《三十四話》黒幕のご登場
圭季が酔っぱらってあたしを押し倒した事件以来、圭季にこんなに近づくのは久しぶりかもしれない。
あれからずっと圭季さえ怖かったけど、今は怖いという気持ちよりも、もっと近づきたい、側にいたいという気持ちの方が大きい。
離された唇を名残惜しく思っていると、今度は圭季自らの口にクッキーを放り入れ、再び唇が重ねられた。
あたしは圭季の両腕に手を掛けて、雛鳥が親鳥に餌をねだるように顔を上げ、圭季の唇を受け止めた。
口の中でクッキーがどろどろに溶けていく。
上手く飲み込めない物が口の端から滴り、かなり恥ずかしい。
口の中のクッキーがなくなると圭季は口を離し、こぼれた滴を舐めとった。
その行為がくすぐったいのと同時に気持ちが良くて、圭季の腕を掴んでいた手に力がこもった。
「……こうすればチョコが作ったお菓子じゃなくても食べられるみたいだ」
ひどく掠れた圭季の声が色っぽくて、どきりと心臓が跳ねた。あたしは動悸を悟られないように注意深く口を開いた。
「こっ、こうやればお菓子を食べることが出来るのなら、手伝う……よ」
あたしをじっと見つめている圭季に下心が混じっているのを見透かされているようで、最後はしどろもどろになってしまった。
「土日だけで良いから、つき合ってくれるか……?」
すがるような視線をされなくてもそのつもりでいたから、あたしは大きくうなずいた。
「もちろんですっ!」
あたしの返事に圭季はあからさまに安堵した表情を浮かべた。
圭季の表情を見てほっとしたものの、どうしてか後ろめたさを感じていた。
それはたぶん、圭季の弱みにつけ込んで、あたし一人が気持ちよくなっているからだろう。
だけど、圭季との『大人のキス』はとっても気持ちが良くて、もっと感じていたいと思ったのだ。
……ああ、おとーさま、おかーさま、こんなふしだらな娘に育ってしまって、ゴメンナサイ。
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その日は圭季と買い物に出掛け、お菓子用の材料を買い込んだり、一緒に夕飯を作ったりした。
こうして圭季と長く一緒に過ごすのは、本当に久しぶりのような気がする。
こうした何気ない日常がすごく嬉しい。
そして、とても充実した休日を過ごした後の平日は、ひどく憂鬱だ。
しかも学校に行くと気が重たいことの目白押しだ。
このまま永遠に休みが続けばいいのに。
目覚まし時計に叩き起こされ、仕方なくのろのろと布団から這いだした。
着替えてから洗面所経由でキッチンに行くと、昨日のことが嘘のようにがらんとした空間が広がっていた。
日常に戻っただけなんだけど、昨日があまりにも濃厚で……。
って、お、思い出しただけで頬が熱くなるのはそのっ、じょ、条件反射よっ! 昨日のことを思い出したなんてっ!
…………っ!
あああ、だめよ、だめだめっ!
改めて思い出したりしたら、駄目だからっ!
そう思えば思うほど、ノンストップで思い出してしまう。
あー、あうあう。
頭を壁にぶつけてみたり、テーブルに乗せてみたりするのだけど、この場所だからなのか、鮮明に蘇ってきてしまう。
「……チョコ?」
そんな奇行を繰り広げているところに、タイミング悪く父がやってきてしまった。
「ぎゃあああっ」
うわああ、見られてしまったっ!
「朝から随分と楽しそうだね」
「や、これはっ! こ、心を落ち着かせよーとして……」
父はあたしの挙動不審な行動を見ても慣れているからか、ふーんとだけ呟き、冷蔵庫へと向かっていた。
娘よりも食い気、らしい。
まあ、それについてはあたしも賛成。悶えたせいでお腹が空いてきた。
父はあたし用の朝食も取り出して一緒に電子レンジに入れて、温めてくれた。
「そういえば、圭季くんから聞いたよ」
「なっ、なにをっ?」
ちょうど圭季とのアレコレを思い出していたので、とっさにアレを思い出したけど、いやいや、さすがにあんなことをしたって圭季が父に伝えるわけがないわよね。
……よねっ?
「チョコに色々と手伝ってもらったと言っていたけど、圭季くんはようやくチョコに告げられたのかな?」
えーっと。
お菓子が苦手って話のことかしら?
「ぼくは直接は知らないんだけど、綾子さんからすごくひどかったと聞いてたから克服できるのか心配していたんだけど」
どれだけすごかったんだろう。
「だけどこればっかりは本人の努力と、チョコの協力が必要不可欠というか」
温まった朝食を口にしながら、父はぽつぽつと話を続けた。
「お菓子が好きなチョコにしかできないことだから、頼んだよ」
「はい」
父に頼まれなくてもあたしは圭季の役に立ちたいと思っているから、協力は惜しまない。
食べ終わった食器の片付けを請け負い、出社する父を見送った。
「あ、お父さん。学校が終わったらアルバイトの面接に行ってくるね」
「ああ、分かった。今度のところは大丈夫だけど、気をつけて行っておいで」
「はーい、いってきます。お父さんも気をつけてね」
「ありがとう。いってくる」
巨体を揺らしながら、父は玄関を出て行った。
鍵を掛けてから、キッチンへと戻った。
食器を洗って、部屋に戻ってカバンを持ち、冷蔵庫に入れてあるお弁当を取り出して、あたしは大学へと向かった。
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金曜日にあんなことがあったにも関わらず、ヘンタイ椿は健在だった。
「やあ」
と当たり前のように現れたとき、条件反射的に悲鳴を上げてしまった。
しかも授業が終わった教室の外で待ち伏せよ? それってどうなのよ。
悲鳴を上げてしまったけど、ここは無視無視。
向こうもあたしがまともに取り合わないのが分かっているからか、それ以上はなにも言ってこなかった。
……と思ったのは甘かった。
無言で付いてきているのですがっ!
ちょっ、ストーカー?
どどど、どーしよー。
…………。
そうだっ!
あたしはカバンを握りしめると、女子トイレに駆け込んだ。
さすがに女子トイレまでは入ってこないだろう。
……と思ったのが間違いだったと気が付くのに、そんなに時間はかからなかった。
「久しぶりね」
……えーっと、見覚えはあるんだけど。
「……どちらさまですか?」
「あなたねっ!」
腰まであるストレートの黒髪に身体の線を強調する赤いワンピース。
喉元まで名前が出かけてるんだけど、どうしてか思い出せない。
圭季にやたらに絡んでいた、えーっと。
ここのところ色々ありすぎて、記憶がこぼれ落ちてしまったみたいだ。
必死になって思い出そうとするのだけど、あたしにとって目の前の人物は印象が良くないようで、名前が出てこない。
そんなあたしにさすがに苛立ったようで、かつかつとヒールを鳴らし、名乗ってくれた。
「桜薫子さまを忘れるなんてっ!」
そう言われてもすぐには思い出せなかった。
桜……?
「……ああっ!」
薫子さんでしたか!
あまりにも久し振りすぎて、忘れていました。
薫子さんはちっと舌打ちをして、あたしをにらみつけてきた。
……怖いです!
【つづく】