《三話》赤い薔薇の花束
圭季のお母さま・綾子さんはいつものように着物で登場。今日は春らしい桜色の色留め袖。上品に髪を結い上げ、緑色のかんざしで止めている。いつ見ても美しいわ。
「チョコちゃーん、いらっしゃい! 圭季ったらチョコちゃんが春休みの間に一回くらいうちに連れてきてくれると思っていたのに、本人さえも帰ってこないからさみしかったわぁ」
「ご無沙汰してしまい、すみません」
お母さまに頭を下げたら、抱きしめられた。
「ここはあなたのもう一つのおうちでもあるのだから、いつでも来てね。雅史と一緒に住んでもらってもいいし」
と言われても、ここから大学に通うとなると遠くなるし、それにやっぱり気を遣ってしまう。
そう考えて、ふと圭季のことを思い出す。
四月になり、那津は実家に戻って圭季はあたしの隣の空き部屋に移動してきた。これまでと違って二人っきりになるチャンスはあるはずなのに、圭季は入社準備で忙しくて、あたしも大学生活の準備があったりして、あまりゆっくりとできなかった。
圭季は居候のような状態だけど、くつろげているのかなとふと不安になった。
居候だからね、どどどど同棲じゃないわよ!
だって、父がいるし。
いなかったら……。
思わずあたしの脳内は妄想で暴走しそうになってしまった。
だけどその妄想に待ったをかけたのは、綾子さん。
「チョコちゃん用にお着物を色々用意しておいたの。どれがいいかしら。ささ、早く上がってちょうだい」
と腕を捕まれて家の中に引き込まれたことで、強制的にストップがかけられた。ああ、危ない、危ない。
そして以前も連れて行かれた衣装部屋に通されたのだけど、前にはなかった棚が新たに設置されていて、でかでかと『チョコちゃん用』と張り紙がされていた。
それを見て、あたしは思わず後ずさった。棚の中には数え切れないほどの薄くて細長い箱がみっしりと詰め込まれていたのだから。
お母さま、張り切りすぎでございますわよっ。
「娘ができたらたくさん着物を着せたいと思っていた夢が叶って、とってもうれしいの」
なんて夢見心地で言われたら、嫌なんて言えなかった。お母さまと一緒にみっちりと二時間はこもっていたのではないだろうか。さすがに疲れてきたけれど楽しそうなお母さまの気持ちに水をさせず、あたしは我慢していた。
だから那津が機転を利かせてくれなければ、あたしは倒れていたと思う。
「綾子さん、圭季もそろそろ帰ってくると思うし、夕食にしないとチョコちゃんが倒れてしまいますよ?」
助かったと大きく息を吐いたら、那津に笑われてしまった。
圭季はあたしたちがご飯を食べ終わっても、帰ってこなかった。
がっかりしているあたしを見て、那津と綾子さんが慰めてくれた。
綾子さんは遅いから泊まっていくように言ってくれているけど、父も圭季もあのマンションに帰ってくるだろうから待っていたい。
「ああん、もうっ。圭季ったら、あの子にはもったいないくらいのいい子を捕まえてきちゃったのねっ」
綾子さんはきゅっとあたしを抱きしめてくれた。綾子さんからふんわりと漂ってくる匂いが圭季にどことなく似ていて、あたしはふいに涙腺が緩くなったのを自覚した。それを隠したくて、あたしは綾子さんの肩口に顔を埋める。
「チョコちゃん、いつでもいらっしゃいね」
あたしの淋しさを感じたのか、綾子さんは優しい口調でそう言ってくれた。
あたしは唇を一度かみしめ、顔を上げる。一生懸命、顔に笑みを浮かべ、綾子さんの顔を見る。
「はい、また来ます」
あたしは楓家のリムジンに乗り、マンションへと戻った。
「チョコちゃん、気をつけてね」
那津がマンションの入口まで送ってくれた。去り際に心配そうな表情で那津はそんなことを言ってきた。
「大丈夫だよっ」
年下の那津に心配され、あたしは思わず強がった。
「困ったことがあったら、オレでもいいし、梨奈にでもいいから相談して」
「……うん」
「チョコちゃん、いい? 迷惑だなんて思わないで。チョコちゃんがそうやって悩んでる方が、オレたちには迷惑だから」
那津のその言い方にかなりむっとしたけど、これは那津なりの思いやり。そうとでも言わないとあたしが相談しないのを分かっているから、わざと言っているってのは分かった。
「それと、あんまり我慢をしないこと。圭季は鈍感だから、言わないと分からないよ?」
鈍感って、それはいくらなんでも言い過ぎなんじゃない?
「それじゃ、おやすみっ」
那津は言いたいことだけ言うと、とっととリムジンまで帰って行った。
相変わらずだなぁと思ったけど、那津のそういう気配りにちょっとだけ涙が出た。
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圭季はあたしが寝た後に帰ってきて、起きる前に出て行ったみたい。一緒に暮らしているのにどれだけ顔を見てないのだろう。
圭季が作ってくれた朝食を食べて、あたしは学校へと向かう。
通学にもだいぶ慣れてきて、朱里と待ち合わせをしなくても行けるようになった。
なんだかあたし、すっごく情けなくない?
周りの人の手助けがないとなんにもできないなんて、こんなに情けなかったのかな。
……落ち込んできた。
春休みに立てた目標を思い出すと、さらに憂鬱感に拍車をかけた。
『自立したオトナの女になる』
すでに働き始めた圭季の足を引っ張らないように、むしろ圭季を支えてあげるのよ! くらいの意気込みで掲げた目標は思ったよりもハードルが高かったのだろうか。
こんな時は気分転換にお菓子を作ればいいのよ!
授業も鬱々とした気分で受けていたので、その考えに久しぶりにわくわくすることが出来た。
そうなると一時も早く家に帰りたくなって、はやる気持ちを押さえながら駅へと向かおうとした。
構内を急ぎ足で歩き、校門へ。帰宅する学生があふれていて、活気に満ちている。
そういう光景を見て、ああ、あたしも大学生になったんだなと実感を抱いた。
だけどとある人物のシルエットがあたしの視界に入り、そんな浮かれた気分が急激に沈んでいく。
「あ、いた!」
軽やかな気持ちはみるみる間にしぼみ、先ほどの落ち込んでいた気持ちと鬱々としたものが混じり合う。あたしは小さく首を振って拒否の気持ちを示すのだけど、相手はまるで気がついていない。
「キミのことをずっと待っていたんだ!」
周りに宣言するような大声でそう言ったのは、入学式当日に駅で声をかけてきた男。しかもなにを考えているのか真っ赤な薔薇の花束を抱えていた。
芝居がかった男の声に、ざわめきはますます大きくなった。
授業が終わったのにいつまでも学生が校門に残っているなんて、少し考えればありえないって分かるはずだ。それを学生がたくさんいて活気に満ちあふれているなんてどうして勘違いしてしまったのだろう。そう思った少し前の自分に向かって説教したい。
校門前がざわついていたのは、男の非常識な行動のせいだったのだ。
男は花束を抱えたまま、あたしへ向かってやってきた。
周りの人たちの視線があたしと男に向けられているのが分かる。
──嫌だ!
あたしはかばんを抱きかかえ、後ずさる。男はそのことに気がついてないようで、満面の笑みを浮かべて近寄ってくる。
「ぼくの名前は椿──」
「いやあああああっ!」
あたしは耐えられなくて、思いっきり叫んでいた。
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騒ぎを聞きつけた朱里が駆けつけてくれたおかげで、あたしは椿と名乗った男から逃れることが出来た。
「チョコ、落ち着いた?」
朱里は心配そうな表情であたしを見ている。大丈夫だって笑みを浮かべようとしたけど、無理だった。未だに心臓がどきどきいっている。
「真っ赤な薔薇の花束を抱えて待ち構えてるなんて、あいつ……ヘンタイ?」
朱里はあたしのためにカフェテラスの自動販売機でホットミルクココアを買ってきてくれた。目の前に置かれた紙カップから立ち上る湯気をじっと見る。
「とりあえず飲もうか」
言われて視線を上げると、朱里はすでに半分ほど飲んでいた。
「……うん」
紙コップに手を伸ばし、手のひらで包み込む。思っていたより冷めていたようで手のひらに返ってくるぬくもりはあまり温かくない。
口に運んで飲むと、もったりとした甘さが口の中に広がる。買ってきてくれた朱里には申し訳ないけど美味しくはない。だけど今のあたしはその変な生ぬるさに安堵を覚えた。
「椿って名乗ってた?」
「……うん、たぶん」
「ヘンタイ椿、か」
朱里なら真っ赤な薔薇の花束を持って現れた王子さまと言ってはしゃぎそうなのに、珍しくしかめっ面をしている。
「朱里なら逆に喜ぶかと思った」
「うーん……」
朱里は腕を組んで空っぽになった紙コップをなぜかにらみつけていた。
「確かにロマンチックなシチュエーションではあるけど」
やっぱりそう思っていたんだ。朱里らしくってなんだかおかしくなってきた。強ばっていた頬が緩むのを感じた。
「ようやく笑ってくれた」
朱里のほっとした声にまたもや心配をかけてしまったことを知って、気持ちがまた落ち込んだ。
朱里は組んでいた腕を外し、紙コップをつかんで握りつぶす。
「チョコ、今、幸せ?」
突然の質問に、紙コップに口をつけたところで止まった。
「立花先生……圭季さんとつきあうことになったって聞いた時、わたし、すっごくうれしかったの」
あたしはココアを一気に飲み干して朱里に向き合う。
「チョコって男の人が苦手じゃない? だからきちんと彼氏ができるのかなってすっごく心配してた。チョコから報告を受けたとき、相手があの立花先生だと聞いて驚いたけど、なんだか妙に納得したし、チョコにも彼氏ができたんだって自分のことのように嬉しかったんだ」
朱里に彼氏が出来たと報告したとき、予想通り驚かれた。しかも相手が「あの」立花センセだと明かしたら、椅子から転げ落ちた。この様子では反対されるなあと思ったけど、朱里はぶつけた腰をさすりながら、やっぱりと笑ってくれた。その後に幸せになってねと言われて、あたしはうれしくてちょっと泣いた。
「……最近のチョコを見てると、なんだか辛そう」
朱里にそう言われて、あたしの心臓はどきんとはねた。
さすが幼なじみ。朱里はあたしのことがよく分かっている。
「もしかして、圭季さんとけんかでもした?」
朱里の質問にあたしはゆっくりと首を振った。
「ここのところずっと、圭季と会えてない」
「……会えてない?」
首を縦に振る。それを見て朱里はものすごく渋い表情になった。
「一緒に住んでいるのに?」
「うっ、うん……」
圭季が去年の一年間、学校の先生として高校に潜入してくれたことをありがたく感じてしまう。そうでもしてくれなければ、あたしは圭季のことを知ることができなくて、たぶん一番身近であたしを守ってくれていた那津に惹かれていたと思う。
そうなったら梨奈と那津を取り合うことになって、辛くて悲しい思いをしなくちゃいけなくなっていたんだろうな。そんな可能性がふと脳裏によぎり、あたしは強く頭を振る。梨奈と那津を取り合うなんてあり得ない。もし仮にそうなったとしたらあたしは潔く引いていたと思う。
那津はあたしのことはただのお友だちと思っているだろうし、あたしもそうだ。
「圭季さん、入社したばかりでお仕事が忙しい?」
「……たぶん。あたしが寝た後に帰ってきてるみたいだし、朝も起きる前に出て行ってるから……状況が全然、分からないの」
「なるほどね」
朱里は納得したようにうなずき、あたしが飲んだ紙コップを同じように握りつぶした。
「チョコの元気がない理由は分かった」
二つの紙コップを合わせてねじり、朱里はゴミ箱に捨ててくれた。
「圭季さん、土日はお休みなんだよね?」
圭季はそんなことを言っていたので、あたしはうなずく。
「チョコ、素直に圭季さんに淋しいって言わないと」
「えっ、でもっ。圭季はお仕事が大変だし、そんな迷惑なことはっ」
「チョコ。我慢するのはいいけど」
朱里はそこで言葉を区切り、かばんを手に持った。
「たまには甘えないと、男側も不安に思うものだよ?」
朱里独自の恋愛論を言われて、あたしは思わず苦笑する。
「そうやって笑うけど、頼られてないと男は思うみたいなんだからっ」
圭季に以前、似たようなことを言われたことを思い出した。
「甘え上手は、恋愛上手っ」
朱里に促され、あたしたちはカフェテラスを後にした。校門に行くのが怖かったけど、朱里が一緒にいてくれる。
「そうだ、チョコ。時間は大丈夫?」
「あたしは大丈夫だけど……。朱里こそ、つきあわせてしまったけど、大丈夫?」
「大丈夫よ! よしっ、それならチョコのアルバイトを探しにいこっか!」
朱里は明るくそう提案してくれた。
【つづく】