愛から始まる物語04
部屋に戻ろうとしたところ、蓮さんにつかまってしまった。
今日はなんの厄日だ。
佳山家のリビングに通され、俺は落ちつきなくソファに座っていた。お風呂からあがってきた奈津美さんに開口一番、頬のことを突っ込まれた。兄貴に殴られたというと、奈津美さんは目を丸くして怒っていた。
だけどこれは娘の文緒に関してのことですよ、と言えないヘタレな俺は、曖昧に返すことしかできなかった。
「で、睦貴。なんかオレに言うことがあるんじゃないのか?」
なんでこの人、こんなに鋭いんだよ。
「蓮、なんで?」
奈津美さんは分かっていないらしく、びっくりした表情で蓮さんを見ている。
「文緒は泣いて部屋から出てこない、忙しくても必ず食堂で夕食をとっている睦貴は今日は来ない。おまえたちふたりの間でなにかあった、と考えるのは、自然なことじゃないのか?」
その観察力に俺は内心、舌を巻いていた。なのにこの父親からあんな抜けた娘が生まれてくるんだもんな……。
「まあ、なにがあったのか大体想像はできるんだが。オレの口から言ってもいいのか?」
と蓮さんに脅された。
うわ……。
この人、敵に回したくない。けど、もうしっかり敵に回した後で思っても仕方がない。
俺は重い口を開き、経緯を話した。
* *
話し終えた俺は、すっかり神経を消耗させてしまっていた。
「ねえ、睦貴。覚えてる?」
奈津美さんはにっこりほほ笑み、口を開いた。
「文緒が四歳だったか五歳だったかの時、『むっちゃんのお嫁さんになる』って言っていたこと」
俺は遠い記憶を思い出していた。
「あなた、なんて答えたか覚えている?」
記憶の糸を手繰り寄せ、その時のセリフを口にする。
「『大きくなって気持ちが変わらないのなら、結婚してやってもいいぜ』」
そして、指切りげんまんをした。
げ。
俺、そんな約束していたんだっけ?
今の今まですっかり忘れていた。
「文緒はずっと覚えていたみたいよ」
奈津美さんはふふ、と笑う。蓮さんを見ると苦虫をつぶしたような顔で俺をにらみつけている。かわいい顔をしているけど整っているだけに、そういう表情をされると余計に怖いっ!
「私は別に睦貴ならいいと思ってるわよ、蓮はそう思ってないみたいだけど」
奈津美さんはちらり、と蓮さんの顔を見る。
「いいわけ、ないだろう」
俺は衝動的に土下座して謝りたい気分になった。なにを謝るのかわからなかったけど。だからヘタレ、って言われるんだよな、わかってる。
「あらぁ、どこの馬の骨かわからない男にとられるより、柊哉か睦貴のどちらかならいい、って言ったのは蓮じゃない」
奈津美さんの突っ込みに、蓮さんはさらに渋い表情をする。
「あー、奈津美のお父さんの気持ちが今、ようやくわかったよ」
「遅いわよ、今頃気がついても」
奈津美さんは面白そうにくすくす笑っている。
「で、睦貴はどうしたいわけ?」
どうしてみんなして俺にどうしたい、と聞くんだ。どうもこうもない、文緒は娘、なのである。今更、恋愛感情を持て、と言われても無理である。
「文緒は俺の娘だから」
「という割には今まで独身主義を貫いてきた理由は?」
氷のように冷たい表情で蓮さんが俺を見ている。久しぶりにこの人のこの表情を見た。反抗期真っ只中の時、よくこの表情で説教されたのを久しぶりに思い出した。年をとっても俺のヘタレでしょうもない性格は直らない、ってことだよな。
「反対に聞くが、こんな社会的にどうしようもない男に大切な娘を奪われてもいいのか?」
俺の言葉に蓮さんは深い深いため息をつき、
「昔から口だけは達者だったよな、おまえ」
と思いっきりけなされた。普段ならどうってことないこのセリフ、弱っている今の俺には胸に痛い。
「どうせいつものようにのらりくらりとして、秋孝に殴られたんだろ」
蓮さんは自分の左ほおを指さし、軽蔑したような視線を送ってきた。ご名答すぎて、涙が出てきそうだった。
「まあ、あの秋孝が一発殴るだけだったってのは……あきらめがかなり入ってるなぁ」
そんなことを冷静に分析しないでください。
「おまえと柊哉だったら将来性を考えたら柊哉なんだが。こればっかりは文緒の気持ちの問題だからなぁ。しかし……」
と鋭い視線で蓮さんは俺を見る。わかってます、自分には将来性も甲斐性もないってことを。やっぱりここは文緒を説得して、俺のことをあきらめてもらうしかない、か。
「睦貴、文緒を説得して諦めさせようと思ってるでしょ」
俺の考えなどお見通し、ということか。
「あの子、だれに似たのか相当頑固だから、あなたが折れるでしょうね」
くすくす笑っている奈津美さんがこの時ほど憎いと思ったことはなかった。蓮さんからいろいろ言われるのは慣れているけど、奈津美さんまで追い打ちかけなくてもいいじゃないか。心はずたずたに傷ついているよ、俺。
「文緒、なんにもできない子だけど、睦貴は大丈夫よね」
奈津美さんも蓮さんもなんでもこなしてしまうのに、どちらにも似ずに文緒は極端に不器用だった。もちろん、将来困らないようにといろいろと蓮さんが教え込んだらしいんだけど、さすがの蓮さんもさじを投げるほどのすさまじい不器用さ、らしい。弟の文彰は蓮さんに似たらしく、頭もよくて料理の腕も相当なものらしい。つくづく文緒は抜けているよな、と思う。
俺はたまに蓮さんに教えてもらって料理はそれなりにはできる。奈津美さんはそのことをさして言っているのだろう。
まったくもって、危なっかしくて目を離せない。どう転んだって俺には拒否権はない、ということか。
「オレは認めてないからな!」
「蓮ったら、いつの間にか頑固親父になってるし」
奈津美さんはくすくす笑いながら、俺に文緒の部屋に行くように促す。俺は大きくため息をついて、文緒の部屋の前に来ていた。
ドアをノックする。このドアが開かないことを祈りながら。