《一話》大学生になりました!
都千代子(みやこ ちよこ)、無事に大学生になりました!
入学したのは聖マドレーヌ学院大学の栄養学部。
ここの大学は橘製菓の創業者が作った学校で、栄養学部は大学の要なのもあって人気が高い。よくそこの推薦入試枠を取れたなあ、と後になって知って驚いた。
『聖マドレーヌ学院』とつけたのは、橘製菓が最初に商品として売り出したものがマドレーヌだからだとか。中学の入学式でそんなことを校長が話していたような気がするけど、真面目に聞いてなかったのよねぇ。まさか圭季とこういう関係になると思ってなかったし、なによりも父が橘製菓に勤めているからここにあたしを入れただなんて知らないから、圭季に改めて話を聞かされて、あわててしまった。
そしてなんとなんと! 圭季は栄養学部卒なんですって。初めて知ったわ、それ。
圭季はあたしの先輩なんだ。それを思っただけで、なんだか顔がにやけてしまう。端から見なくても、今のあたしは充分に気持ちが悪い。
そして今日は、入学式。うー、緊張するなぁ。
それにしても、四月一日から入学式って、春休みが思ったより短くてがっかり。
だけど圭季も今日から橘製菓の社員になるというから、ちょうどよかったのかな。
そうそう、圭季なんだけど、聖マドレーヌ学院高等部の先生を三月末で辞めた。
あたしはてっきりそのまま学校の先生を続けて行くかと思っていたんだけど、そうだよね、圭季は元々、橘製菓の跡継ぎだったもの。学校の先生をしながら会社を経営していくなんてことできないから、どちらかを選ばなければならないもんね。
圭季が家庭科教師として聖マドレーヌ学院高等部の先生をやっていたのは産休の先生の代わりではあったものの、手を抜くなんてことはなかった。そのため圭季の働きぶりを見た学校側は、辞めることを酷く惜しんだらしい。引き続き勤めてほしいって言われたみたいなんだけど、圭季はそれを断ったみたい。
とはいえ、圭季もすっぱりと教師の道を諦めきれなかったみたいで学校の先生に後ろ髪を引かれつつ、だけど前から決まっていた橘製菓を継ぐために今日から入社となった。
……んだけど。
「圭季、本当にその恰好で行くの?」
あたしは圭季を見て、目が点になった。
「やっぱり駄目?」
「駄目とは言わないけど……。うーん……」
そこにはあの、だっさい立花先生が。
どこから調達したのか分からないよれよれのスーツ。
髪の毛はぼっさぼさで、どこに売っているのか分からない太めの黒フレームの大きな眼鏡。だけど少し童顔にも見える整った顔はそれでも隠しきれてないと思うのよね。見てる人はきちんと見ているし。
なんでも橘製菓に入社はするけど特別扱いしてほしくないから、『立花圭季』として入社することになっているんだとか。
去年一年間のあのだっさい恰好で変な自信がついちゃったみたい。あたしが単ににぶい子だからだと思うんだけど、なんだかとっても変な負い目というか罪悪感というか、そういうものが心によぎるのですが。
「あの……圭季の気持ちもわかるけど、だますのはどうかと思うのよ」
そこは圭季も少なからずともあたしに対してそういう負い目みたいなものは感じているようで、表情がこわばった。
「最初からありのままの自分を受け入れてもらうのは難しいとは思うけど、普段通りで行った方がいいと思うよ」
「そうか……。うん、ありがとう」
圭季は少ししょんぼりしながらも洗面所へ行き、髪の毛を梳かし、眼鏡も外して戻ってきた。スーツ姿を見るのが初めてではないけど、あたしの彼氏にするにはもったいなさすぎる。
あたしが見惚れていると、圭季は近寄ってきて、軽く唇にキスをしてきた。
ちょっ、ちょっと! ふっ、不意打ちのキスはっ!
頭に血が上り、頬は熱を帯びる。目の前には蕩けるような笑顔の圭季。
「ありがとう。チョコにはいつも助けられているよ」
圭季の顔がもう一度近づいてきた。あたしは瞳を閉じる。キスをされるこの瞬間のどきどきがたまらない。春休みの間、何度も交わしたキスだけど、何度されても慣れることがない。
唇と唇が触れあう寸前、階下からのインターホンが鳴り響く。
あたしはあわてて目を開けると、圭季は残念そうな表情をしてあたしから離れていった。
「ごめん、迎えが来たみたいだ。チョコ、入学式に行けなくて、ごめんね」
「ううん、いいのよ。もうあたしも子どもじゃないし」
本当は来てほしいけど、圭季はあたしとの未来をきちんと考えて、会社を継ぐことにしたみたいだから、そのあたしがわがままを言ったら駄目なのよ。我慢しないとね。
「行ってらっしゃい」
「……なんか、新婚さんみたいでいいな」
と言いながら、圭季はかばんを持つと、あわただしく家を出て行った。
しっ、新婚さんってっ! もう、なんてことを言ってるの!
真っ赤になっているであろう頬を押さえ、時計を見ると。
「うわっ! あたしも遅刻しちゃう!」
初日から遅刻なんて、ダサすぎるっ!
あわてて荷物を持つと、家を飛び出した。
今日から始まる新しい暮らしに、あたしの心は不安と希望で胸がいっぱいだった。
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そう、家を出たまでは良かったのよ。
学校へ行くためには電車に乗らないといけない。推薦入試の時にも乗ったし、きちんと下調べもした。しかし、現実はそんなに甘くなかった。
「……なんでこんなに混んでいるの?」
駅に到着して、嫌な予感はしたのよ。
普段、公共機関を利用しないあたしは知らなかったのだ。通勤・通学時間の乗り物がこんなに混雑するなんて。
人でごった返す改札をどうにか通り抜け、ようやくの思いでホームに行くと、すごい人。なんでこんなに人が? と驚くほどいた。
そして到着した電車の中を見て、腰が引けた。なに、この人の多さ! 乗れるの?
電車が到着して扉が開き、どっと人があふれ出てきた。その波に飲み込まれ、気がついたら改札に逆戻り。
あたし……大学までたどり着けるのかな。
改札の横で少し涙が出そうになっていたら、見知らぬ男が声をかけてきた。
「大丈夫? もしかして、聖マドレーヌ大学の人?」
目の前に立つ男の人は、心配そうにあたしの顔をのぞきこんでいる。男の人、ということであたしの身体は硬直した。
忘れていた。男の人がすごく苦手だったことを。
最近では圭季と那津で慣れたと思っていたけど、基本的には中学・高校と女子校で、男の人には免疫がない。しかも小さい頃の出来事のせいで、男の人は苦手なのだ。
見知らぬ男の人にいきなり近寄られ、さらには顔をのぞきこまれて、蛇に睨まれた蛙状態。
怖い……!
恐怖に心が支配され、頭は真っ白になる。
「ほら、急がないと遅れるよ」
目の前の男はいきなりあたしの腕をつかむと、引っ張った。
「いっ、いやあああ!」
手に持っていたかばんを振りまわし、気がついたら男の頭を盛大に殴っていた。
「ごっ、ごめんなさいっ!」
男がひるんだ隙にあたしはそれだけ叫び、ホームへと駆け上った。そして目の前に止まっている電車へと飛び乗った。
電車はすぐに閉まって動きだしたけど、なんか変。
先ほど到着した電車はあんなに混んでいたのに、この電車は座席は埋まっているものの、空いている。おかしいなあと思いながらもぼんやりと窓の外を眺める。
さっきの人、大丈夫かな。心配して声をかけてくれたのに、かばんで殴っちゃった。悪いことしちゃったかな。
男の人に慣れたと思っていたのに、それは圭季と那津だからだったんだと初めて知る。
聖マドレーヌ学院大学は共学なので、男の人もいる。あたしの行く栄養学部は女子が多いようだけど、それでも男子もいる。栄養学部って女子大学に多いから女子の学部というイメージが強いけど、聖マドレーヌ学院大学は昔から共学で、男子も栄養学を学べる数少ない大学で人気が高いという。
そういえば朱里が言っていたな。
『聖マドレーヌ学院大学の栄養学部の男子のレベルは高いのよ!』
と。
なんのレベルかあまり深く考えなかったんだけど、男子は競争率が高いから頭がいいという意味でのレベルかなぁ。でも朱里のことだから、見た目のことを言っている可能性も高い。
ぼんやりとしていたんだけど、いつまで経っても電車は大学の最寄り駅を告げない。
そこでようやくあたしは、重大なミスを犯してしまったことに気が付いた。あわてて車内に掲示してある路線図を見て、とんでもないことをやってしまったことに気が付いた。
反対の電車に乗っちゃった。
時計を見ると、すでに九時を過ぎている。入学式、始まってるよ!
あたしは焦り、とりあえず到着した駅で降りた。
今度はきちんと大学方面に行く電車であることを確認して乗り込み、大きなため息をついた。
初日からやらかしてしまった。おっちょこちょいにもほどがある。
入学式に間に合わないけど、とりあえず大学に向かおう。涙が出そうになったけど、唇をかみしめて我慢した 。
ようやく駅につくと、当たり前だけどがらんとしていた。うなだれて大学へと向かい、入学式が行われているらしい講堂へと向かったけれど、これだけ遅刻をしたから中には入れない。遠巻きに眺め、人が出てきたらそのまま紛れ込もう。
自分のドジっぷりにため息を吐いてうつむくと、朱里と一緒に買いに行ったグレイのスーツが目に入った。
大学は私服ということで、なにをどう着ていけばいいのか分からなくて朱里に相談したら、一緒に買いに行こうと言ってくれた。このスーツと一緒に私服も何点か買い、買い足すときのアドバイスももらった。
買い物をしながら朱里に、
『チョコはおっちょこちょいだから、入学式、一緒に出ようか』
と学部が違うけど同じ大学の朱里がそう言ってくれたのを今さらになって思い出した。そのときは、一人で大丈夫、と強がって別々に行くことにしたんだけど……。
ようやく朱里が心配していることに気がついた。
きっと朱里のことだから、あたしがきちんと大学に来ているかどうか心配していっぱい電話とメールを送ってきてる!
あわててかばんを開けて中から携帯電話を探し出すと、予想通り、朱里から山のような着信とメール。メールを見ると、
『チョコのことだから、間違って反対側に乗って気が付いてないんだと思う。
大学についたら、とにかくメールをちょうだい』
と入っていた。図星すぎて、落ち込んだ。さすが付き合いが長いだけあって、行動を思いっきり読まれている。こんなに心配をかけるんだったら、強がらなければよかった。と思っても後の祭り。あわててメールを作成して、送った。
あたしもいつまでも朱里に心配をかけさせてばかりじゃいけない。同じ大学とはいえ、学部が違うわけだし、そしてなによりも早く自立して圭季につりあう人にならないといけないのに。朱里だって安心して彼氏の一人や二人、作れないよね、あたしがこんなだったら。それもだけど、朱里に愛想をつかされてしまいそうでそちらの方が怖かった。
そんなことを考えているうちに入学式は終わったようで、講堂が騒がしくなってきた。
「チョコ!」
出入口で朱里を探していたら、向こうが見つけてくれた。見知った顔を見たら、涙が少し出た。
「やっぱり駅で待ち合わせした方がよかったかぁ」
朱里のその言葉に慌てて首を振った。一人で行くと強がったのはあたしなのだ。だけどその結果、朱里に心配をかけさせた挙げ句、初日からやらかしてしまった。
「あの……心配掛けて、ごめんね」
「気にしないのっ! 圭季さんも今日から仕事なんだっけ?」
「うん、そう」
朱里はため息をつき、あたしを見た。
「もう、そんな顔をしないのっ。とにかく栄養学部の教室まで連れて行ってあげるから、きちんと話を聞いて、もれなく授業を取るのよ! わたしも確認してあげるけど、なんなら圭季さんにも見てもらって」
あたしってそんなに頼りない? 大学生にもなってもおっちょこちょいで抜けてるなんて、どうすればいいんだろう。
「はいはい、もうここで落ち込まないの! あのね、わたしが心配性なのは知ってるでしょ? せっかくの大学生活なのに、そーんーなーかーおーしーなーいーのー!」
と言いながら、朱里はあたしの頬を引っ張った。痛いって!
「ほらほら、行くわよ! 栄養学部、今年も豊作って聞いたから! いい男がいたら紹介してねっ!」
「朱里……」
「ああ、わたしの王子さま、どこかに落ちてないかしらっ! チョコを送り届けるという振りをして、いい男を観察しにいく! うん、われながら素晴らしいわ! しかも友だちの心配までできる気配り上手な女としてこれ以上のアピール方法があるだろうか、いや、ない」
反語まで使って朱里はそんなことを言っている。それは本気なのかあたしに気を使ってなのか。それがどちらであれ、朱里らしい発言にあたしはようやく笑うことができた。
「そうそう、チョコは笑ってなさい。あなたに悲しい顔は似合わないっ!」
「あの……それってタダのお馬鹿さんなんでは?」
「馬鹿は世界で最強なのよ! あんたの笑顔は最強!」
一生懸命になって励ましてくれている朱里に申し訳なくて、あたしはがんばって笑うことにした。
「さて、行きましょ」
いつも朱里には申し訳ないと思う。いつか呆れて朱里も離れて行ってしまうのかな。ああ、今日のあたしはとってもネガティブだ。こんなんじゃ駄目だ。
「よし、競争しよう!」
あたしは嫌な考えを振り払うように、走りだした。
「チョコ、早速だけど、栄養学部は逆方向だよ!」
大げさにこける真似をしたら、朱里に大笑いされた。朱里がこっちだよ、と手招きをしてくれたので、走ってそちらへと向かった。
【つづく】