《十一話》真打ち登場
那津の呼びかけに答えるように圭季が奥から現れた。
いつもはきちんと整えられている髪の毛がぼさぼさになっていて、立花センセを思い出す。服も妙に乱れているし、どうして?
「チョコ……いた」
圭季は安堵のため息を吐くと、壁に手をついていた。
「そんなところに立ってないで、こっちに来て座りなよ」
と那津は圭季を誘っていたけど、圭季は首を振って息を整えるとまっすぐにあたしを見据えてやってきた。
あたしは身体を強張らせ、圭季を見る。
けんかをして飛び出してきたから、顔を合わせづらい。思わず視線をそらし、うつむいてしまう。それに怒っているように見えるから思わず身が縮こまる。
圭季はあたしの正面に立ち止まるとひざまずき、腕を伸ばすとあたしの身体をかき抱いた。
「!」
突然の抱擁にあの夜のことを思い出してさらに硬直する。怖くて思わず圭季の胸元をぐっと押しやった。
圭季はそれに驚き、腕を緩めてあたしを見る。
あたしは今まで圭季の抱擁を拒否したことがなかった。だけど今は怖くて条件反射的に胸を押しやってしまった。
圭季は取り繕うように乱れた服を直しながら、那津が示した席へと移動した。
あたしと圭季のやりとりを、那津と梨奈は無言で見ているのが分かった。
あたしはなんと言えばいいのか分からず、膝頭を掴んでうつむいた。
那津は新しいカップを取りだして、圭季のためにお茶を注いでいる。柔らかな湯気を立ち上らせているカップを圭季の前に置くと、梨奈の横に座った。
「圭季の気持ちも分からないでもないんだけど」
と那津は前置きもなくいきなり切り出した。
「オレも自分の腕の中にずっと梨奈を閉じ込めておきたいっていう独占欲があるよ」
その言葉に、梨奈は真っ赤になる。
「だけどさ、梨奈はオレのペットではないわけだ。大学を卒業して、橘製菓にきちんと入社して独り立ちできたら、梨奈と結婚をしたいと思っている」
いつもはどこかふざけた様子を見せている那津なのに、ひどく真面目な表情で将来を語っている。真摯な態度に背筋が伸びる。
「ちょっと……やだ、なにを言ってるのよ、那津っ」
耳まで真っ赤にした梨奈は、両手で顔を覆って恥ずかしがっている。
公開プロポーズ……ってやつですか?
そう思うと、あたしにまでその羞恥心が伝播してなぜか赤くなる。
「オレは独占欲が強いから、梨奈が家で待ってる間に他のだれかにとられるかもしれないなんて妄想をしてしまう。それなら常に隣にいてもらいたい。……こんなこと思うオレって気持ちが悪いし自分でも引いてしまうけど、それだけ梨奈のことが好きなんだって分かった。それに一緒に働いて、喜怒哀楽も共有したい」
那津の言葉にあたしは目を見開く。
なんだかすごく梨奈のことを考えているんだなというのが分かって、それが酷くうらやましい。
「梨奈は腕の中で飼うお姫さまでいてほしくない。……そう思うのは、圭季と違ってオレがまだまだ未熟者で、梨奈をしっかり守ってやれる自信がないからだと思う」
那津はいつでも自信たっぷりだと思っていたけど、違っていたのだろうか。意外な弱音に驚いた。
「そんなこと、ないっ!」
梨奈は真っ赤な顔のまま、那津の言葉を否定している。
「那津は……そんなこと、ないよ! ワタシのことを一番に考えてくれているし、それに、その……頼りに、なる、よ?」
最後の方は恥ずかしそうに小さく消え入るほどの音量だったけど、あたしの耳にもしっかりと聞こえた。
それを聞いた那津は、本当に幸せそうな笑みを浮かべたのだ。
思わず見とれてしまうほどとっても幸せそうな笑み。
人は人だって思うけど、羨ましいと思ってしまった。
梨奈は那津にこんなに愛されていて、いいなって。
圭季もあたしのことを考えてくれている……と思うんだけど。
「……まあ、本音を言えば、梨奈がじゃじゃ馬過ぎてオレにはコントロール出来ないから、それなら目が届く範囲においておきたいってのが本音で」
……ちょっと待て。
今の感動を返しなさいよ!
那津は得意そうな表情であたしたちを見ている。
その方が那津らしくって、ちょっと笑えた。
「もうっ! なんなの、台無しじゃん!」
と梨奈は怒っているけど、でも、那津の性格上、そうやってちゃかしてしまうのはわかりきっているから、口では怒っているようだけどその顔は笑顔だ。
「オレと圭季とでは考えが違うのはわかりきっているし、偉そうに言える立場ではないのは分かっている。だけどチョコちゃんの親友として言わせてほしい」
那津のその一言にあたしは困ってしまった。
那津も梨奈も、大切な友だちだ。特に那津には、色々とお世話になっている。あたしたちの間に男女の関係は一切あり得ないことも分かっている。
那津がはっきりと、しかもあたしが泣きそうなくらいうれしいことを言ってくれた。
親友──って。
「大学卒業までチョコちゃんの好きにさせてあげられるくらいのオトナの余裕はあるだろう?」
圭季はさっきからずっと無言だ。なにを考えているのかさっぱり読めない。
「出過ぎたことを口にしているのは、きちんと自覚している。だけど──」
那津が続けようとしたところで圭季は手を上げて制した。
「分かった」
圭季はなにかを諦めるようにため息を吐いた。
「那津がチョコの親友であってくれることに感謝するよ」
なんだか意味深な含みを持たせながら、圭季はそう口にした。その言い方にかちんと来たけどあたしは黙っていた。
「確かに、那津の言うとおりだ。チョコを家に閉じ込めておいたっていいことはない」
ようやく分かってくれたことにあたしはほっとする。
「アルバイトは許可しよう、橘系列で」
妙に上から目線な圭季の言葉に反発を覚えた。でも、ここで嫌だと言ってこじらせることは得策ではないってことはさすがのあたしでも分かった。
「チョコのアルバイトに関しては、すぐに手配する」
あたしは圭季の手を煩わせたかった訳ではないのに……そう言いたいけど、あたしの口は縫い付けられたかのように開かない。
「アルバイトは許可するが、サークルはダメだ」
「圭季!」
「……ダメだ」
那津の非難の声に、圭季はダメだと繰り返した。
あたしには圭季がなにを考えているのか分からない。
那津はあたしの好きにさせてあげればと言ってくれて、圭季はかなり歩み寄ってくれた……とは思う。それを思えば贅沢なのかもしれないけど、結局、自由になったわけではなくて束縛が少し緩められただけ。
あたしは自由でいたい。
圭季に束縛されたい訳じゃないのに。
だけどあたしはそう言えずにいる。
ぐっと膝頭を握りしめたあたしの手の甲を梨奈がそっと包んでくれた。
あたしと圭季はその後すぐ楓家を辞した。隣の橘の家に行っても良かったけど、気持ち的に家に帰りたくてわがままを言った。
那津はまだなにか言いたそうな顔をしていたけどリムジンを手配してくれて、あたしと圭季をマンションに送り届けてくれた。
あたしと圭季はずっと黙ったままだ。
なにか言わないとと思うけど、怖くて口を開けない。
こんなに圭季のことが怖いって思ったのは初めてだった。
抱きしめてほしいと思っていた気持ちはどこかに消え去ってしまった。
圭季のぬくもりを思い出すのも怖くて、リムジンがマンションのエントランス前に着くなりあたしは逃げるように降りた。
圭季はなにも言ってこない。
ずきずきと痛む胸を抱えて、あたしは部屋へと逃げ込んだ。
【つづく】