《三十五話》災難
舌打ちした薫子さんはあたしを憎々しいと言わんばかりに顔を歪め、にらみつけてきた。
きれいな顔をしているのにそんな表情をするなんてもったいないと思います。
「まったく、相変わらず酷いのね」
酷いのはどちらなんでしょうか……?
それよりも薫子さん、ど平日のこの時間にどうしてここにいるのでしょうか。
あたしは疑問に思い、尋ねてみた。
「薫子サン、お仕事は?」
それはどうやらしてはいけない指摘だったのか、薫子さんの表情が凍り付いた。
「わたくしのことなんて今は関係ないでしょう! とにかく! とっとと圭季と別れなさいっ! これは命令よっ!」
命令と言われても、困るんですけど。
「あたしは圭季と別れるつもりなんてありませんから」
あたしのきっぱりとした宣言に、ぎりぎりぎりという凄まじい音が聞こえた。
……なに、この音。
さらにダンッという音がトイレ内に響き、実はピンチだということにようやく気が付いた。
この状況はいわゆる、『前門の虎、後門の狼』ってヤツですね。
……なんて呑気なことを言っている場合ではなくてっ!
どちらがマシか、よねえ。
この場合、は。
あたしは深く考えることなくくるりと翻り、トイレから出ることにした。
どちらにせよ、次の授業があるからぐずぐずしていられないというのもある。
薫子さんはあたしがトイレから飛び出すことを想定していたようで、思ったよりも素早く腕を伸ばしてきているのを目の端で捕らえた。
身体を捻って腕を避けたつもりでも、あたしの運動神経では理想と現実ってヤツがかみ合わなかったようだ。
「いたっ」
綺麗に伸ばしていた爪があたしの手の甲を引っかき、指を数本、無理矢理掴んだ。
「逃がさないわ。圭季と別れると言うまで離さないから」
掴まれた指先は酷く冷たくて、ぞっとした。
あたしは腕を振って薫子さんの指を離そうとしたけど、反対の手まで伸びてきて、手首をがっつりと掴まれてしまった。
次の授業が始まってしまう……!
「薫子さん、叫びますよっ?」
薫子さんはここの卒業生のはずだけど、今のこの状況は明らかに不法侵入。
「あら、叫べばいいじゃない?」
しれっと返してきたけれど、気のせいかその手は震えている……?
それならばとすうっと空気を吸い、息を吐こうとしたところで口にハンカチを当てられ、どすんと鳩尾の辺りを殴られた。
噂には聞いていたけど、本当に星が見えるのね……。
なんて呑気なことを思っていると再度、鳩尾に衝撃。
息が詰まり、気が遠くなった。
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……身体が痛い。
特にお腹の辺りが……いや、もうちょっと上?
とにかく、今まで痛みを感じたことのない場所がずきずきと痛む。
そればかりか、身体の他の場所も痛いんだけど……。
「もがっ」
声を出そうと口を開いたら、なにかに阻まれた。
……えっと、そもそもあたし、どーしてこんなことになってるの?
重たいまぶたを開こうとしたけど、こちらもなにかに邪魔された。
そしてようやく思い出した。
学校のトイレで薫子さんと遭遇して、殴られたんだ。
それで気絶をして……。
って、ここはどこっ?
「もがもがもがっ」
だれかいないかと思って叫ぼうとしたけど、猿ぐつわをされているのを忘れていた。
目隠しされてるから見えないけど、感覚で分かる。手は後ろで縛られているし、足もそうだ。
……四月に入ってから災難続きのような気がするんだけど、あたし、なにか悪いことをやった?
うーんと考えて、そうだと思いたくないけど、一つだけ思い当たることがあった。
それはあたしにとっては悪いことではなくて良いことなんだけど、だからってあたし以外の人みんなにとっても良いことだとは限らない。
特に薫子さんにとっては悪夢の出来事……なんだろうな。
やっていいことと悪いことの区別が付いていないくらいだもの、よっぽど壊れているんだろうなあ。
……なんてのほほんとしていられなくて。
さすがに命まで取るような暴挙には出ないとは思うけど……。
いや、分からないか。
薫子さんにとってはあたしは邪魔者。
あたしを殺してでも圭季を手に入れたいと思っているのかもしれない。
だけど、そんなことをしても薫子さんの望む結末にはならないのに。
自惚れてるとかそんなのではないけど、昨日の圭季の様子を見ると、薫子さんの望む展開はどちらにしても無理。
うん、言い切っちゃう。
無理!
逆に薫子さん的にこんなことをしたら余計に不利になると思うんだけどなあ。
あたしがいなければ、圭季は薫子さんを選んだのかな?
こればかりは圭季本人の気持ちだから、まったく想像も付かない。
……いやそれより、いくら授業が始まっているとはいえ、人目のある学内からどうやってあたしを運び出したのだろう。
それともここはまだ学内?
だとしたら、学内に協力者がいるということになるけど……。
なんだか嫌な繋がりを一瞬、想像しちゃった。
ありそうだから怖いっ!
そんなことはないと思いたいけど、思いたいんだけどっ!
ここがどこであれ、どうにかして脱出しなければならない。
んだけど。
もぞもぞと動いたくらいで縛られている手足も、目隠しも猿ぐつわも外れるわけがなく。
うーん、どうしよう。
ここが学内と仮定しよう。
薫子さんと遭遇したのは、ヘンタイ椿に追いかけられて避難した先のトイレ。
あたしの行動を読んだようにいた薫子さん。
ヘンタイ椿と薫子さんがグルだとしたら……?
グルだとしたら、ではなくて、この様子ではグルだとしか思えない。
金曜日に那津のお母さんの命令ではないと言っていたけど、ヘンタイ椿単体の行動ではなさそうだったものね。
ということは、今までの騒動は薫子さんのせいだったのか!
そしてあまりにも成果がでないからじれて本人が出てきた、と。
なんというか、人を使ってまであたしを排除しようとするのってどうなんだろう。
卑怯じゃない?
堂々と勝負しなさいよ! と思う。
…………。
首謀者がだれであれ、協力者がいてもいなくても、今の状況がなかったことになるわけではないから、どっちでもいいわ、今は。
今はとにかく、出来るだけ痛い目に遭わないで無事に帰りたい。
……授業、無断で休んだことになってるけど、この場合はどうなるんでしょうか。
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あたしの意識が戻ってから、体感でかれこれ三十分は経ったと思う。
それなのにだれかが来る気配もない。
もしかしなくてもあたし、ここに放置?
ここがどこか分からないけど、学内にあまり人が来ない場所ってあるから、そこに連れてこられていたらこのまま夜を過ごすばかりか、最悪の場合は餓死?
いやいや、さすがにだれか来ると思いたい。
あたしは急に怖くなり、耳を澄ませた。
……なに一つ音が聞こえない。
目隠しされているから、昼なのか夜なのかさえ分からない。
今の状態で分かるのは、匂いくらい。
くんくんと匂いを嗅いでみる。
埃っぽいような気がしないでもない。
あとは……うーん。
取り立てて臭いはないかもしれない。
音と臭いで場所を特定するなんて無理か。
そして出した結論は、自力での脱出は無理、だった。
【つづく】