《五十一話》箱詰めのチョコレート
圭季はあたしのために上層階にあるレストランに予約を入れておいてくれた。
景色はよいし、料理も美味しいし、圭季の機嫌があまり良くなかったのは残念だけど、とても楽しかった。
デザートを食べてほっとしたところで、激しい感情がむくむくとこみ上げてきた。
それは薫子さんに対しての激しい怒りだった。
本当ならば、あたしは当たり前のように圭季とデートをしたり、こうして一緒に外食したりといったことが出来ていたはずなのだ。それなのにその当たり前のことが彼女のせいで制限されている。
あたしはテーブルの下でぐっと拳を握りしめた。この怒りの矛先をどこに向ければいいのか。こんなに怒りを覚えたのは初めてかもしれない。
怒りに震えていたら、ぽんっと軽く頭に手が置かれた。視線を上げると圭季と目があった。
「チョコ、悪かった」
薫子さんへの怒りに捕らわれていたあたしは、圭季の謝罪に即座に反応できなかった。なんで謝られているのか分からなかったのだ。
あたしからの反応がないことに圭季は言葉を重ねた。
「チョコが今日を楽しみにしてくれていたことは知っていた。妨害が入らないように警戒していたのに……申し訳ない」
そう言って頭を下げてきたことであたしはようやく状況を理解した。
圭季は今日のことであたしが怒っていると思ったらしい。
今日のことも怒っているけれど、それだけではなく、これまでの薫子さんの行為に対して怒りを覚えていた。
このまま圭季の謝罪を受け入れたら、この嫌な空気は終わりを告げる。
今までのあたしだったら、誤解されているのが分かっていてももやもやする心のまま
「いいよ」
と謝罪を受け入れていたと思う。だけどそれだとなにも変わらない。変わらなかったからあたしは何年もの間、不自由を強いられてきたのだ。
もっと圭季といろいろ楽しみたい。
自由に気の向くままにデートしたい。
その願いを叶えるのは今しかない。
だからあたしは勢いのまま口を開いた。
「もう、嫌なの」
あたしのその一言に圭季の顔が青ざめた。
今の言い方だと圭季との婚約も含めてすべてが嫌だと取られたかもしれない。
そうではなかったけど、ここで下手にそのことは違うというと話がややこしくなるから続けた。
「ねえ、圭季。あたしたちはいつまで薫子さんにおびえて暮らすの? そんなのおかしいよ。なんであの人の思う通りにならないといけないの?」
今のあたしたちは薫子さんに支配されていると言ってもいい状態だ。そう思うとさらに怒りが沸いてきた。
「あたしはもう、おびえて暮らすのは嫌」
自分の言葉に興奮してきたのを自覚したけど、止められなかった。
「もっと自由に、だれのことも気にしないで圭季と色んなことを楽しみたいのっ」
あたしのその言葉に圭季は目を見開いてこちらを凝視してきた。
「圭季とデートって、水族館とぶどう狩りしかしてない」
だから、とあたしは続けた。
「今日、圭季が誘ってくれたのがすごくうれしかったの」
それなのにその貴重なイベントを薫子さんに潰されそうになった。
「今まで、圭季たちに守られてきた。臆病だったあたしはたくさんの制約とともに圭季たちの背中に隠れて過ごしてきた」
そうしなければならなかったのは、あたしに色んな覚悟が足りなかったせいだ。
でも今日のことで気がついた。
このままでいいの? と。
こんなに幸せで楽しい時間をあたしは今まで放棄させられていたのだ。代わりに与えられたのは我慢。
「我慢するのは、もう嫌なの」
気持ちが高ぶりすぎて、身体が震えているのが分かった。油断したら涙まで出そうだった。
次の言葉を継ごうと考えたけど、頭に血が上った状態ではなにも思いつかない。そのことがより感情を高ぶらせた。口を開いたら言葉ではなく嗚咽が洩れそうで、我慢をするために下唇を噛みしめた。息を吸い込むと、ひゅうっと音が鳴った。
圭季はあたしの頭から手を外すと、ジャケットのポケットをまさぐり始めた。あたしが今にも泣きそうなのを察して、ハンカチでも探しているのだろうか。ハンカチなんていいから抱きしめてほしい。
……なんて思うのは贅沢な望み?
圭季からしてもらえないのなら、あたしから歩み寄って抱きついてもいいかな?
ずっと受け身でいても現状は変わらない。あたしは充分に待ったと思う。変わらないのなら、変えなくてはならない。そして変えるのなら、自らが動かないと駄目だ。
と、意外に冷静に頭の片隅で考えている自分に驚いた。思っているよりもしたたかになっているのかもしれない。
「チョコ」
そんな不純な思考を断ち切るような真剣な圭季の声。
圭季にあたしが考えていたことなんて知られることはないはずなのに、恥ずかしくて頬に熱が宿った。頬を押さえて誤魔化そうかと手を上げようとしたところ、視界が暗くなった。
えっ、なにっ?
戸惑ったけど、すぐに腕ごと拘束……もとい、抱擁されていることに気がついた。
あたしは今、圭季に力一杯、抱きしめられている。
「謝って済む問題ではないのだろうけど……」
あたしは今、くらくらするほど圭季の匂いと熱を感じていた。いつもより圭季を熱く感じるのは、あたしの体温が低くなっていたからなのか、それとも圭季が熱いのか。
もぞもぞと身体を動かすと、少しだけ腕の力を緩めてくれたのでそっと圭季の腰に腕を回した。
「……結局、おれはなにも変わっていなかったってことか」
自嘲気味な声に、あたしはそっと視線を上げた。
「那津と梨奈にあんなに怒られたのに、おれは結局、チョコを小さなかごの中から少しだけ大きなかごに移しただけだったんだな」
小さなかごから少し大きなかごって……要するにマトリョーシカ状態ってこと?
言われてみればそうかもしれない。
薫子さんから受けた仕打ちにあたしは恐怖して、圭季の作ったかごというか檻というか……チョコだから箱詰め?
その中であたしは圭季に飼われていた……。
かごの中の鳥ならぬ、箱の中のチョコってなんだかとっても美味しそうだけど。
殻を破るってより、箱から飛び出す気分。
あたしは箱の中から飛び出すことにしたけれど、そもそもどーして箱に閉じこめられていたんだっけ?
闇雲に飛び出しても、根元にある問題は解決していないのだ。
いつまでも逃げていては駄目だ。
あたしはもっと色々なことを圭季と楽しみたい。
そのためにやらなくてはならないことがある。
怖いけど、避けて通れない出来事。
楽しい未来を実行するためには。
あたしがやるべきこと。
そのことを考えたら背筋が凍り付くけど、この気持ちをずっと抱えて過ごしたくない。
あたしは箱から飛び出して、圭季と色々楽しむための未来を自らの手で作り上げることにした。
【つづく】