《十話》那津の妹、登場!
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そうして迎えた中間試験。それなりに真面目に勉強はしたから、そこそこの成績のはず。
那津はさすがに同じ教室で試験を受けることができないからと本来の教室で試験を受けていたみたい。
試験も無事に終わり、返ってきた答案用紙を見て、まあまあの結果にほっとした。そして、全部返ってきて、上位成績優秀者が貼り出され、それを見て驚いた。
なんと、那津が一年のトップだったのだ。
あたしの横にずっといて、授業なんて受けてないはずなのにっ! なんで?
「頭のできの差、だね」
なんて憎まれ口を叩いていたけど、これにはぐうの音も出ない、というのがぴったりだった。
ようやくあたしも試験が終わってほっとしたのもあり、お菓子作りを再開。那津がよく邪魔をしてくれるけど、華麗にスルーするすべも覚えた。那津とじゃれているとたまに鋭い視線を感じるのでふと見ると、圭季さんがじっと見ていることがあったけど、なにかあたし、悪いことやってる? だけどそう聞けなくて、ちょっともやもや。
土曜日。朝ご飯を食べた後、いつものように買いだし。圭季さんと那津のふたりが荷物を持ってくれていて、その後ろをあたしがいつものようについてマンションに帰る。
そうして。マンションの前にいつぞやのようにだれかが立っていた。だけど……薫子さんではなかった。
パーマをかけているのか、といった感じのふわふわの長い黒髪、きらきらと輝く黒茶色の瞳。身長はあたしより高くて手足が長いけど、ほっそりしていてモデルさんみたいな体型。ピンクのひざ上のフレアスカートに白の半そでブラウス。ものすごくかわいい女の子が、そこにいた。
「け、圭季。オレ、急用を思い出したよ。に、荷物、たのむ、な?」
那津はそういうなり、圭季さんに荷物を押しつけ、くるりと回れ右、をして走り出した。マンションの前に立っていた可憐、という言葉がぴったりな少女は那津を見つけてぱーっと顔を明るくして、
「おにーさまぁあああ~!」
と叫んで走り始めた。
「オレはおまえなど知らないぞ!」
那津の叫び声が少し遠くで聞こえる。少女は勢いよくあたしたちの横を通り過ぎ、逃げ去る那津を追いかけている。
「あ、あの……。今の人……?」
「あ、ああ。那津の……妹」
はい? 那津の妹?? 全然似てないんだけど。
「あれはどう見ても、那津の負け、だな」
しばらく待っていると、遠くから那津の叫び声と思われるものが聞こえてきた。
「つかまったな。あの子に走ることで勝てるわけがないだろう……」
圭季さんの呆れたような声に、きょとんと見上げる。
「那津の妹の梨奈(りな)は、陸上の選手なんだよ」
そ、そうですか。
「ケーキ、助けてぇ~」
那津は妹だという梨奈ちゃんに首根っこをつかまれて戻ってきた。
「ワタシから逃げようとするからですっ!」
「梨奈ちゃん、久しぶりだね」
どうやら圭季さんは顔見知りらしく、そう挨拶している。
「圭季さん、いらしたんですか」
ものすごいつっけんどんな態度にびっくりした。こう言ったらなんだけど、圭季さんはあちこちで女の人に人気があるから、一緒に買い物に行ってこっちがやきもち焼くことがあるのに、この態度は初めてで新鮮。
苦笑したような複雑な表情に梨奈ちゃんは不機嫌な顔で、
「ワタシの大切なお兄ちゃんを取らないでくださいっ!」
そういって那津をぎゅーっと抱きしめている。
えーっと……。ブ、ブラコン?
「り、梨奈っ! 苦しいから離せっ!」
那津が梨奈ちゃんの腕の中で暴れているのをみて、なんだか意外。常に冷静で何事にも動じないと思っていたけど、あたしはどうやら那津を誤解していたらしい。
「あ、あなたがお兄ちゃんが守ってるという人なんですねっ!」
少し敵対心を燃やした瞳で半ば睨まれるようにこちらを見てきた。
「ワタシ、楓梨奈。那津の妹でーっす」
といきなり明るく自己紹介されてしまった。あたしは名乗り、頭を下げるしかなかった。
「梨奈ちゃん、とりあえずチョコの家に行こうか」
「圭季っ! 猛獣を家にあげるなっ! マンションを破壊されるぞ!」
猛獣? 破壊??
壊されるのは困るけど、この子がそんなことをするように見えないし、ここで立ち話する方がどうかと思ったから、とりあえず中に入ることにした。
「チョコちゃんの、鬼っ! 悪魔っ!」
中に入ることを許可したあたしに向かって那津はそう言っていたけど、梨奈ちゃんがにっこり微笑んで那津の耳元になにかを囁いていた。それを聞いた那津は……驚くほど静かになった。どんな魔法の言葉を言ったのだろう?
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成り行き上、梨奈ちゃんを家にあげたけど、よかったのかなぁ?
と思ったところで梨奈ちゃんはすでにわが家のリビングで物珍しそうにきょろきょろと見て回っている。
「梨奈っ! 行儀が悪いぞ。ソファに静かに座っていろっ!」
珍しいものなんてなにもないと思うんだけど……。
那津が無理やり梨奈ちゃんをソファに押し付けるように座らせた、まではよかったんだけど、梨奈ちゃんは那津の腕を引っ張って那津がバランスを崩し、梨奈ちゃんの上に覆いかぶさるような形になってしまった。
「お兄ちゃんたら、大胆ねっ!」
うふふ、と言いながら梨奈ちゃんは那津に抱きついている。
な、なんだかあたし、ここにいたらものすごいお邪魔……かしら? だけど梨奈ちゃんは一応、お客さまだからここに置いて部屋に戻るわけ……にはいかないよねぇ。
どうしようか困っていたら、圭季さんがトレイに紅茶とカップとあたしが焼いたクッキーを持ってきてくれた。
圭季さんは梨奈ちゃんに抱きつかれている那津を見て、やっぱり苦笑していた。
あたしは那津と梨奈ちゃんの対岸のソファに座り、お茶を楽しむことにした。圭季さんはお茶の準備をして、少しどこに座ろうか悩んで、あたしの横に座った。圭季さんが思ったより近くて、かなりドキドキする。
「オレにチョコちゃんがつくったクッキーを食べさせろー!」
と梨奈ちゃんの束縛から抜け、クッキーにがっつこうとしたら、梨奈ちゃんの方が素早くてクッキーの入ったお皿を持っていた。
「ワタシが食べさせてあげる。はい、お兄ちゃん。あーんして」
「嫌だ。自分で食べられるっ!」
「照れなくてもいいじゃないっ! おうちではいつもこうして食べさせてあげてるでしょう?」
そんなことないっ! と那津は必死に否定しているけど、那津ってば、あたしにそうやって食べさせようとしていたよね、そう言えば。そうか、家で梨奈ちゃんにしてもらってるからなのか。思わずにやにやとしながらふたりを見てしまう。あたしはおっさんかいっ!?
ふと圭季さんを見ると、あたしのことをじっと見ていたのでびっくりした。目が合うと、圭季さんはにやり、と笑って
「チョコにもしてあげようか?」
「けっ、結構ですっ!」
なっ、なんてことを言うんですかっ! まるでラブラブな恋人のようじゃないの。
……恋人?
「け、圭季さん……。まさかあんな恥ずかしいこと、やりたいんですか?」
い、一応、圭季さんとは婚約者だから……恋人、と言ってもいいんだよ、ね? なんだか慣れない単語に急に心臓がドキドキし始めた。
「チョコが望むなら」
とにっこりと微笑まれてしまい、一瞬で自分の頬が真っ赤になったのが分かった。
そっ、そんなことっ! 頼まれても無理ですっ!
兄妹けんか(?)は決着がついたらしく、那津はにこにことうれしそうにクッキーをひとり占めして食べている。
「お兄ちゃん、ずるいですっ! ワタシにも一枚、ください!」
そういって梨奈ちゃんは那津に向かって口を開けて待っている。
こ、これは……。
那津は渋い表情をして、クッキーを一枚取り、親指の上に乗せてはじいた。クッキーは宙に舞い、くるくると回転しながら梨奈ちゃんの口の中にすとん、と落ちた。あまりにも見事だったので、思わず手を叩いてしまった。
「すごい?」
那津は得意そうに胸を張っている。こういうところはまだ子どもよねぇ。
もぐもぐと無言で食べていた梨奈ちゃんはいきなり立ち上がり、
「このクッキー、ものすごく美味しい!」
と那津の持っているお皿を奪おうとしている。
「ありがとう。けんかしないでもまだあるから」
また兄妹けんかを始めそうな勢いだったので、止める。
「食べますっ!」
あたしはキッチンに行き、残っているクッキーをお皿に入れ、梨奈ちゃんに手渡す。梨奈ちゃんはうれしそうにクッキーを食べてくれるから、すごくうれしい。
「お兄ちゃんがこのクッキーに惚れたの、わかりましたっ!」
先ほどまであたしを見ていた視線が痛かったけど、今はきらきらと輝いている。なんだ、この変わりようは……。
「こんなに美味しいお菓子が作れたら、お兄ちゃん、ワタシのこと、惚れ直す?」
なんて聞いてるけど、あたしには兄も姉も弟も妹もいないから分からないけど、お兄ちゃんがいたらこんなに好き好き言うものなのかなぁ?
学校の友だちを思い出しても、兄がいる、という人たちは一様にうざいだとかいらないと言っているんだよね……。なんだろう、この違い。
「チョコさんっ!」
「はっ、はひっ!?」
「ワタシを弟子にしてくださいっ!」
はあ? 弟子?
「ワタシ、今日からここに泊まりこんで、チョコさんにお菓子の作り方を教えてもらいますっ!」
って、ちょっと待ってー!
いや、空いている部屋がないわけではない。この家は無駄に広いのだ。あたしの隣の部屋が実は空いているのだ。しかし。
「梨奈、これ以上ここの家に迷惑は……」
「おや、梨奈ちゃん。いらっしゃい」
のそり、と父が奥の部屋から出てきた。どうやら今、起きたばかりらしい。パジャマのまま、眠そうな顔をしてのそのそとリビングに歩いてくる。
「雅史さん、お邪魔しています~」
梨奈ちゃんは語尾にハートマークをつけそうな勢いでキラキラとした表情で父を見上げている。知り合いなの?
「雅史さんっ! ワタシをチョコさんの弟子にしてくださいっ!」
「弟子? なんの弟子か知らないけど、チョコなんかでいいのならお好きなように」
父よ……。 娘の意思は無視ですか?
「チョコの隣の部屋が空いてるから、そこを使ってもらってもいいよ」
先ほどの会話は聞こえていたようで、父はあっさりと許可している。
「圭季くん、大変だけど今日のお昼から一人前増やしてもらってもいいかな?」
「はい、大丈夫ですよ」
って、おーい。もう、なにこのカオス状態。
こうして、那津の妹の梨奈ちゃんまでわが家の同居生活に参戦することに……。聞いてないよ。
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梨奈ちゃんを助手に、あたしはお菓子を作ることになったんだけど、梨奈ちゃんはこういうことをまったくしたことがないみたいで、最初はもう、なにもかもがひどくて驚いた。那津はそれなりにできるのにね。
だけど日々、できるようになっているのを見ていると、それはそれで楽しいなぁ、と思う。
梨奈ちゃんは『痩せの大食い』という言葉がぴったりで、那津とふたりしてとにかくよく食べる。だけど太らない。……うらやましい。
梨奈ちゃんは見た目は結構女の子だけど、陸上部というだけあって性格は意外に男前。あまりにも女の子な性格の子だと苦手なんだけど、梨奈ちゃんの竹を割ったようなこの性格に豪快な食べっぷり。年齢は三つ違って梨奈ちゃんは聖マドレーヌ学院中等部の中学三年生であたしの後輩なんだけど、いつの間にかものすごく仲良くなっていた。
全員がそろって夕食を食べていたある日。
「夏休みにみんなで泊まりがけで旅行に行こうか」
と父が提案してきた。旅行なんて、いつ以来ぶりだろう。
「旅行先は橘製菓の保養所がある場所にしようかと思っている」
父はもうすでに計画を立てていて、さらに予約も取っているようだった。気が早すぎるよ、父上どの。
「ああ、そこなら水族館がありますよね」
すっかり忘れていたけど、圭季さんに言われて思い出す。クラゲで有名な水族館に行こう、と言っていたのに、なんだかばたばたしていて行けなかったことを。
そうなると、急に待ち遠しくなってしまった。あー、水族館!
「その前に、期末試験、みんながんばってね」
と、嫌なことを思い出させてくれる父。
お楽しみの前には試練がつきもの、ってか?
部屋に戻って試験勉強をする。さーってと、がんばりますかっ!
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期末試験もやっぱり那津は学年一位だった。すごすぎる。
そして、待ちに待った旅行! 父の仕事の都合もあって一泊しかできないけど、それでも修学旅行とは違う旅行にうきうきしていた。朝早くに起きて、あたしたちは電車に乗って目的地へ。快速なのに二時間もかかるってかなり遠いのね。
駅に着き、迎えのバスに乗ってホテルへ。まだまだチェックインには早いので、フロントに荷物を預けて、先に水族館に行くことになった。
雲ひとつない青空。これぞ夏! という強い日差しに少しうんざりしながら五人でぞろぞろと水族館に向かう。水族館に入ると、向こう側に海が見えた。
あたしは麦わら帽子にグリーンのワンピース、梨奈はタックの入った黒のパブスリーブに黒のチェックの短パン。夏のリゾート感を演出してみたけど、どうだろう?
「なんだか潮の香りがすると思ったら、こんなに近くに海があったんだ!」
走ってフェンスのところまで行き、少し身を乗り出して海を見る。結構波が高くて、「遊泳禁止」という立て看板が見える。海では泳げないのか、残念。
「チョコ、危ないぞ」
危ない、と言われてさっそく麦わら帽子が風に飛ばされそうになり、あわてて帽子を押さえると身体がぐらっとする。圭季さんが苦笑しながらあたしを支えてくれている。ちょっとはしゃぎすぎちゃったか。
那津は梨奈に無理やり腕をつかまれてどこかへと行ってしまった。父もひとりでふらり、と見に行ってしまったらしい。とりあえずホテルのロビーで待ち合わせはしているから、ばらばらになってもいいか。
圭季さんはあたしの手を当たり前のように握り、にっこり微笑む。そう言えば、こうして手をつなぐのもあの水族館デート以来のような気がしてきた。
あたしたちは順序に従い、水族館を見て回る。ここは水族館と言っても屋内と屋外とに分かれていて、屋外には何か所かステージがあり、イルカやアシカのショーをやっている。
そしてここの目玉はなんといってもシャチ! 初めて見るシャチに目が点になった。テレビで見て、知ってはいたけど……。こんなに大きいんだ!
見ていたら、ばしゃん、と思いっきり頭から水槽の水をかけられた。
「もー!」
圭季さんは後ろに下がって写真を撮っていたらしく、被害は免れたらしい。
「面白い写真が撮れた」
と言って笑っている。
「人事だと思って!」
「夏だから、大丈夫。外をうろうろしていたらすぐに乾くよ」
それほど今日の日差しは強くて暑い。日焼け止め、塗ってきて正解だった。だけど今ので少しとれたかもしれないなぁ。お手洗いに行って、塗り直す。
今日の圭季さんは白の半そでシャツに黒の少しくしゅっとした感じのタイトなジーンズっぽい生地のズボンをはいている。ラフなんだけど、それがさまになっていて、やっぱりこんなにかっこいい人が自分の彼氏だなんていまだに信じられない。
外ではショーを渡り歩き、一通り見たら屋内に展示してあるものたちを見て回った。ここにもクラゲがいて、ついつい見惚れてしまっていた。
館内を見て回っていると、たまにきゃあ、という悲鳴が聞こえてくる。
なんだろう? と思いつつも見て回り、その悲鳴の正体を知る。
ふむふむ、磯の吹き出しを再現しまし……。
「きゃっ!」
それまで穏やかだった水が、こちらに向かって吹き出してきて、驚いて隣に立っていた圭季さんにしがみついた。また濡れちゃうっ!
……しかし。
先ほど、シャチに水をかけられたような水の冷たい感触はいつまで経ってもこなかった。恐る恐る目を開け、水槽を見る。
ま、まさか……! まただまされたっ!?
前に圭季さんと水族館に行った時と同じように、ガラスがあるからこちらにかかってくるわけがなく……。
「チョコは単純だなぁ」
半ば呆れた、だけどものすごく楽しそうな声が上から降ってきた。うっわー、どうなの、この単純馬鹿な反応!?
圭季さんは笑いをこらえながら、あたしのあたまを軽くなでる。それが妙に気持ちがよくて、圭季さんに抱きついたまま、ついついその厚い胸に頬を寄せる。
このままずっとこうしていたい。なんて思いがふとよぎったけど、そういうわけにもいかないから名残惜しみつつも圭季さんから離れる。そして、どちらからともなく手を繋いで見て回った。
お昼は混むことを想定して、少し早めに食べることにした。朝、早かったのもあり、お腹がすいてたんだよね。
お昼も食べて、ショーも屋内の展示も制覇したあたしたちは少し早いと思いつつ、今日のホテルへと向かった。
ホテルのロビーに着くと、すでに父は帰ってきていたらしく、ロビーのソファに座って寝ていた。それを見た圭季さんはホテルのフロントに早めにチェックインさせてもらえるように交渉してくれているようだった。
保養所、と聞いていたから研修施設みたいなところを想像していたら、どうやら違ったらしい。普通にホテル経営をしているところと年間契約をしているらしく、優先的に泊めてもらえるみたい。しばらくの交渉の末、部屋の準備ができ次第、と言われてほっとする。朝早かったし、さすがにあの日差しの下で疲れていた。
部屋の準備ができたと言われ、ルームキーを受け取っているところに那津と梨奈が戻ってきたところだった。
「もー、お兄ちゃん、信じらんないっ!」
梨奈が珍しく那津に対して怒っている。なにをやったんだろう、那津?
部屋に入れる、という話をすると梨奈は助かった、という表情をしていた。
「シャチと写真を撮ってあげる、って言ってくれたから寄って行ったら、水を思いっきりかけられたのよっ!」
よくよくみると、確かに濡れている。
「あたしもかけられた」
「チョコちゃんもかけられたの? じゃあ、部屋に行ったら、温泉入りにいこっ!」
温泉があるの!?
温泉、と聞くと、なんとなくテンションがあがってしまうのは日本人だからかしら?
部屋は、男三人と女二人の二部屋で隣同士。
お風呂に入る準備をして、温泉へと向かった。だけど、細くてスタイルのいい梨奈と一緒にお風呂は、かなり恥ずかしいかも。ぷにぷにがばれませんように。
お風呂に行くと、露天風呂もあってなかなかいい感じ。人もいなくて貸し切り状態。うーん、極楽、極楽……ってどこのおっさんよ。
お風呂からあがって部屋に戻ると急に眠気が襲ってきて、上掛けだけだして、あたしは眠ることにした。
夜のイベントのために体力温存よっ!
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あたしたちふたり、すっかり眠りこけてしまっていたようで、那津が起こしに来てくれて目が覚めた。梨奈は那津を布団に押し倒そうとしていたけど、那津は華麗に避け、するり、と部屋を出て行っていた。もしかして、梨奈にされていることを那津、あたしにしていた?
時計を見ると、もう夕方になっていて、結構長い間、寝ていたことを知った。あの日差しは体力消耗するよなぁ。なんだか気持ち、ひりひりするような気がするけど、気のせいよ。とりあえず、持ってきていた乳液だとか塗ってみる。普段は使わないんだけど、念のため、と思って持ってきておいてよかった。
廊下に出ると、男性陣が待っていてくれた。なんだかみんな、若干顔が赤いような気がするのは、日焼けしたから?
食事はレストランで、と言われていたので向かうと、さすがに夏休み、思ったより混雑していた。テーブルに案内され、あらかじめ料理は頼んであったからそれほど待つことなく、料理が並べられる。
父と圭季さんは珍しくビールなんて飲んでいる。料理は、さすが海辺、新鮮な魚介類が豊富で、なかなか美味しかった。
ご飯を食べ、今日はこれから夜のイベント『夜の水族館探検』というのに申し込んでおいた。夜の水族館なんてめったに見られないから、すごい楽しみ。参加者も結構いて、ガイドさんについてぞろぞろと移動。説明を聞きながら夜の水族館を見て回った。
先ほど、太陽の下で見た明るい雰囲気とは違った夜の水族館は怖いような、なんともいえない空間だった。薄暗い中、動いている動物たちが新鮮だった。
夜の水族館探検が終わり、ホテルに向かっていたら圭季さんは父になにか耳打ちをしていた。そして、あたしのところに来て、
「ちょっと夜の海を見に行こうか」
少し風が強い中、圭季さんに手を引かれて海へと向かう。
そこは、お昼に遠くから見た浜辺とは違い、思った以上に暗くて、暗闇に慣れた目でも足元がおぼつかない。
「足元、気をつけろよ」
そう言われ、そろそろと歩く。砂浜に出て、波打ち際からかなり離れた場所に立って海を見る。
お昼も結構、波が高かったけど、夜になり、思ったより荒れているようだった。
夜の闇の中、うごめく波は荒々しく、音も思っている以上に大きくて急に怖くなる。圭季さんの手をギュッと握りしめた。すると、圭季さんはふわり、とあたしを後ろから抱きしめてきた。心臓がどきん、と大きく脈打ち、そのままドキドキとし始める。
さっき、お風呂に入っておいてよかったー。結構、汗臭かったのよね。……なんてことを考えてしまう。
「頼りないかもしれないけど、チョコのこと、一生守るから」
プ、プロポーズ!?
「正直最初、会うのが怖かったんだ。拒否されたらどうしよう……って」
最初の頃を思い出し、くすり、と笑う。
いきなり那津が現れて、執事だというし、さらに家に帰ったら圭季さんがいて婚約者だと言われて。これで戸惑わない方がおかしいでしょう? ほんと、なんの冗談かと思ったわよ。
そういえばあたし、ものすごく戸惑って、婚約話を拒否しようと思ったんだっけ? 一週間お試しに、と言われて……そういえばそのままお互い意思確認しないまま、なんだか流されるように同居生活を続けてるよなぁ。
だけどやっぱり、いまだに信じられない。
圭季さん、薫子さんと昔、つきあっていたんでしょ? ……聞きたくてもずっと聞けずにいる自分に少しちくり、と心が痛む。だけど今なら聞けるような気がして、思いきって聞くことにした。なんとなく薫子さんが現れてから、あたしたちの間の空気がぎこちなくてなかなか踏み込めずにいたんだけど、今なら聞けるような気がした。もしかしたら、このせっかくの旅行気分に水を差しかねないかもしれない、とも思ったけど、今を逃したらいつ聞くのよ? 思いきって口を開いた。
「あのっ、圭季さん」
圭季さんはずっと、あたしを後ろから抱きしめている。口を開かなかったけど、気配でなに? と続きを促されているような気がしたので、続けて聞く。
「薫子さんって、圭季さんの元カノ、なんですか?」
せっかくいい雰囲気なのにそんなこと聞くなよ、という気配がしたけど、気にしない。圭季さんは苦笑しているようなため息をつき、
「その話、きちんとしておかないと……と思っていたんだけど、まさかチョコの方から聞かれるとは思ってなかった。申し訳ない、聞くのに相当、勇気がいったよな」
そうして、ぱふぱふ、と髪の毛をなでられた。その手がものすごく気持ちがよくて、圭季さんの手に頭をゆだねる。
「おれが大学生の頃、同じサークルで知り合って。少しの間だけど、付き合っていたよ」
「あの……ごめんなさい」
海は相変わらず荒れていて、なんだかあたしの心を反映しているよう。聞くんじゃなかった、という思いが強くなる。
聞いたところで、過去が変わるわけではないし、どうやら今はもう付き合っていないみたいだし。変に嫉妬して、聞くんじゃなかった。
……嫉妬? だれに? 薫子さんに対して? 過去を知っている薫子さんに対してあたし、嫉妬してるの?
「おれはチョコのことが一番──」
耳元で聞こえるか聞こえないかくらいの小さなかすれた声で、
「好きだから」
と囁かれ、胸がキュン、とする。
その言葉には嘘いつわりがないのは分かるけど、どうしてあたしなんだろう……。あたしは怖いくらい荒れ狂う波を、自分の心と重ね合わせて見つめていた。
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部屋に戻ると、すでにお布団が敷かれていた。どうやら、あたしたちが夕食に行っている間にホテルの人が敷いてくれたらしい。
梨奈はまた温泉に行こう! と誘ってくれたので、行くことにした。潮風にあたって、結構身体がべたべたする。
「チョコちゃん、ぷにぷにで気持ちがいいよね」
と言って梨奈はあたしの頬をぷにぷにと引っ張っているんだけど、顔が伸びるからやめてっ!
そうしたら、梨奈はお腹を抱えて笑い始めてしまった。
「あははは、顔の皮が伸びた姿を想像してしまった」
ブルドックみたいに頬が下に垂れさがっている顔を想像して……笑えてきた。
「うわっ、それはやだっ! 最悪!」
お風呂に行くと、結構な人がいた。さっき、しっかりと入っていたから軽く流すだけにして湯船にゆっくりとつかる。はー、やっぱり大きなお風呂はいいよねぇ。
のぼせる寸前までお風呂を楽しんだ後は、さっき、買いたくてもお金を持ってなくて買えなかった、お風呂上がりの牛乳! 瓶入り牛乳が『買って飲んでっ』と言わんばかりに売ってあるから、次にお風呂に入ったら買おう、と心に決めていたのよねぇ。牛乳の他にもコーヒー牛乳にイチゴ牛乳、それにフルーツ牛乳かぁ。悩むなぁ。とりあえず、無難に牛乳にしておきますか。
梨奈も牛乳を買って、きゅぽん、と音をさせてふたを開け、腰に手を当ててぐいっ、と飲んでいる。どこのおっさんですか、どこのっ!?
「くはー! 生き返るねぇ」
梨奈さま……あなた、あたしより若いのに、なんでそんなにおじさんくさいの。
あたしもふたを開け、ぐい、と飲んだ。うーん、お風呂上がりの牛乳って美味しいね。これは癖になりそうだわ。
部屋に戻り、寝る準備をしてお布団にゴロゴロしていると、梨奈がねえねえ、と言ってきた。
「圭季さんとなにを話していたの?」
聞かれると思ってなかったから、心の準備ができてなくて、一瞬にしてゆでダコになってしまった。べ、別にやましいことをしていたわけでは……。
さっき、耳元で「好きだから」と言われたことを思い出し、さらに真っ赤になってしまった。
「うわー、なにかあったんだっ」
「なっ、なんにもないっ!」
否定すればするほど、余計にあやしいんだけど、本当になんにもないってっ!
後ろから抱きしめられて愛の告白……いやああああ、恥ずかしいっ! 改めて思い出したら、なんだかものすっごい恥ずかしいシチュエーションじゃんっ! 夜の海でふたり、波の音を聞きながら告白される、なんてっ! 思わず身もだえして、布団をごろごろと転げまわってしまった。いやっ、は、恥ずかしいって!
「チョコちゃんはいいなー。圭季さん、ものすごくチョコちゃんに一途、って感じだし」
「はい?」
梨奈の言葉に身もだえするのをやめ、すりすりと近寄る。
「圭季さんが?」
「うん。チョコちゃんのこと、じっと見てるよ? たまにものすごく切なそうな表情していたりする」
そうなんだ……としか言えない。
「圭季さんの気持ち、ワタシもわかるなぁ」
分かるって……梨奈は那津に好き好き言ってるじゃん?
「ワタシとお兄ちゃん、実はまったく血がつながってないんだ」
「え……?」
確かにまったく見た目が似てないけど、そうなの?
「お兄ちゃんのお父さんとワタシの母親、お互い再婚同士なんだよ」
知らなかった。那津、そんなこと言わないから。
「最初、すっごく嫌いだったの、お兄ちゃんのこと。お兄ちゃんとワタシ、生まれ年は一緒なんだけど、お兄ちゃんは早生まれの三月で、ワタシは四月で……それだけで学年も違うでしょ?」
那津の誕生日も知らないから、今日はなんだか那津に関して意外なことばかり知ったなぁ。
「産まれた日にちなんて数日しか違わないのに、向こうは偉そうにお兄ちゃん面してるから、ほんと、最初はものすごくけんかばっかりしていたんだ」
なんとなく想像はつく。
「だけど、どうして今はそんなに那津のこと大好き、なの?」
「うーん、どうしてだろう? お兄ちゃん、なんでもそつなくやるじゃない? だけどそれ、ものすごい努力のたまものなのに気がついて……。それにね、ものすごい気を使ってくれてるのを知って、好きになってた」
それはなんとなくわかる。那津はかなり努力家さんで、負けず嫌いなんだよね。
「血がつながってないんだから別にワタシの愛を受け入れてくれてもいいのにさぁ」
なんだか酔っ払いがくだを巻いているようになってきた。
「お兄ちゃん、なんで那津って言ったら駄目なのよぉー」
気がついたら、梨奈は寝ていた。さっき、お昼寝したけどさすがに眠いよね。布団をかけてあげて、部屋の電気を消して、布団にもぐりこむ。
お昼寝をしたから眠れないかな、と思ったけど、疲れていたみたいでうとうとしてきた。
そんなぼんやりとした頭で、さきほど梨奈に言われたことを思い出していた。
圭季さんがあたしのこと、じっと見ている……。たまに視線を感じてふと見ると、にっこりと笑っている圭季さんが確かにいつもいる。もう少し……圭季さんに歩み寄る努力、をした方がいいのかな?
那津とは向こうからちょっかいを出してくるからよく絡むけど、圭季さんとはどう接していいのかいまいちよくわからなくて、確かに少し距離を取っているような気がする。それは意図してそうしているわけではなかったんだけど、結果的にはそうなってしまっていたなぁ。と反省をしてみたけど、どうやって接すればいいのかやっぱりわからないなぁ……。
遠くに、海なりが聞こえる。その音が心地よい子守唄になり、いつしか深い眠りについていた。
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慣れない環境のせいか、自然に目が覚めた。海なりが聞こえて来て、ああ、これで目が覚めたのか、と思う。時計を見ると、もう少しで六時らしく、布団の上に上半身を起こす。
そういえば、畳の上にお布団を敷いて寝るのは久しぶりかもしれない。祖母と暮らしていた頃はお布団で寝ていたもんなぁ。
梨奈はまだ、ぐっすり眠っているようだったけど、そういえば起きたらまたお風呂に行こうね、と言っていたのを思い出し、遠慮がちに起こしてみた。
「まだ寝てるー」
と言うけど、後から怒られるのは目に見えていたからしつこく起こしてみた。
「梨奈、起きてよっ! お風呂に行こうよ」
ゆさゆさゆすって、ようやく目を覚ましてくれた。
「そうよっ! 朝は男湯と女湯が交代するのよ! 向こうのお風呂も入らないと!」
梨奈は半ば義務感のように言うけど、別に変わりないでしょう?
昨日の夜のお風呂上がりの牛乳に味をしめたあたしたちはきちんとお金も握りしめ、お風呂へ向かう。お風呂は交代されていて、こちらの方が若干広いかな、という程度でそれほど変わりはなかった。夜の露天風呂も良かったけど、朝日の中の露天風呂もなんだか爽快でいいわ。
気分よくお風呂に入り、上がると圭季さんにばったり出会った。向こうも朝風呂を浴びてきたらしい。浴衣が色っぽくてドキッとする。
あらやだ。普段の洋服もいいけど、浴衣も素敵。
昨日、チャレンジできなかったコーヒー牛乳にしてみる。梨奈はフルーツ牛乳を選んで大股を広げ、腰に手を当ててぐいっと一気飲みしている。相変わらずおっさんだわ。
コーヒー牛乳を半分くらい飲んだところで、圭季さんに奪われた。
「あーっ!」
と言っている間にほぼ一口で残り全部を飲まれてしまった。うわーん、あたしの楽しみ!
「うっわー、圭季さん。なにげに間接キスでやらしー」
ちょっと、梨奈っ! な、なんてことをっ!?
あたしは自分の頬が一瞬にして真っ赤になったのが分かったけど、圭季さんは余裕の笑みで
「ごちそうさま」
と言って瓶を瓶置き場に戻している。うぅ、大人の余裕、というやつですか!?
恥ずかしくて、圭季さんの顔、見られないじゃない。梨奈の馬鹿っ!
今日の帰りの電車は十五時過ぎを予定しているらしく、それまで今日もまた、自由行動。
水族館をもう少しじっくり見たかったし、なによりも二日連続で水族館に来る、というのがなんだか楽しくて、圭季さんの腕を引っ張って見て回った。
今日もシャチを見に来たけど、同じ失敗はしないわよ! 水のかからない距離からシャチを見る。
「チョコ、そこのレストランでシャチを見ながら食べられるらしいぞ」
「いきますっ!」
お昼には少し早かったけど、いい席を取りたくて中に入る。料理を選んで席を探す。おー、これはすごい!
シャチのプールの下にレストランがあるらしく、ガラス越しに泳いでいる姿を見ることができる。これなら水をかぶることなくゆっくり見られる。
スイーっと気持ちよさそうに泳いでいるのを見ていると、なんとなく自分も泳げるような気分になってくる。
「今回はチョコの水着姿が見られなくて、残念だったな」
というから顔を見ると、にやり、と笑われた。
無理無理っ! ぷにぷに過ぎて、見せられませんっ!
お昼ご飯を食べて、あまりにも今日も天気が良すぎて暑いので、屋内に退避してゆっくり見ていた。
「そういえば圭季さん、昨日と今日でなんだか見事に焼けましたねー」
あたしは日焼け止めをぬっていたから、それほどでもないけど、圭季さんは袖の下と素手の部分の色を見比べると、明らかに違う。なんだかリゾート! って感じだわ。
「チョコ、前から思っていたんだけど」
「? なんですか?」
きょとん、と圭季さんを見上げる。すると、少し頬を赤くして、目をそらされた。
ん? この反応……。なんだか久しぶりのような気がするけど、どこでだったかな?
少し考えて、ようやく思い出す。ああ、初めてのデートの時、照れて……って、今のどこに照れる要素があったんだろう? 分からなくて、首をかしげる。
「チョコ、おれ相手に敬語は要らないし、さんづけじゃなくていいから」
えー、いきなりそう言われても、無理。
「梨奈ちゃんはすぐにちゃんづけじゃなくなったのに、おれにはいつまでもさんづけだなんて、差別だよな」
と半分は冗談で言ったんだろうけど、そう言われてみればそうかも。だけどなぁ、梨奈は年下だし。
「チョコは意外にそういうところ、お堅いよな。いいことだけど、いつまでも圭季さん、と呼ばれてるとなんだか他人行儀で……。あー、いやしかし、新婚で圭季さん、朝ですよ、ってのも……」
と圭季さんは一人でなんか違う世界に飛んで行ってしまった。
あああ、やっぱりいきなりさんづけじゃなくていい、と言われても、無理っ!
なんだか圭季……さん、ああああ、やっぱり無理ぃ~。
「いきなりが難しければ、とりあえず敬語をやめてくれよ」
「はい、努力します……」
敬語はどうにかなりそうだけど、圭季、なんて呼び捨てにできないっ!
だけどふと、圭季、と呼び捨てにしてみてなんとなく奥の方でなにかの記憶がくすぶっているのを感じた。なんだろう、この記憶。ものすごく昔の記憶。
下手に触るとさらさらと崩れてしまいそうなほど昔の記憶。風が吹いたら消えてしまいそう。
「チョコ、行こうか」
ぼんやりと水槽の目の前に立って考え事をしていたあたしを圭季……さん、は手を握って先に進むように促してきた。
うーん、すぐには無理だわ。
ホテルのロビーに再集合して、荷物を持って駅に向かう。一泊だったけど、楽しかったな。また来たいな。駅に向かうバスの中でぼんやりとそう考えながら、流れて行く景色を眺めていた。
帰りの電車は思ったよりも混んでいた。あたしと圭季は並んで座り、少し離れて那津と梨奈、父はどこか離れた場所に座っていた。うん、さんづけじゃなくてもだいぶ違和感がなくなってきた、かな?
ぽつり、ぽつりとこの二日間のことを話をしていたら、どんどん眠くなってしまい、気がついたら圭季の肩にもたれかかって寝ていた。
終点に到着のアナウンスに、目が覚めた。ふと頭に違和感を覚えて目線を向けると、圭季の端正な寝顔が飛び込んで来て、どきり、とする。
うっわー、まつげ長いっ。寝顔もきれいでうらやましい。思わずボーっと見惚れていたら、視線を感じたのか、まぶたをぴくり、と動かして瞳を開いた。その動作がなんだか妙に色っぽくて、ものすごいドキドキしている。
「ああ、ごめん。気持ちよさそうに寝ているのみたら、おれも眠くなって」
うーん、と伸びをして立ち上がり、あたしの荷物もまとめて持ってくれた。
こうして、夏の楽しい一泊旅行は終わり、とりたてて部活をしていないあたしはお菓子を作ったり、宿題を嫌々したり、とほぼ家の中で過ごす、という夏休みを送ってしまった。
だってさ、圭季は仕事でお昼はいないし、那津は夏期講習だとかでいないし、梨奈は家に帰ってしまったし、ひとりで遊びに行くほどアクティブじゃないもの。
そうそう、料理の腕も少しは上がったよ!
これでいつでもお嫁さんに行けるね、と父のその言葉はとてもさみしそうだったからまだまだ先だよ、と言ったけど、あたし、本当に圭季のお嫁さんになれるのかなぁ?
やっぱりどうして自分なのか、がいまだに分からなくて、もやもやしていた。
【つづく】