『チョコレートケーキ、できました?』


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《二十六話》言い返す強さ



 ざーっと室内の空気が下がったような気がした。
 あたしは呆然と平井出教授を見ていることしか出来なかった。
 平井出教授は教室内を見渡し、それからあたしを見た。

「都くん」

 いきなり名前を呼ばれ、あたしは驚き立ち上がった。

「個別に話がある。部屋に来なさい」
「はい」
「それから」

 と平井出教授は数人の名前を上げた。

「今、名前を呼んだものも部屋に来るように」

 それだけ告げると平井出教授は教室から出て行こうとしたが、振り返ると付け加えた。

「ああ、名前を呼んだ人たち、来るのは今すぐだ。私の後についてきたまえ」

 そういうと今度は振り返らずに出て行った。あたしは鞄を持ち、部屋を出ようとした。

「そうやって取り入ってるんだ」

 入学してすでに二週間目になるというのに、あたしはまだそうやって突っかかってくる彼女の名前が分からないでいた。
 こんな状況で空気を読まないで名前を聞くのもおかしいし、今はそれどころではない。
 それにあたしは取り入っているつもりはまったくなかったのでそれだけは否定しておきたかった。

「そんなつもりは……!」

 言われたから従うまでで、それ以上でも以下でもない。

「いいご身分よね」
「橋内」

 教室の外から鋭い声がした。あたしになにか言ってきていた女性は首をすくめつつもあたしを睨み付けてきている。
 どうやら彼女の苗字は橋内というらしい。

「行くぞ」

 その一言に名前を呼ばれた人たちは無言で教室から出た。

「都くん、私の部屋は分かるよな」
「え……、あ、はい」
「先に行っていたまえ」

 そういうと平井出教授は教室の中へと戻っていった。
 あたしは周りの人たちと顔を見合わせた。困ったような表情を向けられたけど、あたしはうなずき歩き出した。

 平井出教授の部屋はそれほど遠くなくて、あたしたちはすぐに着いた。
 ノックをしても中からは返答はなかった。以前に質問があって訪問したときに本人が言っていたのだけど、助手はいないらしい。
 鍵が掛かっているかと思ったのだけどドアノブをひねると簡単に開いてしまった。学内とは言え、不用心だと思う。
 そういえば平井出教授は手にはなにも持っていなかったから、一度戻り、あたしたちの様子が気になって見に来たのかもしれない。
 もしも外に待ち構えていたのなら、橋内さんはあんな暴言、吐かなかったと思うから。
 遠慮しながら中に入る。
 室内には研究用の資料だと思われるものが所狭しと積まれていて、下手に触れると崩れ落ちてきそうで怖い。
 あたしたちは気をつけて中へと入り、真ん中の長机に近寄った。
 そこにも当たり前のように本などの紙物が山のように積まれていたけど、椅子が何個か置かれていた。

「座って……待ちましょうか」

 人数分の椅子があるのか怪しかったけど、あたしたちはとりあえず座ることにした。
 予想通り椅子は足りなかったけど、部屋の隅に折りたたまれたパイプ椅子が何個かあったのでそれを広げると、どうにか人数分はあったようだ。
 あの様子だと下手に口を開いたら怒られそうで、あたしたちはただ黙ってじっと待っているほかなかった。

 平井出教授が部屋に戻ってきたのは、授業終了の五分前だった。

「思ったより時間を取られてしまい、申し訳ない」

 少し憔悴した様子で戻ってきた平井出教授は、あたしたちが静かに待っていたことになぜか苦笑していた。

「議論でもして待っていても良かったんだぞ」

 と言われても、入学して間もないあたしたちには共通の話題はない。
 平井出教授は机の上に無造作に置いていたカップにインスタントコーヒーの粉を入れ、ポットからお湯を注いで入れていた。安っぽいコーヒーの香りが部屋に充満する。

「時間がないから今日は来週の授業用のレポート作成についてだけ話をする」

 うへぇ。授業してないのにレポートですか。ちょっとだけうんざりした。
 平井出教授はコーヒーを淹れておきながら、カップを机に置いた。

「私はいじめは嫌いだ。なぜなら、そこに正当な理由などないからだ」

 その言葉を聞き、おずおずと眼鏡を掛けた男性が手を上げた。

「なんだ、下杉」
「正当な理由があればいじめをしてもよい、ということですか」

 下杉くんの質問に、平井出教授は眉をしかめた。

「いじめに正当な理由などない。なぜなら、いじめだからだ」

 平井出教授は机の前に置いてあったキャスター付きの椅子に腰掛けると、くるりと椅子を回転させてあたしたちに向き合った。

「いじめの定義というのは『肉体的、精神的、立場的に自分より弱い者に対して暴力や嫌がらせなどによって一方的に苦しめること』だ。このどこに正当性が存在する?」

 しんと静まり返る。

「先週の授業で私が都くんが遅刻してきたのをさほど咎めなかったのが、橋内くんたちに反感を買ったらしい。私に直接そのことについて抗議をするのならともかく、許した私ではなく都くんに矛先を向けるのは間違っていると説明はしてきた」

 どうやらそれはキッカケらしいのだけど、平井出教授がどこまで聞いているのか分からなかったので口を閉じていた。

「どうやら彼女たちの話を聞くと、他の授業でも遅刻をしてきたらしいね、都くん」
「え……あ、はい。その、すみません……」

 入学式も遅刻しました、なんて言えないでいた。

「慣れない大学生活というのもあるだろうが、何事においても遅刻はいかん」
「……はい」
「しかし、だからといってそれがいじめをするための正当な理由というのは間違っている。遅刻をしたのなら注意して次はしないように気をつけさせる。それで終わりだ」

 平井出教授は確認するようにあたしたちの顔を見回した。

「私の授業の場合、遅刻者は受けさせないというのが基本だ。ただ初回の授業のみ五分ほどの遅刻なら見逃すことにしている。今回の件が初めてというわけではない」

 平井出教授が口を閉じると、部屋の中は静かになった。
 と同時に授業の終了を告げるチャイムが鳴り響く。

「おや……。それでは今日の授業はなんだか中途半端だったが終わりにしよう。来週の授業までに今日の出来事をレポート用紙に一枚以上で考えを書いてくること」

 え、今日の出来事?
 平井出教授の授業とまったく内容が違うんだけど……。
 戸惑っているのはあたしだけではなかったようだ。

「自分の今までの体験でも、今回の件でもなんでもいい」

 と言われても……。

「さて、終わりだ。おまえたちは次にも授業があるのだろう?」

 そうだった。

「ありがとうございました」

 あたしは立ち上がり、平井出教授に頭を下げた。

「まあ、君ももう少し言い返すくらいの強さがあれば良かったのかもしれないな」

 とは言うけど遅刻だけのせいではないのは確かだ。
 あたしはぐっと唇を噛みしめ、会釈をして平井出教授の部屋を後にした。

 あたしに言い返すくらいの強さがあれば……か。
 そうかもしれない。
 でも橋内さんたちがあんなことを言ってくるのは、あたしにも原因があるのだ。
 あたしが圭季にわがままを言ったから、アルバイトが決まっていたはずの人を押しのけてしまったのだから。
 なんだか暗い気持ちであたしは次の授業へと向かった。

 四時限目の授業にも橋内さんたちはいたけど、なにもしてこなかった。
 ほっとしたけどなんだか落ち着かない気分だ。
 授業は特になにもなく、普通に終わった。
 帰ろうかと荷物をまとめて席を立つと、橋内さんたちがこそこそと話をしているのが視界に入った。
 なんだかよく分からないけど、反感を買ってしまったのは分かった。
 あたしは視線を逸らし、教室を出た。

【つづく】






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