『彼女に捧げるエチュード』


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【五】



 さー、という音の後、激しくガラスを叩きつける雨音に目が覚めた。
 とっくに朝になり、昼前だと思われる部屋の中は、薄暗かった。
 天気予報では午後から雨だと言っていたけれど、少し早まったのかもしれない。……というより、時計を見ると十一時で、これは充分にお昼かもしれないと考え直した。

 パジャマのまま下に降りるとだれもいなくて、置き手紙があった。
 そこには見慣れた母の字で、父と出かけてくるけれど夕方には帰ってくるという伝言だった。
 メモの端には書いた時間と思われるものがあり、八時五十分とあった。二人が出掛けたときは雨は降ってなかったのかもしれない。
 だけど天気予報は雨だって言っているのを昨日のニュースで一緒に見ていたのに、なにもそんな日に好き好んで出掛けなくても……と思ったけれど、今日のわたしにはいないほうが好都合だと気がついた。

 母が用意してくれていたご飯を食べ、姉が使っていたアップライトピアノの前にやってきた。
 姉が亡くなってしばらくの間、ここに座っていれば姉がひょっこり現れそうで、待っていた。だけど姉は亡くなって荼毘に付されたのに現れるわけもなく……。
 ここで待っていても姉は生き返らないと思い知り、座ることはなくなった。だけどピアノの上には埃は溜まっていなくて、母がマメに掃除をしていたのを知り、少しだけ涙が出た。

 レッスン室にあるのと同じ形の背もたれのないピアノ椅子をピアノの下から引きずり出し、高さを調整して座った。座り心地は悪くない。
 それからおもむろに鍵盤蓋を開けて、ドを弾いてみた。レッスン室のきちんと調律されたピアノと比べると若干だけど音がずれているような気がしないでもないけれど、問題ないレベルと判断して、練習することにした。

 小田桐先生が一曲くらい暗譜しろと言ったから、頑張って覚えた。だから今、手元には楽譜はないけれど、きちんと弾くことができるはずだ。

 右手親指をドに置き、指先に力を入れる。中指で次のファを弾くと同時に左手の中指でファを。そうすると不思議なことに次々と指が勝手に動き出す。まるで後ろから小田桐先生が優しく手を覆って教えてくれているようだ。
 忘我の境地で弾いていると、昨日はあんなにたどたどしかったのに不思議とミスをすることなく、あの苦手な和音のところも問題なく弾くことができた。

 なんだか家の中でじっとしていられなくて、わたしは私服に着替えてスマホと財布を小さなバッグに詰めると傘を持ち、家を出た。

     *

 夏休みの土曜日でも、学校には人がいた。
 とはいえ、運動部は雨だからなのか土曜日だからなのかグラウンドにはだれもいなかったけれど、教職員室には明かりがついていて、体育館からはシューズが床に擦れる独特な音が聞こえて来ていたし、ボールが跳ねる音もしていた。
 だけど全体的に人の気配はいつもより希薄で、そして蒸し暑い上に雨で湿度がさらに上がっていて、なんだかいつもと違うように感じた。

 いつもとは違って半分しか開いてない校門に立ち、冷静になる。
 なにも考えないで勢いで学校に来てしまったけれど、私服で入っていいのだろうか。
 いや、そもそもがどうしてわたしは学校に来たのだろうか。

 ピアノが上手く弾けたことで気分が高揚して、家の中にじっとしていられなかったから駅前に行くつもりだったのだ。あのあたりにはいろんなお店があるから、ぶらぶらしていたら少しはこの妙な高ぶりが治まるかなと思ったのに、なぜか気がついたら学校に来ていた。

 まるでなにかに呼ばれたかのようだ、とふとそんなことを思った瞬間、ぞわっと背筋が凍った。

 いやいや、それはないわよ。
 ここ一週間、夏休みに関わらず学校に通っていて、今日も学校に行くときに使っているバスに乗ったから、いつもの習慣でここに来てしまっただけだ。
 自分にそう言い聞かせた。そうしないと怖くて泣きそうだったのだ。
 とはいえ、私服だし、学校には特に用はないから駅前まで戻ろうとしたとき。
 特別棟の上階できらりとなにかが光ったように見えたのだ。
 あれはなに? と慌てて目をこらして見たのだけど、見間違いだったのか、なにも見えなかった。今度こそ帰ろうと思ったのだけど……。
 また特別棟の上階の窓際に人影が見えて、すぐに消えた。
 普段だったら土曜日だけどだれかいるのだろうとそのままスルーするのだけど、なにかが引っかかる。
 そして少し考えたのち、その人影が見えたところは音楽室だと気がつき、またもやぞっとした。
 空調がついていない時期は特別棟の最上階にある音楽室の窓は開け放たれ、合唱部の美しいハーモニーが聞こえてくることがある。だけど今は夏場でクーラーがついているから開けられることはない。
 だけど中に人がいれば電気がついているはずだ。カーテンはあるけれど人がいないときは開けられているし、視聴覚室などならともかくとして、一般教室などは遮光カーテンではないからこんな薄暗い日であれば、電気がついていればカーテンが閉まっていても明かりがつけられているのが分かるはずだ。音楽室のカーテンも一般教室と同じものだったと思う。
 だから人がいれば明かりがついているはずなのに、薄暗いまま。
 でも、中に人がいた。

 これっておかしくない?

 そして今日は、雨の日だ。
 夕暮れ時にはまだ時間があるけれど、例の『新しい七不思議』だとしたら……。

 怖かったけれど、でも、『新しい七不思議』の正体が姉であるのなら、幽霊でもいいから会いたいと思ったのだ。
 だからわたしは私服というのは躊躇したけれど、周りを見るとだれも見ていない様子だったので、思い切って中に入り、特別棟の最上階の音楽室へ行くことにしたのだ。

 玄関から入り、持って帰るのを忘れていた上履きに履き替え、足音をできるだけ立てないようにして階段へと向かった。
 特別棟は本校舎とは別になっていて、鉄の扉で遮られている。一階は教職員室が近いということもあってマメに鍵が閉められるらしいのだけど、最上階である三階の扉は閉まっているけれど鍵は掛かっていないと聞いたことがあった。
 ということで、一階は鍵が閉まっている可能性が高いし、どちらにしろ音楽室に行くには上らないといけないのだから、先に上がってしまおうと階段をのぼった。

 人がいないし雨が降っているのもあり、踊り場の窓も廊下の窓も閉まっていて、息が詰まるほどの湿度の高い空間となっていた。じっとりとした肌にまとわりつく不快な空気に息が詰まりそうになりながら、階段を三階までのぼった。
 廊下には大きな窓があり、どんよりとした雨雲が垂れ込めているのが視界の端に映る。
 少し遠方で光ったのが見えて、それからお腹に響くようなどーんという音がした。そしてまたぴかぴかと派手に光り、空が割れるような音が鳴り響いた。
 こんなことになるのなら、家で大人しくしていればよかった……と思ってもすでに遅い。
 このままここにいるのも嫌だ。それにやはり、音楽室に姉がいるのかどうかを確かめたい。わたしは怖い気持ちを抱きつつ、特別棟へ行くことにした。

 鉄の扉は閉まっていたけれど、押してみるときぃと音を立てて開いた。ゆっくりと開けて中へと入る。どうしてだろう、こちらはひんやりとしているように感じた。
 特別棟の三階は選択授業のための教室がある。鉄の扉をくぐってすぐのところが書道室、その隣が美術室で、音楽室は一番奥になる。
 書道室からはほのかに墨の匂いが漂ってきた。美術室は特に匂いはない。
 そして一番奥の音楽室。こちらは防音されているため、仰々しい鉄の扉があった。ここをかっちり閉めていると、外に音が洩れることはない。
 ちなみに書道室も美術室もこちらも別途、鍵を掛けることができる。確認はしていないけれど、たぶん閉まっている。
 だから音楽室も閉まっているはずなのに。

 ……あれ? ちょっと待って。
 音楽室の前まで来て、あの『新しい七不思議』がおかしいことに気がついた。
 だって……音楽室のこの扉、閉まっていたら中の音が聞こえない。それなのにどうして雨の日の夕暮れ時に音楽室から『別れの曲』が聞こえるの?

 わたしは必死になって思い出す。
 姉が演奏していた『別れの曲』を聞いたあの日、あの雨の日の夕暮れ時の音楽室の様子を。

 ──あの日は六時間目まで授業があって、しかも掃除当番で、わたしはじゃんけんで負けてゴミ捨てを押しつけられてしまっていた。
 渋々ゴミを捨てに行き、戻ってきたら掃除当番だった人たちはとっとと帰っていて、でも、仲のよい友だちは待っていてくれて……、と喜んだのも束の間。どうやらその子は美術室に忘れ物をしてきたことに気がついて、それを取りに行きたいからわたしを待っていたらしい。
 なんだか今日はついてないなと思ったけれど、嫌だと断れず、その子と一緒に美術室の鍵を借りに行き、特別棟に向かった。ちなみに普段は美術部が美術室で活動をしているのだけど、この日に限って顧問が出張で休みだったらしい。
 わたしが一緒だから気が大きくなったのか、その子はこんな状況なのにいきなり最近聞く噂話を口にした。

 ──こういう雨の日に音楽室から数年前に事故死した生徒が弾くピアノが聞こえてくるらしいよ。

 どうしてそんな怖いことを言うのよ、と言いながら美術室に向かい、無事に忘れ物をゲットして、鍵を閉めて帰ろうとしたところで──聞き覚えのあるメロディを耳にしたのだ。
 ちなみにその子が忘れたのはスマホで、最初、それから聞こえてきているのかと思ったのだ。
 わたしも学校にスマホは持ってきていたけれど、基本はカバンに入れっぱなしだし、音を切っている。だから自分ではあり得ないと思ったからその子を見たのだけど、わたしが言いたいことを察したのか、首を振られた。
 どういうこと? と疑問に思っている間も曲は聞こえてきていて、耳を澄ましてようやくそれが『別れの曲』だと気がついた。
 そして──八小節目の装飾音のところでぎくりとしたのだ。

 姉は運動以外はとても優秀だった。
 そしてピアノも幼い頃から習っていて、とても上手だった。だけどどうしてなのか、『別れの曲』の八小節目の装飾音だけはなぜか上手く弾けなかった。いや、それともわざと変に弾いていたのか、それは姉がこの世にいない今となっては分からない。
 八小節目と九小節目のラの前にシのナチュラルの装飾音がついている。姉はそのシのナチュラルをなぜか二回、弾くのだ。
 わたしは『別れの曲』を覚えるためにいろんな人の演奏を聴いたけれど、だれひとりとしてここのシのナチュラルを二回弾いている人はいなかった。
 だから『新しい七不思議』の音楽室から聞こえる曲を弾いているのは姉だと確信して……腰を抜かした。

 姉が亡くなり、家の中をいくら探しても見つからなかった姉。
 なぜ姉が家にいなかったのか──それはこの音楽室でピアノを弾いていたせいだ。

 そう思った後、いや、それはおかしいと気がついたけれど、でも、あの演奏は姉以外にはあり得なくて、でも、姉は四年前に亡くなっていて。
 そして気がついたら、曲は聞こえなくなっていた。

 幽霊なんていない。
 そう思ったけれど、でも、亡くなった姉でしかありえない演奏が音楽室から聞こえてきたのだ。わけが分からなくて呆然としていると、小田桐先生がやってきた。

 あまりの出来事に周りの状況がよく見えていなかったのだけど、美術室に忘れ物をした子もあれを聞いたという。怖いから早く逃げようとわたしに言ったようなのだけど、わたしは驚いて腰を抜かしていて、その子は自分ではどうすることもできないと早々に判断して、音楽室の管理責任者である小田桐先生を呼びにいってくれたらしい。

 そしてわたしはそれほど面識がない小田桐先生に開口一番、『別れの曲』を教えて欲しいと頼み込んだのだ。






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