《四十七話》期待外れ
あたしが部屋に入ってドアが閉まったのを確認した圭季は、あたしの手首を掴むと横に座らせた。
それを見て那津はにやにやしていた。
あたしは那津を睨みつけてから圭季に視線を向けた。
「今回の騒動で椿さんは橘製菓を退職することになった」
「ようやくか」
那津の感慨深そうな声。
「彼女の抱えていたクライアントと店舗のほとんどをおれが引き継ぐことになった。引き継ぎが終わるまではしばらく二人で行動が多くなるけど、チョコには誤解してほしくない」
その一言に那津は盛大なため息をついた。
「あいつ、未だにやってるんだ」
「……ああ」
二人は苦虫を潰したかのような表情で同時にため息をついた。
「あそこまで行くと病気だな」
びょーき?
「男と見れば相手の立場なんて考えもせずべたべたするなんて異常だ」
椿さんの行動を思い出して納得した。やたらに圭季に触っていた。そのせいてあたし、調子が悪くなったんだった。
とそこで素朴な疑問がわいた。
「男の人ならだれにでも?」
「……ほとんど」
それなら。
「……父には?」
あのぷよぷよなお腹とか触るのかしら?
「雅史さんには……どうだろう?」
圭季はしばらく考えてから口を開いた。
「近づかれたら急いで遠ざかっていたな、そういえば」
なんと……!
あの父にも触ろうとしているなんて無節操にもほどがあるわ!
「社内はともかく、店舗は女性率が高いからあまり問題にならなかったってところか」
那津が妙に大人びた口調で呟いた。
「ようやくあそこからいなくなってくれるのは良かったけど、今度は野に放たれた猛獣だから困ったことにならなければいいけど」
猛獣って……。
「そうなったら俊平と薫子の立場がますます悪くなるだけだ。さすがにそこは分かっているだろう」
唐突に出てきた名前にびくりと身体を震わせた。
どうしてそこでその名前が……?
俊平──あたしにはヘンタイ椿の方がしっくり来るんだけど──は椿さんの義理の息子ってのは分かる。椿さんが変なことをしたら義理の息子である俊平の印象が悪くなるのも分かる。
分からないことを分からないままにしておくのはなんだか気持ちが悪い。聞くことをためらわれたけど、この時を逃したら次はないかもしれない。手のひらには妙な汗。ぎゅっと拳を作って意を決して聞いた。
「ど……して、薫子、さん……が?」
緊張もしたし声も途切れ途切れで震えた。それでも聞くことは出来た。ただ、声が小さすぎて向こうには聞こえなかったかもしれないけど。
しばらくの沈黙の後、那津が口を開いた。
「椿家と桜家は親戚なんだ」
「親戚……?」
「薫子さんの母親が、俊平の父親と兄妹なんだ」
えっ……と?
あたしは頭の中に家系図を思い浮かべた。
薫子さんの母親と、俊平の父親が兄妹?
ということは、従姉弟ってことか!
那津からあの二人が親戚とは聞いていたけどどういう繋がりかよく分かっていなかったので、ここではっきりしてすっきりした。
「それじゃあ、オレは戻るよ。ごゆっくり~」
那津はニヤケ顔でそんな言葉を残して部屋から出ていった。
……………………。
あたしと圭季の間に、変な沈黙が落ちた。こんなとき、どうすればいいんだろう。身じろぎどころか呼吸するのもなんだか怖い。
息を詰めていると、掴まれた手首からするりと手が滑り降りてきて、手の甲を包み込まれた。
あたしの心臓は思い出したかのように鼓動を早めた。息を詰めていたのもあり、とても苦しい。意識して息をしようとしたら、ますます苦しくなってきた。
あたし、今までどうやって息をしていたんだろう。
えーっと、ひっひっふーだったかしら?
ってそれ、ラマーズ法!
とまたもや脳内で一人ボケツッコミをしてしまったけど、変な緊張は解けなくて息苦しさが加速されただけだった。我ながらお馬鹿すぎるわ。
圭季の手のひらの下で拳を作り、助けを求めて反対の手で圭季に掴まった。
「……チョコ?」
驚いたような声がしたけど、すぐにぐっと身体を引き寄せられた。
意図したわけではなくて苦しさから逃れるために掴まったのだけど、なんだかこれではあたしがものすごく積極的に見えないっ?
それにあたしも圭季もパジャマ姿。あたしはカーディガンを羽織ってるけど、それでもいつもより薄手だから圭季の体温をいつもよりダイレクトに感じる。こっ、これは……!
言い訳を、と考える間もなく圭季はあたしの髪を撫で、するりと頬に手を当てて上向かされた。
圭季と視線が合って、あまりの色気にひゅっと喉が鳴った。息苦しさが増す……!
上手く息が出来なくて、空気を取り入れるためにうっすら唇を開いていたことも災いした。
唇が重ねられると同時に圭季の舌がぬるりと入り込んできた。
あたしはそれを夢中で受け止めた。
。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+
おはようございます。
なんでしょうか、この状態。
目が覚めたら圭季にがっちり捕らえられたままなんですけど。
あ、昨日はですね。
……ふっ、ふふふふ……。
ごっ、ご想像にお任せシマス!
それにしても、羨ましいくらい穏やかに寝ているわ。忙しかったみたいだし、ほっとしたんだろうな。
あたしの覚悟がどれだけのものだったか知らないから、こうやって寝ていられるのよねっ!
ここで怒ったら駄目だって分かっているけどっ!
怒ったらあたしがすっごくふしだらな女だって証明しているようなものだから、怒ったら駄目……!
とまあ、なにがあったのか……というより、なにもなかったということがバレバレなんだけど。
だってさ、ご飯を食べて、お風呂に入ってから部屋に来るようにって言われたら、とうとうそのときが? って覚悟するじゃない? だってあたしと圭季は婚約者なのよ?
べっ、別にそーいうことをしたいって訳ではないんだけどっ!
あたしだって年頃の娘だし興味がないわけではないのよ?
肩すかしを食らったというか。
……考えただけでなんだか虚しくなってきたのでもう止めよう。
そもそも、こうやって妙に圭季の生々しい気配と温もりを感じているからいけないんだわ。
よし、離れて着替えよう!
だからあたしは圭季の腕の中でもぞもぞと動いて抜け出そうとした。そうしたら圭季はうーんと身じろぎをして、あたしをさらに引き寄せた。
うううっ、動けないじゃないっ。
「圭季……」
気持ちよさそうに寝ている人を起こすのは申し訳ないなって思ったから遠慮がちに声を掛けたんだけど、まったく起きる気配なし。
視線を動かして時計を見ると、十時を過ぎていた。
今日はあたしも圭季もお休みだから起きないといけないという時間はないけど、寝て過ごすってのはもったいなさすぎる。
せっかく広いキッチンがあるし、道具もそろっているから一緒にお菓子でも作ろうと思ったのになあ。
うん、やっぱり起こそう!
「圭季、起きて」
圭季の腕の中でゆさゆさと揺さぶって起こす。やはり圭季は起きる気配なし。
昨日もまあ、あたしも息が詰まって苦しかったから、あれ以上、進まなくて助かったけど、いちゃいちゃしてる途中でいきなり電池が切れたように動かなくなったときはびっくりした。
なんかよく分からないけど、これから大変そうだってことだけは分かった。
あたしは少しずつ圭季を揺さぶるのを強くしていったけど、まったく起きない。
普段、どうやって起きてるんだろう……。
「圭季、起きてっ!」
髭が伸びている顎に強めの刺激を与えながら呼びかけると、ようやくうっすらと目を覚ました。
「……ん? チョコ?」
とろんと未だに夢の中を微睡んでいるかのような表情にきゅんとしたけど、駄目よ、起こさなければ!
「圭季、起きて!」
あたしはお昼前まで圭季を必死に起こす羽目になったのでした……。
【つづく】