『彼女に捧げるエチュード』


<<トップへ戻る

0 目次   <<前話*     #次話>>

【二】



 だれかがなにかの目的を持って死んだ姉を侮辱しているのなら、妹として名誉を挽回してあげなければならない。

「わたしも、このまま姉が『新しい七不思議』といわれるのは、屈辱です」
「そうだよな。……ということで、利害が一致したわけだ」

 小田桐先生はピアノの腕木の部分に手を突き、それからわたしの顔をのぞき込むようにして視線を合わせてきた。今までで一番近いその距離に、わたしは反射的に身体を後退させた。だけど小田桐先生はそれに気が付いていないのか、それともわたしの反応に気をよくしたのか、さらに笑みを深めた。

「これは俺への宣戦布告と受け取ろう」
「え、あのぉ」
「なんだ」
「なんでそんな好戦的なんですか」

 どうしてこれが小田桐先生への宣戦布告になるのよ? わけが分からない。

「夏休み中にピアノがまったく弾けない生徒を弾けるようにするというのと、犯人探しだぞ? これを宣戦布告と言わずして、なんという!」

 嬉しそうに吠えている小田桐先生に、わたしはどうやらこの先生の一部しか知らなかったのだな、と今度はわたしがため息を吐く番だった。



 わたしが伝え聞いた小田桐先生の人となりと、授業中のストイックな態度に、大変まじめな人だと認識していたのだけど、どうやらそれは違っていた。
 ──というより、小田桐先生のほんの一部でしかなかったことを知った。
 いや、だからといってなにというわけではない。

 ただ、真面目で堅物という評価と、実際が違っていたというギャップに、戸惑いが隠せなかったのだ。

 だけどあの雨の夕暮れ時に死んだ姉の演奏を聴いて腰を抜かしていたわたしに差し伸べられた手はとても優しかったし、小田桐先生が教師であるということを抜きにしても信じられる、頼っても大丈夫という妙な安心感というか、安堵をあのときに抱いたし、今もそれは変わらない。
 それに、この謎に一人で挑めるとは思えなかったのだ。
 先生が味方になってくれる。それだけでわたしにはとても心強かった。



 結局、この日は一日中、延々とドレミファソラシド、ドシラソファミレドの繰り返しで終わった。
 この日は家に帰っても耳の奥で自分が弾いていたドレミが響いていて、なかなか寝付けなかった。

     *

 朝、起きると、やっぱり耳の奥でドレミファ……と音が鳴っていた。ちょっと勘弁してほしい。

 朝ご飯を食べて、カバンを肩に掛けて家を出ようとしたところで母に呼び止められた。

「なに?」
「お弁当」
「あ……忘れてた」

 昨日は午前中だけということで持って行かなかったら、小田桐先生が妙に加熱したせいで帰りは夕方になった。お昼は小田桐先生が買い出しに行ってくれて、それをありがたく食べた。
 さらには帰りは思ったよりも遅くなってしまったからと小田桐先生が車で送ってくれたから、自転車は学校に置きっ放しだ。歩いて行くには距離があるから、今日はバスで行かなくてはならない。

「昨日、先生にお昼をごちそうになったんでしょう? はい、これ。先生分」
「あ……はい」

 弁当を受け取って靴を履いていると、母が珍しく口を開いた。

「小田桐先生、学校の先生になる前は演奏家としてそこそこ名を馳せていたみたいよ」
「……へぇ」
「でも、なんでかいきなり学校の先生になって、周りはかなり驚いたみたいね」
「そうなんだ」

 そこになんらかの理由があったのかもしれないけれど、わたしには関係がないことだ。

「それじゃ、行ってくる」
「今日も昨日と同じくらい?」
「うん、たぶん。帰る前に連絡する」

 玄関を開けて外に出ると、むっとするほどの暑さが襲ってきた。夏独特の空気にうんざりしながらバス停に向かった。

 バスを待っている間、スマホを取り出してイヤホンを取り出し、『別れの曲』を聞く。
 先生は暗譜しろと言ったけれど、ちょっと無理だ。それならば、曲を覚えてしまえばいいんだと気が付き、暇があればエンドレスで聞いていた。
 この曲はとても有名だから、いろんな演奏家が弾いている。そして聞いていて気が付いたのは、同じ曲でも演奏者が変わると違って聞こえるということだ。同じ譜面を同じように弾いているはずなのに、キータッチや微妙なリズムのずれで千差万別になる。

 とそこでふと、先ほど母が言っていた言葉を思い出した。
 小田桐先生は学校の先生の前は演奏家だったという。
 小田桐先生がピアノを弾いているのは授業中に何度も聞いているけれど、どんな風に弾いていたのか覚えていない。特に下手とも思わなかったし、引っかかるような演奏をしていたとも思えない。
 だけど実はもしかしてアルバムを出すほどの人だったのかなと思ってなにげなく検索をして、衝撃を受けた。

 ──ちょ、ちょっと、なにこれっ!

 『小田桐響』で検索すると、思っていた以上の検索結果だった上、アルバムもかなり出しているようだった。
 そして、興味本位で小田桐先生が過去に演奏した『別れの曲』を購入してダウンロードして聞いて……ショックを受けた。

 すべてを聞き終わった後、学校に行くために乗ろうとしていたバスが発車するところだった。
 あ、あれに乗らなきゃいけなかったのに、と思ったけれど、でも、もう追いかける気力がなかった。
 呆然とバスを見送りながら、思い出す。

 ミスタッチさえない、一分の乱れのない演奏。

 授業のときの伴奏もリズムの乱れもミスタッチもなかったと思うけれど、自分が歌うのに必死だからそこは覚えていない。
 それに、正直な話、小田桐先生が弾くのを気にして聞いてなかった。
 だけどふと、思い出した。

 ──譜面どおりに弾く、お手本みたいな先生。

 と、だれかが最初の授業で呟いていた。
 言われてみれば、その通りだと思う。
 譜面どおりに音を再現している。そこに自己解釈やミスは許されないとばかりの窮屈さを感じた。

 検索してみると、小田桐先生のことに言及しているブログでは、そのあたりは賛否両論だった。

 ──機械(マシン)みたいで怖い。

 ──あの難曲をミスタッチなしに、しかもリズムも正確に弾くのはやはり素晴らしい。

 ──ただ譜面どおりに弾ければいいわけではない。

 ──正確なリズムが分からなかったからとても助かった。

 などなど。
 それは少し前のわたしのようで、きゅっと心臓が縮みあがるような感覚があった。

     *

 昨日と同じレッスン室に集合十時と言われたけれど、バスに乗り遅れたせいで十分ほどの遅刻となった。

 涼しいバスから降りると、照りつける日差しにあっという間に体温が上昇して、汗が吹き出すのが分かった。
 持ってきていた汗拭きタオルで汗を拭いながら校庭をぐるりと大回りする。汗だくになりながら運動部が活動しているのを見ていると、さらに暑さが増したような気がした。

 校舎の横を通って北側の部室棟の端にあるレッスン室へ。
 春にはピンク色の花を咲かせる桜は今は葉が生い茂り、そのおかげで日陰になっていて、陽を遮ってくれるのでちょっと涼しい。日陰を選んで小田桐先生が予約してくれたレッスン室の前で足を止めた。
 レッスン室は防音されているけれど、やはり少し外に音が洩れる。
 今は夏場だからクーラーを入れているけれど、それらが要らないときなどは窓を全開にして弾いている人がいたりする。周りには住宅があるけれど、距離があるから特に苦情が来ているという話は聞かない。
 そのレッスン室から、防音されているとはいえ、わずかにだが音が洩れ聞こえてきた。それはわたしが今から入ろうとした部屋で、だからこそドアを開けるのを躊躇した。
 早く入って涼みたいという気持ちと、洩れ聞こえてくる音を遮りたくないと気持ちがせめぎ合う。
 だけどその音は、いきなりの不協和音で終わりを告げた。
 そうなるとよけいに入りにくくて、流れ落ちる汗を拭うこともできずに立ち尽くしていると、ドアが開いた。まさか開くとは思っていなくて、びくりと身体が震えた。

「──あー、なんだ。来てたのか」
「はい」
「遠慮しないで入ってくればいいのに。外、暑いだろう?」

 昨日の帰り際と同じく、わたしのことを気遣うような言葉だったけれど、どうしてだろう、そこに心がこもっているように感じることができなくて、うつむいた。

「ちょっと顔を洗ってくるから、中に入って涼んでおけ」

 そう言って小田桐先生はドアを大きく開き、中へはいるように促してきた。
 室内から流れ出してくる冷たい空気にあらがえず、誘われるまま中へと入る。
 アップライトピアノの蓋は閉じていて、さっきまで演奏していたとは思えない状態だった。先ほど聞こえた音は幻聴だったのだろうか。

「十分で戻る」
「はい」

 それまでに涼んでおけということらしい。
 ぱたんと音を立ててドアが閉まり、しんと静まり返る。外で鳴いていた蝉の声さえ聞こえない。クーラーのモーター音がわずかに響いていた。






拍手返信

<<トップへ戻る

0 目次   <<前話*     #次話>>