愛から始まる物語07
今日はお屋敷で花火大会。打ち上げ花火も少しあるちょっと本格的なもので、このお屋敷に働く人たちのために兄貴が毎年開催しているものだ。この大会前はこんな俺でも忙しくなる。兄貴にいいようにこき使われ、涼しい自室でぐったりしていた。遠慮がちにノックされ、俺はようやく立ち上がってドアを開けた。そこには、文緒が立っていた。
「今、大丈夫?」
花火大会の準備で忙しかったので、終わるまで文緒と京佳の宿題は自主性に任せていた。
「ああ、いいよ」
俺は文緒を招きいれた。
「睦貴は今日の花火大会、行くんだよね」
「行くけど、俺は裏方でいろいろ仕事があるから」
文緒は明らかにがっかりと肩を落とした。
「そんなに残念がるな。京佳も柊哉も鈴菜も文彰もいるだろう」
奈津美さんと蓮さんもこの花火大会の準備に駆り出されていた。夏場は式場の仕事が暇になるからいいだろう、と兄貴に言われて無理やりやらされているらしい。だけどあのふたりのことだから、無理やりやっているわけない、というのは分かっていた。
「むっちゃんは乙女心が分かってないよ!」
「ペナルティ」
文緒の腰を抱き寄せ、キスをする。文緒はいまだに油断すると
「むっちゃん」
と言っている。俺が文緒のことを娘とまだ思っているのと同じくらい、根が深い。文緒の甘い吐息に理性が飛ばされそうになったけど、ぐっと踏みとどまる。
まだまだ大丈夫。
文緒は物足りなさそうな顔をしていたけど、ヘタレな俺に無言で要求するんじゃない。無理だ。
「宿題が終わったら、ふたりでどこかに行こう」
「ほんと?」
文緒は表情を明るくして、俺を見た。
「どこに行きたいか考えておいて。あまり遠いところは無理だけどな」
先ほどまで不機嫌な表情だった文緒の笑顔を見て、俺は満足する。花火を一緒に見たい、という気持ち、わかっている。俺だって文緒を見たい。
あ、違う。
文緒と花火を見たい。
だけどどうせ花火を見ないで文緒ばかり見ているのは明白だから、文緒を見たい、というのは間違いではないか。
文緒を抱きしめて、もう一度キスをする。今度は深く、舌を入れて文緒を味わうようにゆっくりと。夏休みに入ってからそういえばこんなキス、していなかったなと思い当たる。京佳の目を盗むように軽いキスしかしていなかった。深町さんの思惑に思いっきりはまっている自分が情けない。
ゆっくりと唇を離し、文緒を見る。うるんだ瞳に厳重に鍵をかけていた俺の下心が開けろとわめいている。
だけど、今は無理。
がたがた暴れる下心の上に理性の鎖をこれでもか、というほどかけてやる。暴れているけど無視だ無視。
夏場だけどどこかの温泉宿でしっぽりとしながら、とかいいかな。ってどこまで妄想しているんだ、俺の下心。
暴走しそうな下心をけり上げて、棚の上の方に片付けた。よし、当分出てこなくてよろしい。
「今年もがんばったから、文緒はみんなと楽しんでな」
俺は部屋の時計をちらりと見やり、出かける準備を始める。
「睦貴、どこか行くの?」
「うん。最終確認」
少しさみしそうな文緒と一緒に部屋を出て、文緒を家に送り届けて……といってもすぐそこだが、俺は会場に向かう。
仕事を早めに切り上げて戻ってきた奈津美さんと蓮さんを見つけて、俺は近寄る。
「ヘタレという割には毎年、仕事は完璧だな」
蓮さんも最終確認してくれているらしく、俺に感想をつぶやく。
ヘタレ、は余計だ。
「この様子なら、夕食はみんなと一緒に食べられそうね」
奈津美さんはほっとしたように言っている。花火を一緒に見られなくても、せめて夕食は文緒と一緒に食べたいじゃないか。残っていた細かい作業をこなし、どうにか夕食の時間に間に合った。
食堂に行くとすでに全員揃っていて、俺が来るのを待っていてくれたらしい。
「すみません」
あわてて席に着く。みんなでいただきます、と手を合わせてご飯をいただく。
今日は花火大会ということで、少し屋台風な料理が多くて、自然とテンションが上がってくる。
今日は雲ひとつない青空で、風もそこそこある。絶好の花火日和だ。
わいわいと言いながら食べる食事は楽しい。だけどそれほどのんびりしていられず、それなりに味わい、急いでご飯を終え、すぐに会場に戻る。
夕食を食べている間にすっかり外は暗くなっていた。携帯電話をちらりと見ると、そろそろ花火職人さんたちも食事を終えて戻ってくるころ合いだった。打ち上げポイントまで走っていく。もうすでに揃っていて、最終確認をとる。司会進行は奈津美さんと蓮さんにお願いしているからそこは確認しなくてもよくて。頭の中で見て回らなければならないところをピックアップして、優先順位を組み立てる。それからその通りに確認していく。抜けはないよな。
兄貴と智鶴さんのところに最後確認に行く。兄貴はさすが総帥というだけあって、忙しいらしい。深町さんと奥さんの彼方さんもいて、俺は挨拶をする。
「睦貴もいつまでヘタレの仮面をかぶっておくつもりですか。これだけできるのなら秋孝の仕事を手伝ってください」
「嫌だね。ヘタレ獣医が気に入ってるんだ」
「その獣医の仕事もまったくしてないらしいじゃないですか」
深町さんの鋭い指摘に反論できない。獣医の資格は取ったものの、開業するわけでもなく、鳴らない電話を待っている。だけど鳴るわけないのだ。広告もなにも出していないのだから。獣医になったのだって、母への当てつけだ。我ながら大人げない選択肢だよな、と思った。
動物は好きだけど、人の死以上に動物の死はつらい。そのことに耐えかねて、開店休業中なのだ。
ちらりと時計を見ると、大会開始五分前だった。挨拶もそこそこにして、花火職人のもとへ行く。インカムのスイッチを入れ、蓮さんに連絡を取る。
『なんで毎年オレたちが進行役なんだよ!』
と毎年同じことを開口一番に言われる。
「おふたり以上の適役はいないですよ」
結婚式の司会を務めるほどのふたりだ、花火大会の進行なんてお手の物だろう。実際、ふたりの司会は評判いい。人前でしゃべることが苦手な俺がするよりはよほどいいに決まっている。
インカム越しに奈津美さんの声が聞こえてくる。相変わらず上手だな、とぼんやりと聞き入っていた。
予定通りに進み、すべて予定通りに終了した。当たり前のように聞こえるかもしれないけど、こういうイベントにはハプニングがつきものだ。それさえも想定していないといけないのだから、簡単そうで大変なのだ。
今年もそれほど問題なく済み、ほっとした。片付けも終わり、残りは明るくなった明日にしようと解散したところ、めったに鳴らない携帯電話が鳴った。なんとなく嫌な予感がしつつ、俺は携帯電話のディスプレイを見る。
文緒からだった。
なんだろう。
いぶかしく思い、通話ボタンを押した。
受話部分に耳を当ててしばらく待っても声が聞こえてこない。
「文緒?」
嫌な予感がする。携帯電話に耳を押しあて──そんなことをしても仕方がないのは分かっていたけどせずにはいられなかった──耳を澄ます。
『…………』
ぼそぼそ、と聞き覚えのある声が聞こえた。この声は……柊哉?
「文緒!?」
携帯電話に向かって怒鳴った。
『どこにやったんだ』
今度ははっきりと声が聞こえた。間違いない、柊哉の声だ。がさがさという音がして、ぶつり、と切れた。
俺はあせって文緒の電話にかけなおしたが、電源を切られてしまったらしく、つながらない。なんだかまずい予感がする。
俺は走ってお屋敷に戻る。