《二話》嵐の前の静けさ
帰りは朱里と待ち合わせをして、大学の構内を見学してきた。
「すごーい、広いね!」
聖マドレーヌ学院大学は、学部もたくさんあるし学生も多い。キャンパスも結構広くて、覚えるだけでも大変。
「広いけど、わたしたちが使う場所は意外に限られてるから」
と朱里は言うけれど、それにしても広くって困惑してしまう。
高校までいた場所もそれなりに広かったけど、ここみたいに把握できないのではないかというほどの広さではなかった。
「チョコはどこかサークルに入る予定はあるの?」
「サークル?」
サークルって、ミステリーサークル? 大学とミステリーサークルの関連性を見いだせなくて眉間にしわを寄せて悩んでいると、朱里からつっこみが入った。
「チョコのことだからなんか違うことを考えているような気がするけど、ようするにクラブ活動! ブカツよ!」
クラブ? ブカツ? ……同好者が集まって活動するあれか!
「ようやく分かった! そっちのサークルねっ」
「いや普通、大学でサークルと言われたらそっちしか思い浮かばないでしょ」
と言われても。
ずっと部活動もしないいわゆる帰宅部だったし、そんなことを言われて初めて気がついたくらいだから、当たり前だけど考えてなんかいない。
「サークル活動をしていたら、家のことなんてできないでしょ」
「チョコ、そこはとってもすごいとは思うけど、もう少し青春時代を謳歌しなさいよ」
青春時代ねぇ……。
幼い頃から父と二人で生きてきたから、あまり放課後に友だちと遊んだ覚えもない。たまにさみしいとは思ったけど、仕方がないと諦めている部分も大きかった。
「チョコもせっかく大学生になったんだから、ちょっとは遊ばないと」
とは言うけど、先ほどの授業の説明を思い出し、気が重くなった。大学ってなんだかとっても遊んでいるイメージがあったけど、説明を聞く限りでは思っていたより遊べなさそうだし、授業が終わって家に帰って家事をするだけで手いっぱいのような気がする。
「あたしは……サークルはちょっと様子見にするわ」
そう答えると、朱里は少しつまらなそうな表情をした。
「アルバイトは?」
サークルにアルバイト。大学生の醍醐味、なのか。
あたしは幸いなことに父のおかげでアルバイトをしないといけないという状況ではない。だけどいつまでも父のすねをかじっているわけにはいかないのは理解している。
あたしは不器用だから、初めての大学生活に初めてのアルバイトやサークルなんて、一度にできないのが目に見えている。それに家事も今まで通りにやらないといけない。仕事で忙しい圭季と父に心配を掛けさせないようにあたしがしっかりしなくちゃ駄目なんだ。
「アルバイトもやりたいけど、あたし不器用だから大学生活に慣れたら始めようかなって」
「あー、アルバイトまでしない、というのかと思ってちょっとドキドキしちゃった」
朱里は母子家庭だ。彼女もやっぱり家事やアルバイトをして家計を支えている。それでいてあたしの世話もしてくれるし、朱里には頭が上がらない。
「わたしはサークルにアルバイトに家のこともやるよ!」
前向きで明るい朱里が眩しく思える。
「お母さんに無理をさせて大学に行かせてもらってるから、元を取ってそれ以上に楽しむのよっ!」
すごいわ、朱里さま。あたしもそれくらいの気概を持って大学生活を送らないとね。
……とりあえず明日は遅刻しないように学校にたどり着かなければ。
「明日は駅の改札のところで待ち合わせね」
手間のかかる子ですみません。
朱里はサークル巡りをしてくるというので、カフェテラスの前で別れた。
あたしはせっかく早い時間に帰れるのだからと校門へと向かったのだけど、サークル勧誘につかまりまくり、とにかくどうにか断わって疲れきった。テニスなどのスポーツ系、美術系に音楽系とたくさんのサークルが新入生確保に躍起になっているけど、あたしはどれも興味を持てなかった。料理部かお菓子部なんてあったら、ちょっと考えるんだけどなぁ。
「あ! 朝の子!」
ようやく校門を出たところで後ろから声が聞こえた。だけどあたしはそのまま歩き、駅へと向かう。
「ちょっと待ってよ!」
近寄ってくる気配を感じ、肩をつかまれた。振り返ると、男の人。自分でもわかる、涙ぐんでいることが。だけど悲鳴を上げなかったことはほめてほしい。それとも悲鳴を上げた方がよかったのかな?
「無事に到着したんだね、良かったよ」
あたしが涙ぐんでいることなんかおかまいなしに目の前の男の人は勝手になにかしゃべっている。あたしはその手を振り払い、駅に向かって走った。
「なんで逃げるんだ!」
後ろからそんな声がしたけど、あたしの足は止まらなかった。
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家に帰り、慣れないスーツをまず脱いで、楽な服に着替える。お化粧は色つきリップしかしてない。
帰りの電車の中、ずっと気が気でなかった。さっきの男の人が追いかけて来て、またつかまれそうで、ものすごく怖かった。
家に帰りついても、落ち着かなかった。自室の布団の中に逃げ込んで、ようやく落ち着くことができた。
……怖かった。大学ってあんなに怖いところなの? 明日から通うのがとても憂鬱になった。
といっても、行かないわけにもいかなくて。
朝、重い気持ちを抱えたまま、駅へと向かった。圭季は昨日は帰りが遅かったにもかかわらず、今日も早い時間に会社に出かけたようだ。父も遅かったみたいだから、新入社員歓迎会でもあったのだろうか。顔だけでも見たかったのに、それさえもない。冷蔵庫には私と父のために朝食を用意してくれていた。涙が出そうになるのを我慢しながら食べた。
朱里と駅で待ち合わせをして連れて行ってもらったから、今日は無事にたどり着けた。一時限目の教室まで送り届けてくれたけど、絶対にあれは下心もあったと思う。でもそれくらいがあたしにとってはとても気が楽でいい。
今日は朝の九時から夕方十六時過ぎまでみっちり四時限目まで授業があって疲れた。意外にサボれそうな授業がなくて、がっかり。……いえ、大学には勉強に来ているのですが。圭季が聞いたら怒りそうだわ。
朱里は今日はアルバイトの面接があるから先に帰ると言っていた。一人で帰ることが心細く思っていたら。
「チョコちゃーん!」
校門前まで重い足取りでたどり着くと、聞き覚えのある声。
「圭季に言われて、お迎えに来たよ!」
そこには、楓那津(かえで なつ)が立っていた。あたしと同じように帰ろうとしていた学生たちの視線が一気に那津に向く。
今日は私服で来ているから、シャツにズボンといったラフな格好だった。それでも那津は目立つ。それになんだかここ数ヶ月で急に身長が伸びたような気がする。しかも会わなかった数日で妙な色気がにじみ出ていて、知らない人のように感じて躊躇した。
「那津……なんで?」
「なんでって、チョコちゃん、おっちょこちょいだから」
圭季に言われてと言ってなかった? 圭季まであたしのことを子ども扱いにしてるの?
「ほらほら、乗って!」
当たり前のようにあのリムジンが止まっていて、あたふたしているあたしなんかお構いなしで、無理矢理に乗せられた。そういう強引なところがやっぱり那津で、先ほど感じた気持ちはすぐに吹き飛んだ。
「ちょっと、どういうことなのっ」
あたしはリムジンが動き出すと同時に那津に詰め寄った。そりゃあ、一人で心細いとは思ったし、那津の顔を久しぶりに見てほっとしたのは確かだけどっ!
「圭季から聞いてないの?」
「なにをっ?」
思わず声がとげとげしくなる。
「チョコちゃんの入学祝いと圭季の入社祝いをするって話」
数日前、そんなことを言われたような……気が、しないでもない。その後、圭季にキスをされたから……って、あああ、思い出しただけでも恥ずかしいっ!
「……チョコちゃん? なんでそこで真っ赤になってるの? やらしいなぁ」
やっ、やらしくなんてないわよっ! だって圭季ったら、あんな……いやああっ! ああ、もうっ! 圭季ってば、もう、ほんっとにっ!
「……チョコちゃん妄想劇場。なにを考えているのかはなんとなくはわかるけど、それくらいの恥じらい、梨奈にもほしいな」
ため息交じりの那津の声に、ようやく現実に返ってくることができた。
「そういえば那津っ! 梨奈に告白したんだって?」
梨奈から那津に告白された、というメールを春休み中にもらった。相思相愛だったんだと安堵したことを思い出した。
「したよ。いけないのかよ」
すねたかのような那津の返答に、思わず聞いてしまう。
「那津から告白したの?」
「……そうだよ。梨奈はずっとオレのことを好き好き言っていただろう?」
うん、それは知ってる。切なそうに相談されたもん。
「チョコちゃんだから言うけど……梨奈には内緒にしておいてくれよ」
と那津はあたしから視線をはずし、
「一目ぼれ、だったんだよ」
……わっつ? 一目ぼれ?
「父さんが再婚するの、反対だったんだ。相手の女性……義母さんのことは知ってたんだけど、いまさら結婚するメリットなんてないだろう? オレももうこんなに育っていたわけだし」
梨奈からは再婚同士とは聞いていたけど、そういえば那津とこういう話をするのは初めてだ。いろんな話をしたけど、あまり深い話はしなかった。気にならなかったわけではないけど、プライバシーに関わりそうな事情は聞くに聞けなかった。
「梨奈からオレの母親の話は聞いてる?」
「ううん」
「そっか」
那津は少し躊躇しつつ、口を開いた。
「オレの母親は、オレと父さんを捨てて別の男と結婚したんだ」
リムジン内は急に静かになった。
梨奈のお母さんと那津のお父さんが再婚しているから那津にお母さんがいないのは分かっていたけど、理由を始めて知り、なんと返せばいいのか分からなかった。
那津はすごく気を遣う人だから、聞かされた相手がなんと反応すればいいのか分からないのを知っていて、この話題を避けていたんだろうな。それ以前にあんまり言って回るような内容でもないってのもあるけど。
「しかもあいつは厚顔無恥で、未だに父さんと同じ会社で働いていたりするんだぜ? そんな女の血を半分継いでいるかと思ったら、恥ずかしくて仕方がない」
那津っていつもふざけてる姿しか知らないから、こんな気持ちを抱えていたなんて驚きだ。
「義母さんも同じ会社だから、結婚したらなにをされるのか分からないから反対したんだ」
「でも……結局、再婚したんでしょ?」
「ああ。梨奈の母親と知ったら、反対できなくなった」
ん? 梨奈とは再婚して初めて会ったんじゃあ? 梨奈はそんなことを言っていたような気がするんだけど。
「チョコちゃん、クリスマスパーティーに出席したよね?」
「うん。出席したけど……あ」
橘製菓が毎年行っている社員を対象にしたクリスマスパーティーを思い出した。
「もしかして……そこで?」
「そう。そこで梨奈に一目ぼれ」
那津はそれ以来、クリスマスパーティーを毎年、心待ちにしていたらしい。うわぁ、なんだか妙に那津がかわいく見えてきた!
「父さんもオレも、好きな異性のタイプが似ていたんだよ」
いやぁ、見事に親子そろって……。
「義妹でも側にいられるといいと思ったんだけど、顔を見たら思わず意地悪したくなって」
……そのあたりの思考回路は驚くほど小学生だ。
「だからまあ、そういうことだよっ!」
那津は赤い顔をして、話を切り上げた。うふふ、那津ってば、ほんと、かーわいっ!
「そういうチョコちゃんこそ、圭季とはうまくいってるのかよ?」
質問しようかと思ったら、那津は矛先を変えてきた。
「そっ、それなりにっ」
春休み中、べたべたいちゃいちゃ……と言いたいところだけど、残念ながら圭季は入社準備に忙しかったし、あたしも準備があったからあまりかまってもらえなかったというのが実情なのだ。悔しいからそれは言わない。
「チョコちゃんがそういうのならいいんだけど。圭季の様子がおかしいから二人の間になにかあったのかと思ったんだけど、大丈夫だよね?」
圭季の様子がおかしい? そうだっけ?
「圭季、いつも通りだったけど? 仕事が大変だから?」
というものの改めて思い返してみると、ここ数日、落ち着きがなかったような気がしないでもない。だけどそれは入社前で緊張しているのかなと思ったんだけど……。那津に言われて初めて圭季の様子がおかしかったことに気が付くなんて、彼女として失格?
「チョコちゃんって悩んでいてもだれにも相談しようとしないから、なにかあったらオレか梨奈に言うんだよ」
「あ……うん、ありがとう」
とは言うけど、今まで相談なんてしたことがないから、どうすればいいのか分からない。
「圭季も悩み事を言わないし、ほんっと二人してそういうところが似てるから、困るというか、わかりやすいというか」
と那津はつぶやいている。
あたしと圭季、似てるの? 全然似てないと思うんだけどなぁ。
話をしているうちに橘家にたどり着いたようだ。那津は急に『執事スマイル』をして、あたしを車の外へと導く。
外に出ると、少し肌寒いけどさわやかな風。春なんだな、と実感する。
「ほらほら、圭季のお母さんが今か今かと待ってるんだから、早く入って!」
那津にせかされて、あたしは久しぶりの橘家へ足を踏み入れたのだった。
【つづく】