べるのはお手の物だろう。
『文緒とふたり、なんだろう?』
苦しそうな息でぽつり、と呟くような声が聞こえる。
「一緒だよ。なに、ようやくご招待してくれるのか?」
たぶん、俺は今、ものすごくうれしそうな顔をしていると思う。文緒は信じられないと言わんばかりの固い表情で、俺の腕を痛いくらいつかんでいる。
『話が早いな。今からそちらに迎えをやる。お屋敷から目が届かない場所で待っていろ』
そう言われ、前から考えていた待ち合わせ場所を告げる。分かっと短い答えが返ってきて、電話は切れた。
「さーてと。とうとうまりちゃんがやってきたか」
それがどんな意味を持っているのか、俺には分かっていた。だから極力、明るく声を出した。
「睦貴、行くの?」
「行くよ。待っていたんだ」
俺は服を着替える。文緒はこのままでいいな。今、家に帰られるといろいろ厄介だからできたらこのままで行ってほしい。
「大丈夫。きちんとここには帰ってこられるから」
ものすごく不安な表情をしている文緒を安心させるため、抱きしめてキスをする。
「文緒ももちろん、ついてきてくれるよな?」
俺だけ行くのではいけないのだ。文緒も行かなくては意味がない。
「睦貴が行くのなら、行くよ」
「うん。文緒はこの行き先を見届ける義務があるんだ」
俺の言葉になにか察したらしい文緒は、表情を固くする。
「この馬鹿な対立に終止符を打つんだ。おまえは巻き込まれた佳山家を代表して、見届ける義務がある」
できるだけ笑って言った。そうしないと、結末を知っている俺は泣いてしまいそうだった。
「大丈夫。絶対ここに帰ってくるから」
自分にも言い聞かせるようにそう言い、文緒を連れて待ち合わせの場所に行く。そこにはすでに迎えの車が来ていた。
「早いね。さすがまりちゃん」
俺の軽口に迎えの人はぎろり、とにらんできた。怖い、怖い。縮こまりそうな自分の身体をできるだけぐっと胸を張って、虚勢を張ってみた。そうしないと負けてしまいそうだった。不安を隠すため、文緒の手をギュッと握りしめた。
今から泣いていたら駄目だ。それは、真理に失礼だ。
俺たちは特に目隠しをされるわけでもなく普通に車に乗せられ、一時間ほど走ってとある場所に連れてこられた。
その建物に着くと、中から人が出てきて、案内された。建物の一番奥と思われるところに通され、室内に入るように促された。
中に入ると、広い部屋の真ん中に無菌室がぽつり、と置かれていた。その中には大きなベッドが置かれているようだった。無菌室の外には看護師が待機していて、俺たちに部屋に入る前の処理を施してくれた。不安な面持ちで文緒が俺を見ている。不安なのは俺も一緒だ。
中に入るように言われ、俺と文緒は静かに入った。ベッドにはひとりの老人が寝ていた。あちこちからチューブが繋がっていて、かなり痛々しい。昔、テレビで見たことがあるけどすっかり老けた真理だった。
「ようやく呼んでくれたんですね。ありがとう」
俺の言葉に、文緒が腕を握ってくる。
「おまえは……秋孝以上に馬鹿だな」
真理が俺を見て、笑っている。
「馬鹿で変態で鬼畜でヘタレだよ、俺は」
だれに言われたわけではないけど、総合的に俺はそうなってしまう……らしい。
「そうだな」
真理に肯定され、かなりへこむ。悪の総大将に肯定されてしまったよ、俺。
「だからおまえを選んだんだがな」
そう言って、真理は起き上がろうとする。
「起きるな、じじい」
「おまえにそう言われるほど、わたしはおいぼれてないよ」
起き上がろうとしても、やはり体力がかなり落ちているらしく、そのまま横たわる。
「わたしにはもう時間がないらしいから、手短に告げる」
「そうしてくれ」
真理は微笑み、俺と文緒を見る。
「わたしは、ほしいものはすべて手に入れてきた。だけど、どうしても手に入らなかったものがある」
ずいぶんと傲慢なじいさんだな、しかし。すべて手に入れてきた、って。
「深町と蓮と奈津美を欲した。だけど……とうとう手に入れることができなかった」
それは知っている。兄貴の庇護のもと、あの人たちはそれなりに平和に楽しく暮らしている。過去も、現在も、そして未来も。だけど、それは正しい姿ではなく、ゆがんだ姿なのだ。
「唯花が摂理と逃げた時、わたしの中でなにかが壊れたんだと思う」
唯花、というのは智鶴さんの母の名だ。真理の婚約者だった、稀代の名女優と呼ばれた美しい女。写真で見たことがあるが、本当に美しい女性だった。
「それは違うだろう。あんたはその前から壊れてたんだよ。だから、唯花に頼まれた摂理はおまえから逃げたんだろう」
深町と自分の妻を残して。
智鶴さんに昔、ちらりと聞いた。
『パパはずっと、なにかにおびえて逃げていた』と。
殺してしまいたいほどの愛情。唯花はその想いが怖くて、逃げたのだ。
「ふふ、そうかもしれないな。わたしは、殺したいほど唯花を愛していた」
真理の言葉に、文緒は首を振る。
「おかしいよ。殺したいほど愛してるなんて!」
「だれかに奪われるくらいなら、自分が殺したい、と思うことは──ないのか? それほど強く、人を愛したことはないのか」
「ない! 死んだら、愛することができないじゃない!」
文緒のまっすぐな言葉に、真理は笑う。
「文緒、おまえは蓮と奈津美に正しい愛を教わったな。そう思うと……やはりあのふたりを手に入れられなかったのは、残念だよ」
力なく笑う真理に、俺の心はざわめく。このじじいは、こんなに弱くないはずだ。真理はただ、愛がほしかっただけなのではないだろうか。自分の愛の表現を知らず、だれにも受け入れられず。だれからも愛をもらえず。異常なほどの愛を受けて育った俺には分かる。愛もなく生きるのは、つらい。求めても手に入れられず、与えてもらうこともできず。
摂理と真理。
双子なら、どちらも同じ条件のはずだ。それなのに、どこでどうゆがんでしまったのだろう。話を聞く限りでは、摂理も真理も似たような性格だったようだ。なのに、片方は求められ、片方は要らないと言われ。もともとはひとつだったものが別れてしまったが故の悲劇、だったのか? なにが違ったというのだ。
本当に、些細な違いだったのだろう。それがどんどん先に進めば進むほど歪みが大きくなり、修正がきかなくなってしまった。だけど、修正が遅いとは思えない。今からでも間に合うはずだ。
「真理、あんたは愛がほしかっただけなんだよな」
俺の言葉に真理は笑う。
「そんなもの、要りはしない」
「そうじゃないだろう。唯花さんの愛をだれかに奪われる、と思ったから──殺したいほど愛を持っていたんだろう?」
歪みが決定的になったのは、これがきっかけか? それとも、もっと前からか? 俺には判断材料が少なすぎて、わからない。
摂理は知らないけど、深町さんを見ている限り、あの人の異常な愛の与え方に──なんとなくヒントが隠されているような気がする。
智鶴さんとは腹違いとはいえ、兄妹なのに……深町さんは智鶴さんを愛しているのだ。
その異常さを知った時、俺は鳥肌が立った。
きっと、摂理も同じように深町さんを愛していたのだろう。
真理は……摂理の愛がほしかったのか? それは違う気がする。なんだかしっくりこない。
「分かった」
文緒はいきなりそういうと、真理の枕元に歩いて行った。文緒の意図が分からず、俺は止めることもできないでいる。
「蓮となっちゃんの代わりになるかどうか知らないけど、私の愛を少しあげる。睦貴、いいでしょ?」
あんまりよくないけど、そこまで嫉妬するほど、俺の心は狭くない……はずだ。俺は小さくうなずく……しかないだろう、この場合。ヘタレって言いたければ言えばいいじゃない!
「真理さん、こんな小娘のちっぽけな愛で申し訳ないんだけど、あげるよ」
文緒は真理の目を見つめ、微笑む。真理は、文緒を冷たい瞳で見つめていた。
「どうすればいいのかわからないんだけど……」
少し戸惑った表情で文緒は真理を見つめて、そして、その乾いた唇に軽く口づけを落とす。真理は目を見開き、文緒を見つめる。
「あの……」
文緒が口を開いた瞬間、真理の瞳から透明の涙があふれてきた。意外な光景に、俺は固まった。
「わたしは……」
チューブだらけのしわしわでやせ細った腕を折り曲げ、真理はあふれる涙をぬぐい取る。
「……ありがとう」
真理が腕を曲げたことで点滴の液が詰まったらしく、液を供給している機械が音を上げ始めた。外で待機していた看護師があわてて中に入ってきて、俺たちは無菌室の外に半ば放り出されるような形で出された。この部屋に案内してくれた人が無言でついてくるように促す。これ以上、真理とは会話は無理のようだ。ここにいたら泣いてしまいそうだったので、俺は文緒の手をしっかり握り、後にした。