《八話》習慣とは恐ろしい
信じられない。
圭季があんなにおれさまで、しかも束縛する人だったなんて!
携帯電話もお財布も持っていないことに走っている途中で気がついたけど、今はもうそんなことはどうでもよくて、今はただ圭季から遠く離れたかった。
あんなに好きだと思ったのに、昨日は乱暴なことをされたし、しかも今日はひどいことを言われた。束縛するとしか思えない発言。
無理!
確かにあたしはおっちょこちょいだし、だれかの助けがないと頼りないかもしれないけど、だからこそ自分一人でしっかりとやっていけて、圭季の迷惑にならないように強くなりたいのに。サークルもアルバイトもダメって。
あたしの中では大学を卒業したらどこかに就職して、社会を経験してから圭季と……け、結婚とかって思っていたのに。やっ、恥ずかしい!
母は結婚しても仕事をしていたみたいだし、あたしが産まれても仕事は辞めてなかったようだから、あたしもそういう道を歩むものだと思っていた。
それに義務教育ではない高校を卒業させてもらった上に大学まで通わせてもらっているんだもん。いつまでも父に甘えているわけにはいかない。
圭季もそれを理解してくれているって思っていた。それなのに。
あたしと圭季の将来のビジョンに激しい齟齬があることを知って、戸惑った。
なにも考えないで飛び出してきちゃったけど、外はもう完全に日が落ちていて、外灯が灯っていた。そうだよね、夕食を食べた後の時間だもん。暗くなっているに決まっている。
それもさらに落ち込みの原因となり肩を落としてなんとなく歩いていると、懐かしい風景が目の前に広がった。
習慣とは恐ろしい。あたしは無意識のうちに聖マドレーヌ学院の正門に立っていた。
卒業してそれほど経っていないけど、すごく懐かしい。感傷的(センチメンタル)な気持ちになっている今、楽しかったことを思い出して余計に切なく感じてしまう。
圭季は立花センセだったけど、あの頃のあたしは知らなかった。だけど今、思い返せば楽しかったという思いが胸を占めている。妙に絡んでくる立花センセをうっとうしいと思ったけど、圭季の気持ちを聞いて、そんなにあたしのことを好きでいてくれたと知って、すごくうれしかった。
だけど……と圭季のあのいつもあたしを観察しているような視線を思い出し、暗い気持ちになる。那津とはしゃいでいたらじっと見つめていた。最近はそんな視線を感じなかったから……というより、圭季と顔を合わせることも少なかったから忘れていたけど、あれはもしかしたらあたしを縛り付けるための視線だったのかもしれない。
那津にはあたしのことを頼んでいた手前、仲良くしていても口を出せなかったけど、それ以外なら口を出せる。しかも圭季はあたしの婚約者だ。あたしのやることに口出しだって出来る。
……あ、なんだかすっごくネガティブ。
このままだとどんどんとマイナス方向にしか考えが向かなくなる。どうしようと視線を道路に向けると、見覚えのあるリムジンが。
って、リムジン?
リムジンってあれよね、リムジン。ちょっと前に乗ったような気がしないでもない、リムジン。
ここでこの車って言ったら、この中にだれが乗っているかなんて一つしか思いつかない。だけど家から飛び出してそれほど経ってないし、圭季本人が追いかけて来てくれなくて那津を迎えに寄越すなんて……とますます圭季に対する不満が募ってきた頃、学校からだれかが歩いてくる気配がした。
「梨奈、それじゃあねえ」
「うん、月曜日ね」
明るい聞き覚えのある声にあたしは顔を上げた。すると梨奈もすぐにあたしのことに気がついたようで、その顔がさらに笑顔になる。
「チョコちゃんっ!」
風のごとく走り寄り、梨奈はあたしに抱きついた。ふんわりと香る女の子の甘い匂いにあたしはちょっとだけくらくらした。あたしが男の子だったら、この匂いに一発でやられてるわ。那津が最近、梨奈にでれでれなのも分かる気がする。
「わーい、チョコちゃんだぁ」
那津と付き合い始めたからか、前以上に女の子らしくなって、しかもかわいいしきらきら輝いている。あたしとは正反対に輝いている梨奈がまぶしい。あたしは思わず目を細めた。
「いやーん、偶然っ。チョコちゃん、どうしたの?」
くりくりの目を潤ませて、梨奈はあたしを見つめてくる。ううう、まぶしいわ。その視線に溶けてしまいそう。
「……あ、うん……」
あたしはというと、どんよりと曇った表情を浮かべて力なく肩を落としている状態。なんだか梨奈の横に立っているのがいたたまれない気持ちになってくる。
「こんな遅い時間に学校に用? ……なわけないか」
落ち込んでよどんだ空気を醸し出してるのを察して、梨奈はあたしの頬を思いっきり両手で挟んできた。
「もー、せっかくのかわいい顔が台無しだぞっ」
梨奈と視線が合い、あたしの中にたまっていたなにかが音を立てて崩壊した。気がついたら涙があふれて嗚咽が出そうになっていた。
「ちょっと、チョコちゃんっ?」
梨奈の慌てる声にあたしはなんでもないと言いたかったけど、なんでもないことはまったくない。
「う……うぐっ」
自分ではどうすることも出来なくて、梨奈に抱きついてしまった。
「ううっ」
梨奈の肩にしがみつき、肩口あたりに顔を埋めてすがりつく。みっともないだとかそんなことを考える余裕がないほどあたしはなんだか追い詰められていた。
「え……っと、と、とりあえずチョコちゃん、車に乗ろうか」
梨奈の戸惑った声に答えなきゃと思うんだけど嗚咽以外上げることができなくて、そっと支えるようにしてくれる梨奈に甘えて、あたしたちはリムジンに乗り込んだ。
梨奈は車内でてきぱきとなにかを準備している。
あたしはリムジンの座席に座り、顔を覆って泣いていた。
「はい、これ」
あたしの手に握らされたのは冷たいおしぼり。ありがたく受け取り、目に当てる。冷たさが気持ちが良かった。
「落ち着いたら、おうちに送っていってあげ」
「嫌ッ」
梨奈が言い終わらないうちにあたしは拒否の言葉を吐き出した。見えてはないけど、梨奈の戸惑う空気を感じた。
「……分かった。じゃあ、楓家にご招待いたしますわ」
わざとおどけた口調の梨奈に、あたしは小さくうなずいた。
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楓家は橘家の隣、とは聞いていたものの、本当に隣り合って建っていた。
あたしの涙はようやく止まり、周りを見る余裕が少しだけ出てきた。
橘家の横を通り、楓家へ。自動で開いた門をくぐり抜け、リムジンは滑るようにアプローチを通り抜ける。橘家は和風だけど、楓家は洋風な造りみたい。
お昼に見るとまた違った感想になるんだろうけど、すっかり暗くなった楓家は白い壁のせいか、闇夜に浮かび上がっていて幻想的だ。なんとなく那津のイメージにぴったりで、白亜のお城に住む王子さまを想像しておかしくなってきた。
リムジンが玄関に横付けされるとセンサーが反応して、辺りが明るくなった。あたしは驚いて目を細めた。
「梨奈、お帰り」
玄関扉が開き、中から那津が出てきた。それを見て、梨奈の表情は明るくなる。運転手さんが後部座席の扉を開けてくれるのを待ちきれなかった梨奈は自ら開け、那津に飛びついていた。
「ただいまぁ」
いつものことなのか、苦笑した笑みを浮かべた那津は梨奈を受け止めて抱きしめている。
あたしも梨奈みたいにかわいかったらなぁなんて、ないものねだりをしている自分がいた。
「あのね、チョコちゃんに偶然会ったの」
「……チョコちゃん?」
那津の驚いた声と同時に、車内に突如、那津の上半身は現れた。
「うわっ!」
ほんのり湿った髪の毛に、青いチェックのパジャマ。どうやらお風呂上がりのようだった。ちょっと前まで一つ屋根の下で一緒に暮らしていたしこんな姿はよく見ていたはずなのに、どうしてか分からないけどどきどきする。
「あ、ほんとだ。チョコちゃんだ」
額にかかっている前髪をかきあげる姿なんて、妙に色っぽいんですけどっ!
一体、那津になにがあったの? なにこのあふれ出る色気はっ。
「う……あ、こ、こんば……んは」
今のあたし、すっごく真っ赤な顔になってると思う。油断したら鼻血が出そうだわ。
「あれ? チョコちゃん一人なの?」
那津は車内を見渡し、あたしに視線を向けてきた。
あたしはさっきまでさんざん泣いていたことを思い出し、はれぼったい顔を見られたくなくてうつむいた。
あたしの反応に那津はすぐに察してくれたようで、上半身を車内から出すと背筋を伸ばしてドアの前に立ち、胸に手を当てて九十度の角度でお辞儀をした。
「千代子さま、楓家にようこそいらっしゃいました」
優雅な動作で胸に当てていた手をあたしに向かって差し出してきた。
あたしは那津を見て、その後ろにいた梨奈を見た。梨奈はかなり呆れたような表情をして、二度ほどうなずいた。あたしは戸惑いながらも那津の手を取り、リムジンから降りた。
【つづく】