《二十五話》ぎすぎすした空気
早めにお昼ご飯を食べて大学へと向かった。
陽気が良いから電車で座っていると、窓から差し込む日差しが暖かいし、振動が心地よくて眠ってしまいそうになる。
そんな心地よいひとときだったのに……。
「やあ、また会ったね」
あたしのまどろみを破壊する声。
そこそこ周りに人がいるというのに、あたしは飛び上がった。
「なっ……!」
「気持ち良く寝ているところに声を掛けてごめんね」
そう思ったのならそっとしておいてほしい。
むっとしつつ声を掛けてきた人物を見る。
朱里が『ヘンタイ椿』と名付けた彼が立っていた。
今日は幸いなことに赤い薔薇の花束は抱えていなかった。それだけで少しほっとした。
……それだけで安堵してしまうのは相当彼に毒されてしまっているんだなと思ったけど、気にしないことにしよう。
赤い薔薇の彼は赤いストライプのネルシャツをざっくりと羽織り、黒いチノパンを履いていた。少し長めの茶色っぽい髪を無造作にワックスで固め、ツンツンに立たせているのはまあ置いといて。
眉は整えられていて、目は少し三白眼気味だけどそれほど気にならない感じ。
イケメン……とまではいかないけど、そこそこかっこいい部類には入ると思う。あたしの好みではないけど!
こうして見ると、至って普通な大学生なんだけどなあ……。
あたしは周りの視線を感じながら、何事もなかったかのように振る舞い、座り直した。
本当はこのまま立ち上がって逃げ出したかったんだけど、これまでの経験上、逃げてもこの人、追いかけてくるんだもん。朝のラッシュの時を思えば車内は余裕で移動出来るけど、迷惑この上ないのは間違いない。
反応してしまったのが悔しかったけど、冷静を装うことにした。
といっても、こちらからは用はないから話しかけたりはしない。
そもそもあたしは男の人が苦手だし! それに出来たらこの人とは関わり合いたくないってのが本音だ。
「ぼくと話をしたくないって顔をしてる」
ええ、そうですとも!
あたしは今すぐにでも席を立ち、電車の外に飛び出したい気分だった。
さすがにそれをやると別の意味で身の危険が迫るのが分かっていたから我慢したけど。
「ぼくは少し、焦るあまりに結果を急ぎすぎたようだ」
なにを焦ったのか知らないけど、これ以上、話しかけられるのは迷惑だった。
「あの……迷惑なんです」
「迷惑? どうして?」
どうしてと言われても、迷惑なものは迷惑だ。
ふと周りを見渡すとしんと静まり返り、ちらちらと車内の人たちの視線を感じる。その中に見知った顔があったような気がするけど、その人はあたしの視線を避けるように人の影に隠れたのでよく分からなかった。
「困ります」
どうしてという質問に明確に答えられないまま、あたしはそうとしか返せなかった。
でもあたしとしては成長したと思う。
嫌なことも嫌と言えなかったあたしがようやく相手に思いを伝えることが出来た。
他にもっと気の利いた言い方があったと思うけど、あたしには相手を気遣えるような断りの言葉が言えなかった。
「ふーん、迷惑、なんだ」
ヘンタイ椿はそう一言言うと、ぐっと顔を近づけてきた。
「それは、橘圭季にぼくといるところを知られると困るってことかい?」
圭季の名前にあたしはびくっと身体を震わせてしまった。
その様子が面白かったのか、ヘンタイ椿はくすりと笑った。
「なるほど──ね」
なにがなるほどなのか。
それよりも、どうしてこの人、圭季の名前をフルネームで知っているの?
そのことについて質問をしたいけど、車内のアナウンスが大学の最寄り駅に着くというアナウンスを告げたことで話は強制的に終わった。
ヘンタイ椿はにやついた顔をしたままあたしから離れ、ウインクをしてさらには投げキッスまでしてきた。
「じゃあ、またねっ」
ぞぞっと総毛立ったけど、あたしは頭を強く振って気を持ち直し、とりあえず電車から降りることだけはした。目の前にベンチがあったから、そこに座り込む。今のやりとりで気力がかなり削られてしまった。
なんだ、あのヘンタイ椿は。
朱里が名付けた名前は伊達ではなかったということのようだ。
あたしはしばし呆然としていたけど、はっとした。
まずい。授業に行かなければ。
あたしはどうにか立ち上がり、頑張って学校まで向かった。
先週の初めての授業で遅刻をしてしまった身としては、またもや遅刻なんてことをやらかしたら大変と思い、早めに出たのが良かった。
駅で時間を取られたものの、掲示板の確認も出来たし、授業が始まる一分前には教室に滑り込むことが出来た。
でもあたしが教室に入ったことで空気が一転。
ここのところこういう場面ばかりに遭遇するんだけど、どうしてだろう。
よく分からないけどあたしはとりあえず最後尾の端の席に座ることにした。
「そこ、予約席よ」
あたしが腰を下ろそうとした瞬間、どこからか声が掛かった。
予約席? とは思ったものの、あたしは慌てて立ち上がった。
「ごめんなさい……」
それならばと別の席に座ろうとしたら、別のところから声が掛かる。
「そこもダメ。人が来る」
どういうこと……?
でもそう言われたのだから仕方がなくあたしはまたもや別の席を探すのだけど、そこも人が来るから取っているという。
くすくすという忍び笑いが聞こえる。
声を上げたと思われる人を見ると、バラバラの席に座っているものの、以前にあたしのことを転げさせたグループの人たちだった。
「あなたの座る席はこの授業にはどこにもないわ」
あたしは途方に暮れて教室の後ろに突っ立っていた。
そうしている間に授業の開始を告げるチャイムが鳴ったと同時に、平井出教授が入ってきた。
教壇に立ち、教室内を一瞥して一言。
「どうして立っている。どこでもいいから座りたまえ」
教室内を見ると、席は半分以上が空いていた。
「せんせー、授業が面白くないから聞けないって言ってましたよ、彼女」
とんでもない言いがかりにあたしは目を見開いた。
平井出教授は片眉を上げ、不愉快そうな表情をしてあたしを見た。
あたしはとんでもないと首を振る。
「私の授業がつまらなかろうがなんだろうが、ここに来ているという時点で聞く覚悟はあるということだろう。席を決められないというのなら、私が決めよう。君、ここに掛けたまえ」
平井出教授はそういうと教壇の真ん前の空いた席を指し示した。
あたしがそこの席に向かおうとしたところ、さきほどから難癖をつけてきている人が慌てたように口を開いた。
「そこは……!」
「なんだね。私の指示に文句があるというのかね」
「い……いえ」
もごもごと口の中でなにか言い訳をしていたようだけど、諦めて口を閉じた。
それを確認して、あたしは平井出教授が指さした席に足下を気をつけながら向かい腰掛けた。
「さて、くだらんことに時間を費やしてしまったが授業を始める。出欠代わりに先週出していた宿題を出してもらう」
教室内で身動きする音が聞こえて来た。あたしも鞄からレポートを取りだし名前が書かれているのを確認した。
分からないところがあったから、月曜日に平井出教授を捕まえて聞いてまで書いたレポートだ。出来は良くないかもしれないけど、一生懸命に書いた。
平井出教授は端の席から一人ずつレポートを受け取っていた。
「おや、どうして二名分あるのかね」
「あ……」
「ふむ。で、君のレポートはどちらかね?」
ふと視線を向けると、一人の女性がもじもじとしているのが見えた。自分と頼まれただれかのレポートを提出しようとしているらしい。
「そういう姑息なことをする輩は、私の授業には要らない。どちらのレポートも受け取らない」
「そ、そんな!」
平井出教授は予想以上に手厳しいようだ。
「君は今日の授業を受ける資格もない。だれかを貶めるような暇があるのなら、自分を磨くことだ。退出したまえ」
「先生! それは酷いです!」
「酷くない。君はもっと酷いことをしていたではないか?」
そういうと平井出教授は必死に差し出しているレポートに視線を向けることもなく、すり抜けて次の席へと行ってしまった。
妙な静寂が教室内を包み込む。
そして平井出教授が受け取ったレポートは出席している学生の半分だけだった。
そういえば室内にいる学生の数が先週より少ないような気がする。
「レポートを提出出来たものだけ今日の授業は受けられる。他のものは出て行くように」
「先生!」
「どうしてですか! きちんと書いて来たのにっ!」
平井出教授は教壇に立ち、教室内を見回した。
「君たちは、ここになにをしに来ている? 友だちを作って青春を謳歌するのも結構。気のあう仲間と笑い会うのも大切な時間だ。しかし一番の目的を忘れてもらっては困る」
平井出教授はもう一度あたしたち学生を見回した。
「早く出て行きたまえ。授業妨害でペナルティを加える」
平井出教授の脅しに、しかしだれも動かない。
「なるほど。それでは今日の授業はこれまでとする」
唖然とする中、平井出教授はレポートとテキストを手にすると、すたすたと教室から出て行ってしまった。
なにかよく分からないけど、平井出教授の怒りを買ってしまったらしい。
しばらくだれも動かなかったけど、だれかがだんっと強く机を叩いた。
「……あんたのせいよ」
音のした方へ視線を向けると、最初にレポートを受け取ってもらえなかった学生だった。
席から立ち上がると、あたしのところへと一目散に向かって来た。
「おかしいじゃない。あんたは先週、遅刻してきたのに授業を受けさせてもらえた。わたしはレポートを書いてきて、代理で別の人のレポートも出そうとしただけじゃないっ」
「ひいきよね、ひいき」
「そうよね。キョウコが頑張ってゲットしたアルバイトも横取りするし?」
「橘製菓の御曹司と付き合ってるらしいじゃない。どーせここに入れたのもコネでしょ、コネ」
「あー、だから平井出教授も遅刻を許したんだ」
辛辣な言葉たちに、あたしはなんと言えばいいのか分からない。
「不公平よね、ほんと! こんな冴えない女、どこがいいんだかっ」
とそのとき、教室の扉が開いた。
「ほう、君たちの本音はそこか」
帰ったと思われた平井出教授が、扉の外にいた。
【つづく】