《七話》初めてのけんか
朝……というよりはお昼前に目が覚めた。のはいいけどとってもけだるい。ベッドの上で寝返りを打つ。
どうしてこんなにけだるいの? と思ったところで昨日のことが頭によぎり、身体が勝手に縮こまった。
こわいこわいこわい……!
怖いという感情があたしを支配して、布団から出られなくなってしまった。
どうしよう、布団から出るのがすごく怖い。布団を抜け出して部屋から出たら圭季と会う確率は高い。顔を見たら泣き叫びそうだ。
あたしはかなり長い時間、布団の中で葛藤していた。
だけどいつまでもそうしていられなくて、意を決してベッドから抜け出した。ベッドに腰掛けてぼんやりしそうな自分を叱咤して、服を着替えた。以前なら休みの日はパジャマで一日過ごすなんてことをしていたけど、圭季と暮らすようになってからは着替えるようにしている。だってパジャマ姿って恥ずかしいじゃない? それに昨日の今日だ。パジャマがどれだけ無防備なものかよく分かった。
恐る恐るドアから顔を出す。だれかが動いている気配がない。父はたぶんまだ寝ている。圭季も寝ているのかな?
キッチンに行くと昨日の晩と様子が違っている。ということは圭季がここを使ったのだろう。
冷蔵庫を開けるといつものように朝食の準備がしてあった。玄関に行って靴を確認すると、やはりない。土曜日なのに出社してしまったようだ。
ほっとするというか、残念というか。あたしの中に複雑な気持ちが渦巻く。
とりあえず問題は先送りに出来るようだと思ったら、おなかが空いた。一人で食べるのが淋しくて、父を起こすことにした。
父の部屋へと赴き、ノックをする。中で動いている気配がするところ、今、目を覚ましたのだろう。
「朝ごはんってよりはもうお昼だけど、準備するから起きてきてね」
「了解」
まだ寝ぼけている声だったけど、しばらくしたら部屋から出てくるだろう。あたしはキッチンへと向かい、圭季が作っていてくれた朝食を温める。
圭季、昨日のこと……覚えているのかな。
なんだかしょんぼりとした気持ちのまま父とブランチ。
「圭季くん、今日も出勤なのか。残念だね」
父はあたしの気持ちを汲んで、代弁してくれた。でも今日に関してはあんまりそんな気持ちにはならない。
もちろん会えないのはとても淋しい。だけどそれを上回る戸惑う気持ちが大きくて、自分の気持ちを整理させるのにいい時間をもらえたと前向きに受け取ることにした。
そう考えたら、平日できないことをがっつりやってしまってすっきりしよう!
食事が済んで、食器を洗う。父はのっそりと自室に戻り、着替えを済ませて珍しく出かけてくると一言だけつぶやいて家を出て行った。
あたしは洗濯物をしながら、掃除機をかけていく。
それによって、なんとなくもやもやしていた気持ちが落ち着いてきたような気がした。
今日の夕飯、なににしようかなぁ。カレーにしておけば明日もお昼くらいまで作らなくて済むし、食べ切れなかったら冷凍しておいて食べればいい。
冷蔵庫の中にはカレーを作るだけの野菜もお肉もあるし、ルーも在庫があるから買い物に出かけなくてもいい。
早くから取り掛かって煮込んでおけば美味しくなるからと、掃除がひと段落して少し休憩を挟んでから、カレー作りに取り掛かった。
じゃがいもににんじん、たまねぎ。皮をむいて、切って。
そういう作業をしていると、無心になってきた。
お肉を炒めて、野菜を炒めて……。どんどんとカレーの形になっていく。ことことと弱火で煮込んでいる横で、火の番をしながら久しぶりにお菓子でも作ろうかな。
プリンかゼリーがいいな。今からプリンはちょっと手間がかかるから、ゼリーかな。ちょうど伊予柑を買っていたのよね。皮をむいて、袋をはがして……手間だけど、作業をしている間は無心になれる。
皮をむくと、鼻腔にさわやかな柑橘類特有のすがすがしい香りがくすぐる。
こぼれ落ちた実を味見してみると、ジューシーさの中にほどよい酸味と甘さが同居していて、ゼリーにするのにちょうどよい。ゼラチンよりも寒天の方が合いそうだわ。ちょうど粉寒天があるからそれを使おう。
ゼリー型に入れて……と。
あたしが手を加えることで形になっていくのがなんだか楽しくなってきた。
カレー用の野菜もいい感じで柔らかくなってきたし、ルーを入れて少しご飯まで寝かせようかな。
一度火を切り、ルーを割り入れて解け残りがないように丁寧に混ぜる。とろみが出るまで弱火でことことと火にかける。カレーのいい匂いが室内に充満してきた。
ある程度とろみがついたところで火を切り、ふたをする。
伊予柑の寒天も冷蔵庫で冷やさないと固まらないし、夕飯まではまだ時間がある。ご飯もタイマーをセットしたし、ちょっと部屋に戻って休憩しよう。
ベッドに横になると、急激に眠気が襲ってきた。寝たら駄目と自分に言い聞かすけど……あらがえなかった。
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優しくあたしの身体を揺する手。ぼんやりと意識が浮上してきた。うっすらと目を開けると、圭季の顔が目の前にあった。
どうして圭季がいるのだろう。
なんてぼんやり思っていると顔がもっと近寄ってきて、唇を重ねられた。突然の出来事に驚き、目を見開いてしまった。
優しくついばむように何度か口づけられる。
「チョコ、夕飯、ありがとう。一緒に食べよう」
「あ……うん。圭季、お帰りなさい」
あたしはようやく状況を思い出し、慌てて上体を起こした。
「慌てて起きなくても大丈夫だよ。準備はおれがするから」
疲れているのはあたしより圭季。今日だって仕事に行っていたのだから。
「圭季、ごめんね。すぐに準備をするから、休んでいて」
「大丈夫だよ」
圭季はベッドに腰掛けているあたしにもう一度口づけすると、部屋を出て行った。
何気なく圭季ってあたしに何度かキスをしていったけど、冷静に考えてみたら……かなーり恥ずかしくない?
遅れてあたしは羞恥に駆られる。頬に恐ろしいほどの熱を感じる。耳まで熱い。
ちょっと、なになにっ! 圭季ってあんなに甘かった?
もー、恥ずかしい!
あたしは熱くなった耳と頬を冷ましながら、キッチンへと向かった。
「あれ……。お父さんは?」
「さっき声を掛けたからすぐに来ると思うよ」
テーブルの上にはキッチンマットが敷かれていていた。その上にはスプーンとフォーク、個別の器にレタスとトマトのサラダが盛られていた。
「今日のカレー、なかなかいい出来だよ」
圭季はうれしそうに目を細めながら炊きたてのご飯の上にルーをかけている。あたしはトレイにカレーのお皿を乗せて、テーブルに並べた。
準備が出来た頃、父がのそりと現れた。
「美味しそうな匂いがしていると思ったら、やっぱりカレーか」
父は嬉々として椅子に座っている。
いただきますと三人でそろって口にして、カレーを食べ始めた。
「うん、美味しい!」
「美味しいね」
父と圭季の絶賛の声にあたしは恥ずかしくなる。なんだか妙に居心地が悪いまま、カレーを食べた。
デザートに作った伊予柑の寒天もいい感じの固さと甘さで今日のご飯は大満足だ。
食べた後、父はお風呂に入るとのそりとキッチンから出て行ったので、圭季と並んで食器を洗った。
「ねえ、圭季」
食器を洗いながらあたしは圭季に話しかけた。
「大学に入学して、少し慣れてきたからどこかサークルに入ろうかとおも……」
「駄目だ」
あたしがすべてを言う前に圭季はきっぱりと駄目と言ってきた。まさか駄目なんて言われるとは思わず、食器を洗っていた手が止まった。
「サークルなんかに入って、変な虫がついたらどうするんだ」
えっと……あの?
「チョコ……」
テーブルの上を片付け終わった圭季はあたしの後ろに立ち、抱きしめてきた。
「チョコはかわいいから、あんまり他の男の目に触れさせたくない」
耳元でそんなことを囁かれて、どうすればいいのか分からない。しかもかわいいって! 圭季の目、もしかしなくても腐ってる?
「じゃ……じゃあ、せめてアルバイト……」
「それも駄目」
こっちも駄目なんて言われるとは思わず、あたしは振り返って圭季を見上げた。
「どうして? お父さんはサークルもアルバイトもしていいって」
「雅史さんはいいと言ってくれたかもしれないけど、おれは反対だ」
「なんで反対なの? サークルだって選べばいいし、それにいつまでもお父さんに甘えていられないからアルバイトして、少しでも楽をしてもらいたくて」
「サークルを選べばいいとはいうけど、女ばかりのサークルでも交流とかいって男がいるサークルと活動することもあるし、それにうちの会社はチョコがアルバイトをしないといけないほど安い給料を払っているとは思えない」
その言い方にかちんと来た。
圭季の言っていることは極論過ぎる。それに安月給ではないのは知っている。だけどそんな言い方ってないじゃない!
「とにかく、駄目だ」
圭季の理不尽な否定に、あたしはけんか腰で聞いていた。
「駄目ダメって、じゃあ、あたしはどうすればいいのっ?」
「チョコは家にいればいい」
信じられない言葉にさすがのあたしも切れた。
「あたしのこと、束縛しないで!」
あたしは叫び、泡まみれの手のまま圭季を押してその腕から逃れ、玄関へと向かった。
「チョコ!」
慌てて追いかけてくる圭季の気配。あたしは靴を手に持ち、玄関を飛び出す。ちょうど止まっていたエレベーターに乗り込み、扉を閉めて一階へと向かう。到着するまでに靴を履き、あたしはマンションを飛び出した。
【つづく】