愛から始まる物語01
「てめぇ、またきてるのかよ」
朝食を食べていた俺に口を開いたのは、佳山
「文彰、朝から
文彰をいさめているのは、文彰の母である佳山
文彰は蓮さん似だけど、男らしい顔をしているのでかわいい、という印象はまったくない。でもまあ、これだけ顔がよければきっと、学校ではさぞかしもてるだろう。
「
蓮さんは食事が終ったらしく、自分の食器を片づけながら文彰に聞いている。
「起きてたけど、なんか見つからないって探し物してたぞ」
それを聞き、またか、とため息をつく。
佳山家の長女の文緒は、高校一年生の十六歳。文緒も父の蓮さんによく似ていて、美少女、と言えば聞こえがいいが……。しっかりしているようでどこか抜けていて、物をよく失くす。
目の前に出されていた料理をすべて食べ、食器を流しに入れて文緒の部屋へ向かう。
ドアをノックすると、中から声が聞こえてきた。
「あと五分!」
いつものことなので遠慮なくドアを開く。
「なにがあと五分だ。今日はなにを失くした?」
部屋を開けると、広い部屋が狭く見えるほど、物が散乱していた。その様子を見て、溜息をつく。
「おまえなぁ、それじゃあ見つかるものも見つからないぞ」
「あ、むっちゃん。おはよ」
文緒は照れたように笑い、
「英語の教科書が見つからないの」
ふとベッドの上を見ると、英語の教科書が堂々と置いてあった。無言で英語の教科書をつかみ、文緒の目の前にぷらぷらとして見せる。
「あー! あった!」
母親譲りのえくぼを刻んだ満面の笑みで、教科書に手を伸ばす。文緒の手が届く前にひょい、と上に持ち上げる。
「うわ、むっちゃん意地悪だ!」
「受け取る前に言うことがあるんじゃないのか?」
にやにやと笑い、文緒を見る。
「あ、ありがとう」
教科書に手を伸ばしてきた文緒に、さらににやりと笑い、
「それだけ?」
「なによ! お礼言ったじゃない。これ以上、なにを望むっていうのよっ!?」
「本当に感謝してるのなら、ほっぺにチューくらいしてもいいんじゃないのか?」
なんとなくからかいたくなって、文緒に要求してみた。本当にしてほしいとはまったく思っていないけど、文緒の反応が面白くてついついこうしてからかってしまう。我ながら大人げないなぁ。
「むっちゃん、最低! 年頃の女の子になんてこと要求するのよっ! もう、英語の教科書、いらない!」
文緒は怒って学生かばんを持ち、俺に向かって振り回してから部屋を出る。ほんと、佳山家のお姫さまはからかい甲斐があって面白い。
文緒が散らかしたままにした室内を簡単に片づけ、英語の教科書を持って部屋を出る。
朝ごはんを食べ終わった文緒の頭の上に英語の教科書を置く。
「ほら、持って行けよ」
俺は教科書から手を離す。文緒はあわてて教科書をつかみ、むすっとした声でありがとう、と呟いた。
……かわいいから、いいか。
蓮さんと奈津美さんにごちそうさま、ありがとう、と伝え、佳山家から出る。
向かいの部屋から兄貴と奥さんの
「睦貴、またそっちにいたのか」
「ああ、おはよう」
彫刻を思わせるような整った風貌を持つこの男は、俺の兄で
そして兄貴は、TAKAYAグループの総帥。総帥のイスをかけたごたごたはまああったのだが……。それももう遠い昔の思い出になってしまっている。一方的に母が仕掛けたけんか、みたいなもので初めから勝負はついていたのだが。
「蓮さんのご飯、美味しいものね」
兄貴の横で智鶴さんが微笑んだ。奈津美さんと同じくとても二児の母に見えない美貌の持ち主だ。
「ばばあが知ったらまた嘆くぞ」
兄貴の言葉に顔をしかめる。朝から思い出したくもない人物だ。
「アキったら、お義母さまのことをそんな風に言わないの」
といさめているけど、そう言われても仕方がない。実際、俺も自分の母とは言え、うっとうしいばばあだと思っている。俺の人生はこの母にすっかり狂わされたと言っても過言ではない。
「今日の予定は?」
兄貴の質問に今日の予定を答える。
「おまえが俺の仕事を手伝ってくれるとすごい助かるんだけどな」
その願いに、首を振る。
「そうか。気が変わったら教えてくれ」
残念そうに残して、兄貴は智鶴さんとともに玄関に向かっていった。
俺は兄貴の隣の部屋の自室に入る。
一緒に働く。それができたら、どんなに良かっただろう。複雑な背景といろんな人の思惑に……疲れていた。
* *
ここまで来て、なんとなく複雑な人間関係が分かってもらえたと思う。
俺の名前は高屋睦貴、今年で三十二歳になった。兄貴の秋孝とは一回りほど年が離れている。ずいぶんと年の差があるけど、これには理由がある。
兄の秋孝には、常人にはない少し変わった能力があって、その能力を忌み嫌った俺の母は兄貴を遠ざけた。そして第二子を希望したけどなかなかできなくて、ようやく俺を身ごもったときにはずいぶんと時間が経っていたらしい。そのせいか、俺はこの母に異常なほど溺愛され、兄貴と対立させるように育てられた。
しかし、俺も生まれながらにひねくれていて、母の思惑通りには残念ながら育たず、さらには権力なんてどうでもいいと思っていたから結局、今のポジションに収まっている。
俺の職業は、獣医。
TAKAYAグループの総帥の弟という地位に甘えて開業医ではなく、呼ばれたらうかがう開店休業医──世間さまからすればニートと呼ばれても仕方がない状態──にいる。
断わっておくが、獣医としての腕は結構いいぞ?
昔は母がべったりだったのでこのお屋敷の反対側のエリアに住んでいたのだが、とある『事件』がきっかけになり、兄貴の部屋の隣に住むことになった。
そのとある『事件』というのは──。
* *
十六年前。文緒がまだ奈津美さんのおなかの中にいた頃。奈津美さんはすでに産休に入っていた。出産まで家でゆっくりしていたらしいのだが、急に産気づき、ここの廊下で唸っていた。
たまたま食堂から出てきた俺が発見して助け、さらに今思い出しても恐ろしいことに、そのまま奈津美さんはそこで出産となってしまった。
初めての場面にパニックを起こしながら文緒を取り上げ、助産師の到着まで電話で指示を仰ぎながらいろいろとやったことを、昨日のことのように思い出していた。
それがきっかけとなり、俺と佳山家の交流が始まり、自然な流れで兄貴の家族とも交流することになった。
しかし、文緒を取り上げたのは今の文緒と同じ年だった、とのことを思うと、弱冠十六歳ですごいことに巻き込まれたよなぁ、と我ながら感心する。
そしてその後、十六歳だった俺は立派な反抗期で、母親と大喧嘩をして、兄貴の部屋の横の空き部屋に逃げるようにして退避してきた。
それから佳山家には大変お世話になりっぱなし、というわけなのである。
文緒を取り上げた、というのもあるけど、仕事で忙しい奈津美さんと蓮さんに代わって親代わり……とまではいかないでも、子育ての手伝いはしてきた。
三年後には弟の文彰も生まれ、俺は大学に通いながらこのふたりの成長を見守ってきた。
文彰も小さい頃は「むつ兄」といって懐いていたのに、中学に入って反抗期に入ってきたのもあり、世間的意見ではニートな俺に対してものすごく敵対心を持っているらしい。
俺も激しくヘタレだしニートに間違いないと思っているから、反論できない。
文緒も文彰も自分の子どもみたいな感覚でいるのも、反抗期の文彰には気に入らない、というのもあるけど、それは仕方がないよな。おむつも替えたし、昼間は仕事中の奈津美さんに代わってミルクをあげていた。熱を出した時も看病したし、勉強の合間に一緒に遊んだ。赤ん坊の時からずっと見ているのだから、そう思っていても不思議ではないだろう。
文彰は俺に対して反発しているけど、文緒は昔と変わらず俺にいまだに懐いているのもどうやら気に入らないみたいだ。さらに毎朝、当たり前のようにご飯を食べに来て文緒をからかっているのが文彰の癪に障るらしい。重度のシスコンだよな、あれは。まあ、あれだけの美少女で完璧そうで抜けている姉を持ったのが不幸の始まりだった、と嘆いてあげるのがいいのか?
だけど、兄貴のところの長男の柊哉(とうや)ならいいようで、文緒と柊哉がふたりで出かけるのは大歓迎、らしい。複雑な弟心は俺には分からない。なんといっても俺には年の離れた兄貴しかいないから。
柊哉は修業と称して全寮制の高校に入れられ、休みなどに帰ってきてぶつぶつと文句を言っている。話を聞く限りでは高校生活は楽しそうなんだけど、どうやらそうそう文緒に会えないのが悔しいらしい。
男を磨く時間なんだよ、といつか言った俺に激しい敵対心をむき出しの目でにらんできた。
どうして親代わりの俺はそんな嫉妬の目で見られないといけないんだろう、とその時は激しく疑問に思っていた。
文彰といい柊哉といい、文緒が絡むとどうも俺のことを敵と思っているらしい。はなはだ勘違いだよなぁ。