《五話》迷子の末の遅刻
昨日も圭季に会えなかった。
顔だけでも見たいと思っていたのに、圭季はいつ帰ってきて、いつ会社に出掛けたのか分からなかった。それでも圭季は朝ごはんをきっちり用意をしてくれている。だけどこれって、彼氏ってよりお母さんみたい。
あたしのわがままだって分かっているけど、一目でも圭季を見たい。
洗濯機の前に脱いだ物を入れるかごを置いているのだけど、そこには圭季が着ていたワイシャツが入っていた。圭季に逢えない代わりにそれを抱きしめると、圭季の匂いがした。
ああ、圭季に逢いたい……。
ワイシャツに顔を埋め、圭季の匂いを肺に吸い込んで圭季を一杯にしてみようと試みて……あたしはそこでふと冷静になって、恥ずかしくなった。
あ、あたしったらなにをしてるのっ。これでは欲求不満の中高生男子みたいじゃないの。
あたしは抱きしめていたワイシャツを洗濯機に入れ、スイッチを入れた。
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今日は午後からの授業だけ。
洗濯を済ませて少し早めのお昼を食べて、大学へと向かった。
入口の掲示板を確認して、あたしは講義を受けるために教室へ向かおうとしたところ。
「やあ」
背後からいきなり声をかけられた。
大学に入学してから数日。あたしは未だに話ができる同じ学部の子が一人もいなかった。
だからこうして声をかけてくる人はサークル勧誘かろくでもない人物。
あたしはこの声に聞き覚えがあった。
振り向きたくないけど、この掲示板から離れるためには後ろを向かなくてはならない。意を決して振り返り……視界いっぱいに真っ赤な薔薇に埋め尽くされた。薔薇の甘ったるくて、だけど高貴ですてきな香りが鼻孔をくすぐる。
「ようやく見つけたよ」
薔薇の花束の隙間から、昨日も帰りに待ち伏せしていた『ヘンタイ椿』(命名は朱里)が見えた。
なんなの、こいつっ?
「照れ屋なところも、もろにぼく好みなんだよ」
あたしは身の危険を感じて、後ずさった。
「ぼくとつきあってほしい」
いっ、いやっ。
むっ、無理無理無理無理! 無理すぎるっ!
それにあたしには圭季がいるんだから。あたしに近づかないで!
そう言いたいのにあたしの口は縫い付けられてしまったかのように開かない。身体も動かない。
「ぼくの愛を表したこの薔薇を受け取ってほしい!」
ヘンタイ椿はあたしに突き出していた薔薇を両腕に抱え、華麗にくるりと一回転して、再度、薔薇を差し出してきた。
な、なに、この人?
「ああ、ぼくのこの気持ちをキミに正確に伝えるにはどうすればいいのだろう! 燃え上がる恋の炎! わき上がる愛しい気持ち!」
……気持ちが悪い。なんなのこの人?
「ほら、恋の幕開けはいつだって!」
嫌だ。絶対に無理!
あたしはようやく呪縛から解かれ、このヘンタイから逃げることを選択した。
薔薇の花束に罪はない。
だからあたしは持っていたかばんを男の膝のあたりめがけて繰り出した。
「!」
びっくりするくらい、クリーンヒット。
「ごめんなさいっ!」
あたしはそれだけ叫ぶと、キャンパス内を走った。
あたしは闇雲に走った。
とにかくあの椿と名乗った男が追いかけてこないところへ。
広大なキャンパスをあたしはひたすら走った。
そして……あたしは見事に迷子になった。
なんということでしょう!
……とここでボケてみても、迷子には変わらない。
どうしよう。講義が始まってしまう。
あたしは焦って必死になってキャンパスの地図を頭に描こうとするのだけど、覚えてないのだから出てくるわけがない。とにかくここがどこか把握しないことにはどうすることもできない。
カフェテラスにたどり着ければあとは分かるから、どうにかしてあそこに行こう。
周りを見回しながら、歩く。
これだけ広いキャンパスだからあちこちに地図があって助かった。色あせていたり、劣化していて読み取れないものもあったけど、それでも大体の位置を知ることは出来た。
講義が始まるチャイムがキャンパス内に鳴り響く。
まずい。
早くしなきゃ!
焦れば焦るほど目標としているカフェテラスが遠くなっているような気がして、泣きたくなってきた。
先ほどまではちらほらと見えていた学生たちもさすがに講義が始まったからか、見えなくなってしまった。こんなことなら勇気を出して聞けば良かった。
涙をこらえ、あたしは歩いた。
そしてようやくカフェテラスにたどり着いた。見覚えのある風景が目に入り、ほっとする。
ここからなら近い。
遅刻してしまったけど、欠席するより遅刻してでも出席する方がいい。
あたしは結論づけて、どきどきしながらも講義の行われている教室へと向かった。
教室にようやくたどり着いたけど、中からは教授の声が聞こえてきている。当たり前か、もう始まっているよね。
あたしは恐る恐る、後ろの引き戸を開けて中へと入った。
「あの……遅刻して、すみませんっ」
あたしの声に、教壇に立っている先生だけではなく学生の視線が一斉に集まる。
うわぁ、変に目立っちゃった。
「……名前は?」
「みっ、都千代子です……、すみません」
「本来なら遅刻者は教室へ入れないのだが、今日は初めての講義ということで許すことにしよう」
そういえばちらりとこの講義の平井出教授はとても厳しいと聞いたことがある。だけど初回ということで見逃してくれるらしい。許しの声にあたしは深くお辞儀をして、一番後ろの空いている席に腰を下ろす。
「では、続けるぞ」
あたしは額に浮かんだ汗を拭きながら、教科書を取り出す。
後でまた改めて平井出教授にお詫びを言いに行こう。
あたしはそう決めて、ノートを広げて黒板に書かれている文字を書き写した。
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授業が終わり、あたしは慌ててどこかに行こうとしていた平井出教授を追いかけた。
「平井出教授、今日はありがとうございました。今後、遅刻をしないように気をつけます!」
あたしの声に平井出教授は足を止め、振り返ってくれた。
「ああ、キミか」
冷たい視線に心臓が縮こまったけど、あたしはまっすぐに平井出教授の顔を見た。
「わたしの授業は厳しいからな。居眠り厳禁、宿題もたくさん出すから、覚悟しておくように」
「はいっ」
あたしは頭を下げた。平井出教授は一瞥すると、きびすを返して去って行った。
【つづく】