【四】
小田桐先生の指先は、あの演奏のように正確無比だった。この人は演奏家よりも人に教えるほうが向いているのかもしれない。
……なんて、偉そうなことを考えていられるのは最初だけだった。
『別れの曲』は、譜面に書かれているとおりのテンポで演奏すると約四分の楽曲だ。
そしてこの曲は大きく分けると三つのパートに分かれている。
一つ目は導入部の甘くも感じる特徴的なメロディから始まり、徐々に不穏な空気を感じさせる流れになる。有名なのはこの一つ目のパートだ。
そこから急展開を見せ、複雑な演奏となり、嵐が訪れたかのように感じるのが二つ目のパートだ。美しい和音の連続だが、不穏さしか感じられず、不安になる。
そして穏やかになり、一つ目のパートと同じ主旋律が流れ、フィナーレに向かう。
本当は全部を通して弾きたいのだけど、このとおり、わたしは先生にかなりの指導を必要とされるほどの腕前なのと、初心者でも弾けるといううたい文句で購入した楽譜にはこの有名な一つ目のパートしか載っていなかったので、ここのみにしておくにした。だけどその部分さえ、手こずっている。
「音を切るのではなく、繋げるようなつもりで音を落とし込む」
とアドバイスをされても、頭の中には疑問符しかない。
午前中はこうして指遣いとリズムを身体に覚えさせると言う作業に徹することになった。
*
お昼になったので、母が作ってくれたお弁当を小田桐先生に渡すと、かなりびっくりしているようだった。
「昨日、ごちそうになりましたから、母がお弁当を作ってくれました」
「あ、あぁ。ありがたくもらう」
レッスン室は飲食禁止なので、貴重品とお弁当を持って、わたしは学食へ、小田桐先生はたぶん教職員室へと向かった。
学食は夏休み中は場所のみの提供ではあるけれどそこそこ混んでいて、どうにか座れる場所を探して席に着いた。
見知った顔はないかなと周りを見ながら食べていたけれど、同じ学年はちらほらいても話したことがない人ばかり。早々に知り合いを探すのは諦めて食べていると、ふと近くで話している内容が後ろから聞こえてきた。
「小田桐先生、やっぱり音楽室にもいなかったの?」
「うん。夏休みはレッスン室で二学期の授業の準備をしているって聞いたんだけど、いなかったのよね」
先ほどいきなり部屋に来て、何も言わずに去っていった人たちだ。振り返って確認する勇気はなかった。
「せっかくレッスン室で二人きりになれるチャンスだったのに」
会話にどきりとした。その小田桐先生とレッスン室に二人っきりですが。
「えー、でもさあ、仮に手を出してきたとしたら、それはそれでまずくない?」
「あたしはいいわよぉ」
「よくないでしょ。バレたら小田桐先生、終わりじゃん」
「バレないよ」
「そんなの、分からないじゃない。バレたら先生を辞めさせられて、あんたは大好きな小田桐先生に会えなくなるのよ?」
その会話に、自分の立場は実はとても危険なのではないかとどきどきしてきた。食べ終わった空の弁当箱を前に、固まってしまった。
「そんなの、関係ないわ。手を出してきたってことは脈ありでしょ? 恋人になっちゃえば、家にも行けるじゃない」
あまりにもめでたい発言に思考が止まる。
「馬鹿ねえ、あんた。先生を辞めたら収入がなくなるのよ? しかも教え子に手を出したって後ろ指さされて生きていくことになるの。あなた、彼氏がそんな人でいいの?」
「あー、うん」
高校生にしては達観した言葉に感心していると、そこになぜか当の本人である小田桐先生が現れたようだった。背後で黄色い声があがる。
「俺を探してると聞いて来たんだが、なんだ?」
「あっ、小田桐先生っ! あのですね、そのぉ」
周りはざわついていたけれど、わたしは背後の会話を聞き逃すまいと集中していた。彼女はなんというのだろうか。
だけどそれは、小田桐先生を熱心に探していた女子生徒の逃亡であっけなく幕を下ろした。
「いえ、なんでもないです!」
がたがた、ばたんっ、と派手な音がした後、走り去る音がした。
「なんだ?」
小田桐先生の不思議そうな声に、ほっと息を吐いて身体を緩めた。
そして油断していたところに小田桐先生から一言。
「火浦、時間どおりに始めるからな」
「はっ、はい!」
驚いて立ち上がったら、後ろから笑い声がした。そんな風に笑うんだ、という新鮮な気持ち。
笑われたのも恥ずかしかったんだけど、小田桐先生がそんな風になんのてらいなく笑うとは思ってなくて、耳の先まで熱くなっているのが分かった。
*
気持ちを落ち着かせるために少し長めにお手洗いで手を洗った後に部屋に戻った。すでに小田桐先生は待っていて、空っぽになったお弁当箱と感想が待っていた。
「美味かった。ありがとう」
「はい、母に伝えておきますね。すごく喜ぶと思います」
そんなのんびりした会話はすぐに終わり、午前中の続きとなった。
おさらいだと言ってまた背後から手を覆われ、指遣いとリズムを教えられる。
だけどさっき聞いた『二人っきり』という言葉を思い出し、せっかく気持ちを落ち着かせてきたのに恥ずかしくなって、耳まで熱くなってきた。
後ろから手を添えていた小田桐先生はいち早くわたしの変化に気が付いたようだった。手を止めると、心配そうに声をかけてきた。
「どうした、調子でも悪いのか?」
「やっ、いえっ、そーいうのではなくてっ」
しどろもどろのわたしに手の甲を軽く叩くと手を離した。
「さっきのあいつらが話していた内容か」
「うー……」
どこから聞いていたのか知らないのもあって、ごまかすためにうなり声を返すことで返事を濁したけれど、これは丸わかりだ。そう思うとますます恥ずかしくて、真っ赤になってうつむいた。
「あいつらが言うとおりだよ。あんなガキを相手にして、俺は人生を壊すつもりはない」
「そ、そうですよ、ね」
「──ま、そうは言っても、好きって気持ちは理性でどうこうできるものではないけどな」
「──え?」
とぼそりと聞こえるか聞こえないかの音量で呟いた後、小田桐先生は手を叩くと楽譜を指さした。
「ほら、くだらないことに気を取られていると、姉さんの命日に間に合わなくなるぞ」
「はぁい」
そうだった。
わたしの目的は姉のために『別れの曲』が弾けるようになることだった。
そして日が暮れるまで小田桐先生に教えてもらい、今日も遅いからと車で送ってもらった。
*
そうして一週間が過ぎた。
使い慣れない筋肉を酷使して筋肉痛になったりしたけれど、そこは持ち前の根性で乗り切った。
スローテンポで、楽譜を見ながらならどうにか弾けるようになったと自負している頃、小田桐先生は急にこんなことを口にした。
「じゃあ、通しで弾いてみろ」
「通しでですかっ?」
「間違ってもいいから、最後までゆっくりでいいから弾いてみろ」
その言葉にしばらくフリーズ。
指遣いとリズムは先生が教えてくれたからこちらはどうにかなっている。問題なのは、ミスタッチ。
右手も怪しいけれど、ここに左手が加わるとさらに怪しさ満点になる。とくに後半の和音のところは怪しい。
だけど、ここを通過しなければいけないわけで。
わたしは目を閉じて深呼吸をして、気持ちを落ち着かせた。
それからゆっくりと指を鍵盤に乗せ、右手の親指に力を込めた。
ゆっくりだけど、かなりたどたどしいけれど、聞き慣れたメロディをわたしは弾いている。
美しくもの悲しいメロディ。ドファミファソから始まるこの曲は、とても綺麗だと思う。姉が好んで弾いていたのも分かる。
八小節あたりからさらに怪しくなるのだけど、それはここに装飾音が現れるからだ。最初、どうやって弾けばいいのか分からなくて戸惑った。
ここをどうにか乗り切れば、左手が忙しいけれど、右手はメロディを淡々と奏でていくところだから注意深く弾いていけば大丈夫だ。
だけど十七小節目に入ると左手に和音が現れるから、慌てないで落ち着いて押さえれば……大丈夫?
「あ」
「気にせず続けろ」
小田桐先生の言葉に従い、弾き直したい気持ちをぐっと我慢して左手の和音がぐだぐたのまま続ける。
和音の次の節はフォルテッシモだ。非常に強く。
左手は和音で四音を同時に弾くけれど、伸ばすところなので右手に集中できる。
ここから先の右手は複雑ではないけれど、いきなり現れるフラットに戸惑ってしまう。
左手の細々した動きに引きずられないように右手はメロディを奏で──一旦の終わりとなる。
本当ならば複雑な音階のある二つ目のパートにはいるのだけど、わたしが持っている初心者用の譜面にはここで終わりとなっていた。
「……途中、怪しいところがあるが、だいぶ形になったな」
「えへへ、先生の教え方がいいからですよ」
といえば、小田桐先生は大真面目に大きくうなずいた。
「まったくな」
小田桐先生には謙虚という言葉はないらしいということはこの一週間で学んだことだ。
「本当ならばもっとしごきたいところなんだが」
しごくってなんですか、しごくって!
「まあ、なんだ。俺もそろそろ真面目に準備をしないとやばいから、俺の特訓は今日で終わり」
「あ……はい」
辛いししんどかったけれど、この一週間は楽しかった。この練習の時間がずっと続くなんて思っていなかったけれど、いきなりの終わりに戸惑う。
「それだけ弾ければ家で練習すればもっと上達するだろう」
「……はい」
「それで火浦。相談なんだが」
小田桐先生はいきなり真面目な表情をして、パイプ椅子を引っ張ってわたしの側へとやってきた。久しぶりの接近にかなりどきどきする。
「夏休みに入ってから、雨が降ってない」
「そうですね」
「いつも夕方まで練習に付き合わせていたのは、まあ、雨が降ったときにあれが聞こえるというから確認しようと思っていたんだが……なんというか、うまくいかないもんだよな」
そういって小田桐先生は力なく笑った。
こうして一週間をともに過ごしたけれど、小田桐先生はわたしに意外な姿をよく見せてくれた。
てらいなく笑うところも見た。思ったよりも熱い人だというのも知った。
ピーマンと椎茸が実は苦手だけど、母が作る弁当にはいつも入っているから我慢して食べていたことも昨日、初めて知った。
そしてよく笑うということも知った。
いろんな表情を見せてくれた小田桐先生だけど、基本は自信に満ちていて、かなり傲慢なところがあるということも知っていたけれど……この表情は初めて見た。
「来週からは学校に来られないから」
「……え? 実家に帰ったりするんですか?」
「いや。準備をしないといけないんだよ」
「準備……ですか」
先生は基本、夏休みでも学校に来ているというのは知っていたけれど、それでもたぶん、夏休み中は交代でお休みを取るのだろうなというのはなんとなく分かった。
先生だって休みたいのだろう。わたしはそう解釈して、うなずいた。
「分かりました。ここまで弾ければ家で練習して、姉の命日までには完璧……とまではいかなくても、人に聞かせるくらいにはなっておきます」
「そこは完璧に弾きますと言ってほしかったな」
あの少し情けない笑みはあっという間に形を潜め、いつもの傲慢で自信家な、それでいてちょっと皮肉な笑みが戻ってきた。それを見て、いつもどおりの小田桐先生だと安心した。
「……とはいえ、明日の土曜日、天気予報を見たら午後から雨ってなってるんだよな」
小田桐先生は腕を組み、とんとんとこめかみを叩いた。それはなにかを考えているときの癖だと、この一週間で知った事柄のうちの一つだ。
「そういえば火浦、おまえ、ケータイ持ってるか?」
「持ってますよ、スマホ」
「あぁ、最近はスマホっていうのか」
「そうですよぉ」
「番号を教えろ」
「えー」
「えーじゃないだろう。明日、雨が降ったら迎えに行くから」
「それなら、家に電話でいいですよ」
「出掛けないのか?」
「家にいますよ」
「……分かった。それなら家に掛ける」
別にスマホの番号を教えてもよかったのだけど、断っても聞いてくるかもという淡い期待を少しだけ抱き、思わず家に掛けろなんて言ってしまった。家に掛けると言われてがっかりしている自分に少し驚く。わたしはなにを期待していたのだろう。
それと同時に、先生の番号を知るチャンスだったのかもしれないけれど、知ってしまうことが怖かったのだ。
「それじゃあ、今日は早めに切り上げるか」
「はーい。ようやく自転車を持って帰れる!」
「あぁ、そうだったな。連日夕方まで付き合わせてすまなかったな」
「いえ。こちらこそ。長い間、ありがとうございました。それでは、明日?」
「あぁ、明日」
明日、また会う約束をして、小田桐先生がこの部屋の鍵を掛けるというから、わたしは一足先に部屋を出た。
そして自転車置き場に行くと、そこでばったりと担任の荒田先生に会った。
「あ、こ、こんにちは」
荒田先生は相当なヘビースモーカーのようで、近寄らなくてもたばこ臭くてそれもあって苦手な人だ。だけど担任だし、ここで無視するのも不自然なので声をかけた。
すると荒田先生はなぜか身体を揺らして怯えるような視線をわたしに向けてきた。
そうなのだ、荒田先生はなぜかわたしに怯えているかのような態度を示してくるのだ。それは学内にあの音楽室の噂が流れるようになってからさらに強く現れるようになったような気がする。
「ひ、火浦か。きょ、今日は早いんだな」
「はい、一段落つきましたから」
わたしの返事になぜか安堵をしたかのようなため息を吐きだし、それから探るような視線を向けてきた。
「小田桐先生は止めておけ」
「はい? 止めるってなにをですか?」
言われた意味が分からなくてそう返すと、荒田先生は慌てたように取り繕うとして、急に動きを止めた。それからびしっと気を付けのポーズをして、深々と頭を下げた。
だれかいるの? と思って荒田先生が身体を向けているほうへ視線を向けると、そこには校長先生が立っていた。
「お疲れさまです!」
「あぁ、荒田先生。お疲れさまです。見回りですか?」
「そろそろ帰ろうかと思いまして、ついでに見回りをしようとここにきたら、クラスの生徒がいまして」
荒田先生の説明に、わたしに校長先生の視線が向いたのが分かった。だから校長先生に顔を向けて、会釈をした。
「一年の火浦です」
名乗った途端、なぜだか校長先生の表情が険しくなった。なんでと思っていると、校長先生が聞いてきた。
「キミにお姉さんがいたりしないか」
その質問に、わたしよりもなぜか荒田先生が焦っていた。わたしが答えようとするのを遮るように、荒田先生が口を開く。
「火浦、早く帰れ。自転車だろう? 気をつけろよ」
「え、あ、はい。……それでは、失礼します」
答えそびれたけれど、なんとなく荒田先生はわたしを追い返したいみたいだったので、自転車を引っ張り出した。
痛いほどの二人の視線を感じたけれど、気にしないで校門へと向かった。
そして久しぶりに自分の自転車で家路に着いた。