《三十六話》孤独
自力での脱出は無理、ということは。
最悪の場合、だれにも気が付かれることなく、ここで野垂れ死ぬ……ということを意味するわけで。
「う゛……っ」
口を覆われているから、嗚咽さえくぐもって満足に音が出ない。
しかも目隠しもされているから、涙も吸い込まれてしまう。
泣いたって解決しないのは分かっているけど、心細くて勝手に涙が出るのだ。
だれか早くこの異常な状況に気が付いて……!
と心の中で叫ぶものの、そういえばあたし、今日は新しいアルバイト先に連絡をしてから訪ねる予定だったんだ。お昼時間に連絡を入れようと思っていたのが災いした。
父には遅くなると伝えているし、発見が遅くなるのは確実だ。
タイミングが悪すぎる。
だ……だけど、だ。
遅くなってでもだれかがあたしがいなくなったことには気が付いてくれる……はず!
それを信じるしかない。
となると、あたしに出来ることは数少ない。
助けが来るまで我慢すること。
ただ待つだけだと辛いから、体力を温存しつつ、手足の拘束をどうにか外す。
そうすればここから自力で出て行くことが出来る。
シトラスの時みたいに鍵が掛かっていたらお手上げだけど。
……だめよ、チョコ。
今はマイナスのことを考えたら!
ひたすらここから出られることだけ考えるのよ!
さて、今のあたしの状況をもう一度、確認しよう。
目隠しに猿ぐつわはハンカチのような布が使われているみたい。腕は後ろに、足は両足揃って、こちらはたぶん紐だと思う。
手首の縛りも足首の縛りも余裕がなく、きっちりと縛られている。
紐の材質はなんだろう。ビニール紐なら少しずつになるけど、崩して解くことが出来そうだ。
手首を捻ってみるけど、紐に指の先さえ届く様子がない。
うう、指が短いのが恨めしい。
圭季なら届くのかしら?
こんな状況にも関わらず、圭季の指を思い出して恥ずかしくなった。
──そんなことが考えられるだけ、この時のあたしにはまだ余裕があったみたい。
どうすればこの拘束を解くことが出来るのか考える。
指が届かないのなら……うーん、周りが見えないからなあ。
なにか尖ったものがあればそれにこすりつけるなんてことも出来るんだけど、どうやらそれさえも無理そうだ。
うーんと考えるけど、妙案は浮かばない。
どれだけ時間が掛かるのか分からないから、下手に動いて体力を消耗しないようにしながら確実に出るための情報を探る方がいいかもしれないと思い、じっとして周りの音を注意深く聞くことにした。
耳を澄ませてもなにも聞こえない。
……と思っていたら。
なにか聞こえてこない? 気のせい? 願望?
逸る気持ちを必死に抑えて、注意深くあたりを探る。
バタンだとか、ドンっという音が聞こえてきているような。
なんだろう。
確認しようともぞもぞと身体を動かしてみたら、手首を縛っている紐が皮膚に擦れ、痛みが走った。
だからあたしは動くことを止めて、まるで芋虫のように横たわっているしかなくて。
なんか、すっごく惨め。
幸いだったのは、今日はパンツを穿いてるってこと。これがスカートだった日には恥ずかしくて悶えまくらなくてはならなくところだった。
……これからはスカートは穿かないようにしよう。
と考えているうちに、バタンっという音はすぐ側で聞こえたような気がした。
それではここは倉庫みたいな場所ではなくて、部屋が複数あるような建物の中ってこと?
学内にそんなところあったかしら……?
耳を澄ませると声が聞こえるような気がした。
『そっちは?』
聞こえた声にドキッと心臓が跳ねた。
けーきだ。
圭季の声だ。
『……ない』
少し遠いけど、こちらも聞き覚えのある声。
圭季と那津の二人があたしを探してくれている?
あたしは自分の居場所を知らせようとしたのだけど、どうすればいいのかしら?
『こっちにはもう扉はないな』
……えっ?
『だけどっ!』
『俊平を捕まえろ。ヤツがチョコの居場所を知っているはずだ』
圭季と那津の声が壁越しだろうけどすぐ側でするのに……!
紐が手首に擦れて痛いなんて言ってられない。
あたしはここだってどうにかして伝えたい!
だってここを逃したら、最悪な場合、圭季に会えないまま……。
その先の言葉を考えて、あたしは恐ろしさのあまり身体がぶるりと震えた。
嫌だ。
そんなの、いや。
だから痛みを我慢して、必死に手足に力を込めたんだけど……。
手首は擦れるし、足首も変に締まって痛い。
あたしの予想では、身体が大きく揺れて床を鳴らすはずだった。
なのに思ったように身体は動かないし、音さえも出ない。
『圭季、もう少し探してみよう。チョコちゃんはこのあたりにいるよ』
那津の言葉にあたしは大きくうなずいて同意した……つもりだったけど、実際にはほとんど動いてなかった。
『……確かにこのあたりにいそうな気配はある。おれが探すから、那津はなにがなんでも俊平を捕まえろ』
『分かった』
那津は返事とともに走り去ったみたい。足音が遠ざかっていく。
圭季は一人になったようだ。
あたしの側の壁がドンッと強く叩かれた。思わずびくりと身体が跳ねた。
『…………ん?』
圭季の訝しげな声。
それからダンッ、ドンッと続けざまに壁が叩かれた。
『チョコ?』
「んんんんっ!」
あたしはここにいるって叫んだつもりが、猿ぐつわのせいで声にならない。だけど布越しの声が向こうに届いたのか、圭季はさらに壁を叩いてきた。
そしてなにかを確信したのか、壁を叩く音が先ほどより強くなった。
『くそっ』
圭季の悔しそうな声。
壁は叩かれる度にミシリと音を立てているけど壊れそうにはない。
あたしは目隠しもされているからここがどんな場所か分からない。
分かっているのは、手首を縛られ、猿ぐつわをされ、さらには目隠しもされて、固いところに投げ出されているということだけ。
それ以外に出来ることは、助けが来るまでひたすらに我慢をするということだけ。そしてその助けはすぐ側まで来ている。
だけど後一歩というところで探索してくれている圭季と那津はあたしを見つけられないでいる。
だんっと一際強く壁が叩かれた後、急に静けさを取り戻した。
そして次に聞こえたのは、苛立ちを押さえられない感じに荒々しく遠ざかる足音。
……え?
ちょっと待って?
「んんんんっ!」
やだっ。
あたしはここにいるのに!
圭季、あたしを置いて行かないで……!
必死に身体を動かすけれど、やっぱり大して動かない。手首の紐はぎりぎりと皮膚を傷つけ、あたしに痛みだけを与えていく。
ふいに目隠しがじわりと濡れ、熱い感覚がした。
「うっ……」
喉から勝手に嗚咽が洩れる。
そして遅れて、感情があふれだしてきた。
世界に一人っきりになったかのような恐怖と。
置いて行かれた悲しさ。
そんなことはないって思っても、絶対に見つけてもらえると思っていても。
今、この時、この空間にあたし独りっきり。
父一人、あたし一人という環境だったから、一人でいる時間というのは多かった。
淋しいって思うことはあったけど、今みたいな孤独な気持ちにはならなかった。
壁を隔てた向こうに、あたしが大好きな人がいる。
動けたら、この戒めが一つでもなかったら。
あたしはここだって伝えられるのに。
身動きとれない自分が悔しくて、さらに涙があふれた。
【つづく】