『彼女に捧げるエチュード』


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【三】



 わたしには、六つ上の姉がいた。
 その姉は美人な母に似た上に、運動以外はなんでもよくできて、みんなに好かれていた。
 一方のわたしはと言えば、姉とは真逆で、運動以外はからっきし駄目だった。
 できすぎる姉を持ったわたしは、もちろん周りから比べられた。

 ──お姉ちゃんはきれいなのに。
 ──枝みたいな手足で貧相ね。
 ──お姉ちゃんはこの間の全国模試で、上位に食い込んだらしいわね。
 ──あら、あなた、こんな問題も解けないの?

 そう言われる度にうつむいて泣いてしまいそうだったけれど、幼い頃から習っていた新体操の先生の言葉──どんなときでも笑顔で過ごせ──を心に抱き、顔を上げて、いつだって笑顔を返していた。

 だけど、四年前の夏休みの終わり頃。

 その日は、朝は天気が良かったのだけど、だんだんと天気が悪くなり、夕方前から雨が降り始めていた。
 わたしは少し雨に濡れたものの、帰ってきてすぐにシャワーを浴びる習慣が付いていたため、すでにさっぱりしていたところだった。
 普段ならわたしがシャワーから出てくる前には姉が帰っているはずなのに、着替えて、髪の毛を乾かし終わっても帰ってくる気配がなかった。雨が降っているからどこかで雨宿りでもしているのだろうか、それだったら連絡が入るはずなのに──。そう思って母は姉のケータイに電話をかけても出ないという。

 なかなか帰ってこない姉に母と二人、やきもきしていた。そこに鳴り響く電話の音。
 それは病院からの連絡であり、思いもよらない内容に母と慌てて駆けつけた。

 案内された病室の白いベッドの上で、頭に包帯を巻いて、姉は眠っていた。

 病院の先生の説明によれば、車と接触事故を起こして跳ねられて、頭をぶつけたらしいと言うことだった。
 意識が戻れば望みはあるが、そうでなければ覚悟をするようにと言われ、母と抱き合って泣いた。

 姉と比べられることは多かったけれど、あまりにも差がありすぎて、姉のことが憎いとも死んでしまえとも思ったことがなかった。姉妹仲はそこそこ良好だったと思う。むしろ、できる姉を頼ることが多くて、その姉の命が亡くなるかもと言われ──途方に暮れた。

 そして姉の意識は戻ることなく、そのまま息を引き取った。
 頭をぶつけただけだったので死に顔は綺麗で、名前を呼んだら今にも起きてきそうだったのに、青ざめた顔で目を閉じている姿には生気を感じられなかった。

 葬式が終わって、姉がいないという『日常』が訪れた。
 だけど姉が亡くなったことが信じられなくて、姉の部屋に入ったり、姉の面影を探してピアノの前に座ったりしたけれど、姉は現れなかった。

 姉がいないという喪失感に耐えられなくて、それを忘れたくて、新体操に打ち込んでいたのだけど……。

 そんな状態だったので、本当につまらない些細なことで怪我をして──わたしは逃げ場さえ失った。



 姉と、幼い頃からずっと続けてきた新体操を失ったわたしは、それらがないことが『日常』になってしまうことに当初は焦ったけれど、ないことが当たり前になり、姉がいないことにも慣れ、悲しみは時が癒してくれるとはよく言ったものだと最近では思えるようになってきた。

 そしてわたしは姉が通っていた高校に入学した。

 きっとこれが転機(ターニングポイント)だったのだろう。
 そういったものは振り返って初めて気が付く。



 六月に入って梅雨入りして雨が多くなってから聞こえ始めた噂話。

 雨の日の夕暮れ時に、音楽室から『別れの曲』が聞こえてくるというのだ。

 その話を聞いたとき、嫌な符号にどきりとした。
 確かに姉は『別れの曲』を好んで弾いていた。でも、この曲はだれもが一度は耳にしたことがあると言っても過言ではないほど有名な曲だ。だからそれは、たまたまの偶然だと言い聞かせた。

 そう、その噂だけだったら、そうやって流せたのだ。
 だけど、この噂話にはまだ続きがあった。

 六月の半ばになると、なぜかこの噂話の内容がより具体的なものになった。
 その内容はというと、数年前に事故でなくなった生徒が弾いているというものだった。

 それもたまたま……。
 そう、ここまでならよくある『学校の七不思議』のテンプレだったのだ。
 だけどわたしは聞いてしまったのだ。
 雨の日の夕暮れ時、音楽室から流れてくる『別れの曲』を。
 そしてそれは、間違いなく姉が弾いた曲──だったのだ。

     *

 小田桐先生が戻ってくるまでに昨日の復習を少ししておこうとドの位置に親指を置いた時だった。
 部屋のドアがノックされた。それなのに、だれも入ってくる様子がない。
 不思議に思っていると、そろっとドアが開けられ、見知らぬ顔が無遠慮に室内をなめ回すように見ていく。
 わたしと同じ白のセーラーを着ているところを見ると、同じ高校の生徒のようだ。だけど見たことのない顔だし、襟元を見るとIIと入ったバッジをつけていたので、学年が違うようだ。

「いた?」
「いや、いない」
「おかしいなぁ。レッスン室にいるって聞いたのに」

 顔を出してきた女子生徒の後ろから別の声が聞こえてきた。

「じゃあやっぱり、音楽室だよ」
「えー、あそこ、合唱部が練習に使ってるから違うんじゃないの?」

 いきなり現れて、一言のお詫びもないままその人はばたんと乱暴にドアを閉めた。その音にびくりと身体が跳ねる。
 なんなの、今の。
 なんだかやる気を殺がれてしまい、小田桐先生が戻ってくるまでぼんやりと楽譜を眺めていることしかできなかった。

     *

「遅くなってすまん」
「いえ、今日はわたしが遅刻しましたから」

 そうして部屋に入ってきた小田桐先生からふっと煙草の臭い。わたしはどうもこの臭いが苦手だ。
 そういえば一度、姉からもほんの少しだけど残り香がすることがあった。気になって姉に隠れて吸っているのではないかと聞いたのだが、それは絶対にないと言い切っていた。すっかり忘れていたけれど、なぜだか今、思い出した。

「吸って、きました?」

 わたしの質問に、小田桐先生はバツの悪そうな表情を浮かべた。

「普段は吸わないんだが、ちょっと荒田先生に捕まって、無理矢理」

 荒田先生はわたしの担任であるから、もしかしたらピアノを教えているということを話したのかもしれない。

「それで遅かったんですね」
「まあ、そうだ。悪かった」
「別に小田桐先生が煙草を吸おうと吸うまいとどちらでもいいですけど、今回はそれで助かったんじゃないですか」

 わたしの口振りに小田桐先生は把握したようだった。

「だれかきたのか?」
「来ましたよ。ここにいると聞いたのにいないじゃないと言ってました」
「ったく、だれだよ、俺がここにいるって教えたヤツ」
「さあ? わたしではないのは確かですけど。モテる人は大変ですね」
「うるせーな。嬉しくないんだよ、手ぇ出せないガキにモテても」

 手を出してもいい相手だったら、モテて嬉しいの? という突っ込みはなんだかできなくて、口を閉じた。
 小田桐先生はため息を吐き出しながらどかっとパイプ椅子に腰掛けた。

「時間がないから始めるぞ」
「はい」
「とりあえず昨日のおさらいをして、今日はせめて楽譜の一段まで弾けるようになるぞ」

 その一言にわたしはうなずき、親指をドの上に置いた。

     *

 音符は読める、リズム感はたぶん悪くない。
 だけど譜面上の音符と鍵盤の一致が難しく、それだけでも大変なのに指遣いも慣れなくて、指が絡まること数度。
 この混乱が新体操を始めた頃に似ていて、なんだか複雑な気分になった。

 今はとにかく鍵盤と音符の一致をさせるのが急務ということで、ドファミファソ……とリズムは無視して鍵盤の上に指を這わせていた。
 そうしているとなんとなく弾けているような錯覚に陥ってしまう状態で練習すること十分。譜面を見なくても一段目の右手の音符は間違いなく弾けるようになった。

「指さえ動くようになればなんとかなりそうだな」

 という言葉に、若干だけどほっとする。

「今の指の動きを忘れずに、今度はリズムをつけるぞ」

 リズムといわれ、譜面を見る。
 冒頭はタンタンタタターンだ。先生がいうように指さえ動けば大丈夫そうだ。
 ……と思ったのは実践するまでだった。
 頭ではリズムが分かっているのに、指が付いてこない。そんなに難しいリズムではないのに。

「うー……」

 唸っていると、横に座っていた小田桐先生が立ち上がった。なにをするのかと思って見上げていると、パイプ椅子を引っ張ってきて、わたしの右横に置いた。

「火浦は譜面を見ておけ」
「……はい?」
「右手を貸せ」
「右手、ですか?」

 言われるままに素直に手のひらを差し出すと、目を丸くされた。どうしてそんな反応なのかと疑問に思って首を傾げると、ため息を吐かれた。

「おまえの手、ちっちゃいな」
「うー。気にしてるのに」

 小田桐先生の指摘に慌てて手を引っ込めると、申し訳なさそうな表情を向けてきた。

「弾いてるときにはあんまり感じなかったから、ちょっと驚いたんだ」

 ほら、出せ、と言わんばかりに小田桐先生は手のひらを出してきたので、おずおずと今度は手を握りしめて出すと、笑われた。

「それだと弾けないだろう?」
「そうですけど」

 仕方なく指を開くと手首を捕まれ、小田桐先生の左手の平に指先を乗せられた。小田桐先生の肌にどきんと心臓が高鳴った。

「火浦の指を鍵盤に見立てて上から指遣いと譜面のリズムどおりに弾くから覚えろ」
「ふへっ?」

 えっ、そんなやり方、ありなんですか?

「意識は右手に、だけど視線は譜面だ」

 言われるがままに視線を譜面に向けると、小田桐先生はわたしの背後に回り、思ったよりも優しい手つきで上から手のひらを被せてきた。しかも背後に小田桐先生の熱を感じて、頭に血が上ってきた。

「しっかり譜面を見ておけよ」
「……はい」

 そう返事をしたわたしの声は、思っていた以上に掠れていた。






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