愛から始まる物語


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愛から始まる物語05



 先ほどはあれほど固く閉ざされていたドアは、無情にも音もなく開いた。そこには、制服のままで泣きはらした顔の文緒が立っていた。

「そんなに泣いて。せっかくのかわいい顔が台無しだぞ」

 俺の顔を見て、文緒は止まっていた涙をもう一度瞳に浮かべ、抱きついてきた。
 こうして抱きつかれるのは、いつ以来だろう。少し癖のある黒髪からシャンプーのいいにおいがしてきた。そこに
「女」
を感じて、どきり、とする。まだ子どもだと思っていた。俺が十六の時は自分はまだなにも力のない、子どもだと思っていたのに。俺の完全な負け、か。
 だけどそれを認めるのは悔しくて。どこかで文緒のことは
「娘」
だと言い聞かせている自分がいた。もう分かり切っていたことではないか。文緒のことを愛している、ということに。
 だけどこうしてささやかな抵抗をしてしまうヘタレで情けない男を……笑わないでほしい。
 俺に抱きついて泣きじゃくる文緒をやさしく抱きしめ、部屋に入ってドアを閉めた。
 文緒が泣きやむまで、俺は時々背中をとんとんと叩いて待っていた。
 幼いころの文緒はものすごく泣き虫で、こうやってよく泣きやむのを待ったな、というのを思い出し、思わずくすりと笑っていた。

「あ、今なんか嫌なこと思い出したでしょ」
「相変わらず泣き虫だな、と思って」

 そう思うと、文緒のすべてがただ愛おしく感じて、俺は無意識のうちに文緒をギュッと抱きしめていた。

「むっちゃん、苦しいよ」

 力を入れていた腕を緩めた。

「その『むっちゃん』っての、やめてくれないか」

 前々から思っていたけど、なかなかタイミングがなくて言えなかったけど、今なら言える。

「むっちゃんはむっちゃんじゃん」

 頬を膨らましてそういう文緒はものすごくかわいかった。……意識した途端にもうこんなことを思っている俺は、ほんと、最低すぎる。そして、自分のあまりのおっさんっぷりにあきれてしまった。だけどこれもどれも、文緒がかわいすぎるのがいけないんだ、そうだ! と文緒に責任転嫁をしてみた。が、どう考えてもやっぱり俺がおかしいのは明白で。
 今度から兄貴のことを「変態」と言えないな。

「睦貴」

 文緒はきょとん、と俺の顔を見ている。

「いつまでもむっちゃんって呼んでいるから、俺は文緒のことを娘としか見れないんだよ」

 我ながら恥ずかしい。

「え……? 私が睦貴って呼んだら、彼氏になってくれるの? お嫁さんにしてくれるの?」

 俺の言葉は文緒にとって意外だったようで、目をまん丸に開いて俺を見ている。お願いだから、そんなに見つめないでくれ。

「彼女にでもなんでもしてやるから、もうむっちゃんって呼ばないでくれ」

 あーあ、とうとう言っちゃったよ、俺。

「嘘。むっちゃ……」

 文緒の言葉の途中で、文緒の唇を自分の唇でふさいだ。もう自分の最低さ具合に涙が出そうになった。
 さっきまで娘だ、とずっと言っていたのに、もうこの始末かよ。
 文緒との初めてのキスは、涙の味がした。

「うわ、しょっぱ。文緒、泣きすぎだろう」
「な……!」

 ヘタレな俺にしてみれば大胆な行動過ぎて、後から心臓がドキドキしてきた。

「むっちゃん、いきなり……!」

 もう一度、文緒にキスをした。

「むっちゃん、という度にペナルティね」

 文緒の唇から離して、瞳を見ながらそう告げる。我ながらいいアイデア。文緒は真っ赤になって俺を見ている。

「じゃあ、むっちゃんでいいや」

 三回目のキスをする、先ほどより少し深めに。だけどそれ以上は自分の理性を保てる自信がなくて、自重することにした。

「身が持たないから、きちんと睦貴、って呼んでくれるか」
「嫌だ」

 そういっていたずらそうに笑う文緒に、完全に負けだな、と白旗を上げる。挑む前から負けている俺、情けないな。
 だけど、そんな情けない俺も好きだと思えるのは、文緒が俺のことを好きでいてくれるからだろうか。
 兄貴の伴侶が智鶴さんだったように、蓮さんの伴侶が奈津美さんだったように、俺の伴侶は文緒だった、ってことか。悔しいけれど、そうみたいだ。

「むっちゃん」

 文緒がまっすぐな瞳で俺を見つめてくる。俺は苦笑して、ペナルティと決めたキスを文緒にする。あんなにしょっぱいと思った涙が、甘く感じた。

「文緒、わざと言ってるだろう」
「あは、ばれちゃった?」

 ぺろり、と舌を出して笑う文緒があまりにもかわいくて、その舌ごと俺は唇を奪う。
 理性? もうそんなもの、知ったこっちゃない。
 だけどさすがにヘタレの異名を持つ俺。それ以上ことに及べないことをだれよりも一番知っている。それに、お楽しみは後に取っておくほうがいいんだよ。
 そう自分に言い聞かせ、気持ちを落ち着かせる。
 あせらなくても文緒はここにいる。
 うるんだ瞳の文緒を見て、下心を理性でがっちり鍵をして、胸の中にしまいこんだ。
 この思いが、将来忘れられないほどの後悔のもとになるなんて思わず。
 ヘタレというなら言えばいい。
 
「急いては事をし損じる」
って言葉が世の中にはあってだな。っておまえに説教されたくない? そうですか、失礼しました。
 かわいく笑う文緒の腫れた目にキスをして、自分の頬を冷やすためにもらった氷の入った袋を文緒の目に乗せる。

「冷たくて気持ちがいい」
「泣きすぎだろう」
「む、睦貴のせいなんだから!」

 文緒に初めてきちんと名前で呼ばれ、妙に気恥しい。だけど名前を呼ばれるだけで幸せな気持ちになれるのは不思議だ。

「安心したら、おなかがすいた」

 苦笑して、文緒と一緒に部屋を出た。
 リビングに行くとすでに電気が消えていて、だれもいなかった。勝手知ったるわが家のように冷蔵庫を開けて、文緒のために簡単に食べられる物を用意する。蓮さんがまめに作り置きしたものがいくつか入っているのを知っていたので、お皿に小分けする。冷凍ご飯を電子レンジで温め、小鉢を並べて文緒を座らせる。

「ごめんね」

 文緒は小さくつぶやいて、ご飯を食べ始める。

「絶望的な不器用さは知ってるから。代わりに俺がやってやるよ」

 明日から蓮さんにまたいろいろ教わろう。また激しく罵られるんだろうな、と思ったらちょっと憂鬱になったけど、文緒のためなら耐えられる。
 文緒が食べ終わるのを待ち、お風呂に入るように促し、俺は食器を片づけて部屋に戻った。
 兄貴に報告に行こうかと思ったけど、どうせからかわれるのが分かっていたからやめておいた。
 今日はとにかく、疲れた。だいぶ痛みが引いたとはいえ、まだ腫れている左ほおをさすりながら部屋に戻り、ベッドにもぐりこんだ。





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