《九話》嵐の前の静けさ……?
ゴールデンウィークが終わり、圭季さんと那津が戻ってきた。
賑やかな日常。
だけど薫子さんの件があってから、あたしの気分はなんとなくどんよりと重苦しくて胸が詰まるような晴れない気持ち。英語の授業は変わらず薫子さんだったけど、向こうはなにも言ってこない。
家庭科の授業は相変わらず立花センセにこき使われまくりだけど、それでも動いている間は気が楽だった。
お菓子を作る回数もなんとなく減って、梅雨前のいまいちすっきりしない空模様と同じような心にため息をつく回数が多くなったような気がする。
圭季さんはたまに心配したように声をかけてくれるけど、自分の中でもどうすればいいのか分からなくて、なにに対してこんなに気分が重いのか分からなくて──戸惑っていた。
那津は相変わらず『お菓子ちょうだいっ』とかわいくおねだりしてくるけど、作る気力もない。
「ケーキ、チョコちゃんが最近、変だよ」
土曜日。
リビングのソファに座ってぼんやりとニュースを見ていたらキッチンで那津と圭季さんが会話をしている声が聞こえてきた。
「おまえ今、ケーキと言っただろう?」
「言った! ケーキとチョコだなんて、美味しそうな組み合わせだしっ!」
うわー、やめろっ! とかじゃれてる声が聞こえた。
以前だったらなにしてるのよっ! と突っ込みを入れるところだけど、今はそんな気分ではない。なかなか入らない突っ込みにふたりはじゃれるのをやめ、声をひそめてなにか言っている。
ため息をつき、テレビを消して部屋に戻る。
クローゼットを開けて、そこについている鏡を見る。暗い顔をした自分が映っている。
伸びてきた錆色の髪。薫子さんに髪の毛をつかまれて以来、怖くて美容院に行けていない。そろそろ切りに行かないと、と思っていたのに。
昔──もう十年以上前の話。母が亡くなってそれほど経たない時だったような気がする。
父は仕事をしながら保育園に送り迎えしてくれていた。
その保育園は結構遅くまで見てくれていたんだけど、ある日、いつもあたしと同じくらい遅くまでいる男の子と些細なことでけんかになった。子どものけんかだから本当に些細なことだったと思うんだけど、その子は狂ったようにあたしの髪の毛をつかんで引っ張りまわし、かなりの量の髪をむしられた。ちょうど先生がお手洗いに行っているほんの二・三分の出来事。
お手洗いから戻ってきた先生はものすごい悲鳴を上げた。それもそうだろう。広い部屋に子どもがふたり。だけどその床一面には──あたしの錆色の髪がこれでもか! というくらいばらまかれていたのだから。
あまりの痛さに声も上げることができず、その子にされるがままになっていたあたし。半狂乱になってあたしの髪を引っ張る子。
残っていた先生を呼び出し、あたしの髪の毛が解放されたのはたぶんすぐの話だったのだろうけど、子どもの時間間隔なんて大人とは違う。永遠に引っ張られ続けていたような気がした。
その頃からふわふわだったあたしの髪は相当抜かれたらしく、ほとんどはげ状態になっていた。
それから……この保育園を辞め、祖母のところに預けられたような気がする。というのも、あまりのショックにその頃の記憶がほとんどないのだ。
小学校に入る頃、ようやくどうにか普通に生活をすることができるようになり、祖母の元から通った。だけどそこでも髪の毛のことは言われて……。
小学校高学年になる手前で祖母が亡くなり、再び父と暮らすことになった。
そして、今のあのマンションに引っ越してきた。
祖母に育てられたせいか、どうも同じ年の子たちよりおばちゃんくさいのよねぇ。
薫子さんに髪の毛をつかまれるまですっかり忘れていた。
そうか、それで男の子のことが苦手なのか。
原因を思い出せたことですっきりはしたけど、やっぱり心は梅雨前の曇り空のように晴れない。
クローゼットを閉め、ため息をひとつ、ついた。
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中間試験を目の前にしてぴりぴりした空気が漂う中、事件が勃発してしまった。
大学は聖マドレーヌ大学に行くつもりでいたので、推薦をもらうつもりでいた。だけどその推薦をもらうには二学期の期末試験までの結果が大切で、珍しく真面目に勉強していた。
「都さん、ちょっといい?」
立花センセファンクラブ自称会長の沢木さんにそう声をかけられた。英単語を覚えようと単語帳に目を落としていたあたしは目線をあげ、沢木さんを見た。相変わらずのツインテール。
「なんでしょうか?」
不機嫌を思わず顔に出し、見上げる。
「あなた、いい加減、立花先生の前から消えてくれない?」
はい? この人はなにをおっしゃっているのデスカ?
「目ざわりなのよね、そのチョコレート頭」
沢木さんはあたしの髪の毛を指さし、冷たい視線を向けてくる。
「苦情は直接、立花センセにおっしゃってくれますか? あたしも迷惑してるんですから」
慣れたとはいえ、神出鬼没に現れる立花センセ。なにかにつけ連れまわされ、一緒に廊下を歩いていると指をさされてひそひそ話をされる。前はこんなこと、なかったのに……。
「迷惑だなんて、あなたなんてえらそうなことを言っているの!? 立花先生に目をかけてもらっておきながら、生意気なのよっ!」
なんだか今の言葉にものすごく激昂して、沢木さんはあたしの髪をつかんできた。
やめて! と言いたいのに、保育園での恐怖がよみがえってきて、息ができなくなる。
頭の皮膚まではがされるのではないか、という恐ろしい気持ちを思い出し……身体が動かなくなる。
「立花先生に取り入ろうとお菓子まで作っていってるみたいだしっ!」
嫌だ、やめて──!
だれか、助けて……。
「なにをしているんだ!?」
その声に、沢木さんの手は髪の毛から離された。ほっとしたと同時に、気が抜けてあたしの意識はブラックアウト。
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手にぬくもりがある。
温かくて大きな手があたしの頭をなでてくれている。
ああ、この手は……。
「圭季さん……」
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ふと目が覚めると、見覚えのあるもじゃもじゃ頭が目の前にあった。
「!?」
手になにかを感じて動かしてみると、そのもじゃもじゃ頭が動いた。
「あー、チョコ、目が覚めたか?」
ゆっくりと手を離され、今まで立花センセの手をにぎりしめて寝ていたことに気がついた。うっわー、最悪じゃん。圭季さんの手と勘違いしてしまっていたのか、あたしはっ!
「気分は?」
黒ぶち眼鏡が心配そうに顔を見ている。
「……大丈夫です」
ここのところずっと晴れなかった気持ちが、不思議と晴れているような気がした。
だけど……。なんで圭季さんと立花センセを間違ったんだろう?
そんなにたくさん圭季さんと手をつないだわけではないけど、なんとなく似ていた?
立花センセを見上げる。
黒髪、という以外、共通点は見あたらない。
「今日はもう帰れ」
「でも……」
もう少しで中間試験だし、できるだけ授業には出ておきたい。
「六時間目も終わる時間だから、チャイムが鳴ったら教室に戻って家に帰れ。いいな」
そういわれて、うなずくしかなかった。
沢木さんとのやりとりはちょうどお昼の時間だった。お弁当を食べ、那津はいつものように職員室にノートの提出に行っている隙に起こった事件。
那津は本来、授業を受けるはずの科目のレポートを毎回提出することを条件に、あたしの隣にきている、らしい。なんでそんなことをしているの? と聞いたら、
『わたくしは千代子さまの執事でございますから』
と微笑まれた。そんなことまでして隣にこなくてもいいのに。
ベッドの上にいつまでも寝ているのもと思い、身体を起こそうとした。
「まだ起きるな」
ぐい、と肩を押さえられ、無理矢理ベッドに寝かされる。
「大丈夫ですっ!」
「無理して起きるな。おれが受け止めたから良かったものの、下手したら床に頭を打ち付けるところだったんだぞ」
意識がなくなる寸前のことを思い出す。
沢木さんに髪の毛をひっぱられて……だれかの制止の声が聞こえて──。
「止めてくれたの、立花センセ?」
「そうだ。お昼を食べ終わった頃だろうし、少し手伝ってもらおうと思ってな」
また手伝い? とむっとしたけど、結果的には助けてもらったことになるのか。ここはやっぱり、お礼を言うべき?
口を開きかけたところで、六時間目の終了を告げるチャイムが鳴り始めた。
「身体起こすの手伝うから、起きたら教室に戻ってすぐに帰れ」
「……はい」
立花センセは身体を起こすのを手伝ってくれたけど、そんなことしなくても起きられるから。……と言えなかった。背中を支えてくれる手が温かくて心地よかったから、拒否の言葉を口にできなかった。
教室に戻ると、那津が心配そうな顔をしていた。
「千代子さま、大丈夫でございますか?」
「うん、大丈夫。あたし、もう帰るね」
机にかけた荷物を取ろうとしたら、那津がすっと先に取っていつものように先に立って歩き始めた。
「待ちなさいよ」
あたしたちのやりとりを見ていたクラスの子が、那津に制止の声をかける。
「なにでございましょうか」
微笑みを浮かべ、声をかけてきた人に顔を向ける。
「ホームルームがあるのに帰るなんて、どうなの?」
「あの……」
口を開こうとしたらぎろり、とにらまれる。その視線に、先ほどの恐怖を思い出し、身体が固まる。
「わたくしは千代子さまの執事でございます。調子が悪い千代子さまに従って帰って、なにがいけないのですか?」
微笑んではいるけど、有無を言わせないその口調に相手は黙る。
「さあ、帰りましょう」
ぐい、と腕を引っ張られ、那津に引きずられるようにして帰ることになった。
家への帰り道、那津は突然立ち止まり、ごめんなさい! と頭を下げてきた。
「な、なにが?」
どうして那津が頭を下げるのか分からず、戸惑う。
「オレがついていながら、チョコちゃんを危ない目に合わせたから」
今まで見たことがないくらいうなだれていて、気の毒になる。
「圭季に合わせる顔がないよ……」
「だって、那津が悪いわけではないじゃない」
「オレは圭季に、チョコちゃんを代わりに守るように言われたからっ」
那津は柄になく赤くなってそっぽを向き、うつむく。那津の意外な告白に、言葉を失う。
那津があたしの側にいるのは、圭季さんに頼まれたから?
意味が分からなくて聞き返そうかとしたら、那津が執事モードで目の前にひざまずき、
「楓那津、千代子さまをこの命に代えてもお守りいたします」
なんて言うから、絶句してしまった。
「オレにとって、圭季もチョコちゃんも……大切な人だから」
強い真面目なまなざしで見つめられ、目をそらすことができなかった。
家に帰り、制服から部屋着に着替えて机に向かう。
先ほど見せた那津の言葉と真面目な表情を思い出し、自然と頬が赤くなる。
ずっと那津のことをうっとうしい奴、と思っていた、正直なところ。
だけど……圭季さんにそんなことを言われていたから……。
ちょっと待てよ。
少し冷静になってきた頭で考える。
あの那津がいくら仲の良い圭季さんの頼みだからって、素直に執事役を買ったとは思えない。絶対になにか裏があるとみた。
それがなにかは気になったけど、直接本人に聞いたところではぐらかされるだけのような気がするし、圭季さんがそれを知っているとも思えないし。
気になる~! と思ったところで仕方がない。
宿題をしてぼんやりと教科書を眺めていたら、那津がご飯だといつものように呼びに来てくれた。
「おかえりなさい」
圭季さんはあたしの顔を見て、ものすごくほっとしたような表情をしていた。那津から話を聞いていたのだろう。そのことについてなにか言われるかと思っていたけど、圭季さんはなにも言ってこなかった。
夕食を食べ、お風呂に入って部屋でゆっくりしていたら、ノックの音がした。返事をして扉を開けると、圭季さんが立っていた。
「今日、学校で倒れたと那津から聞いたけど」
「あ……、はい」
赤墨色の瞳でじっと見つめられ、心臓が飛び出しそうなくらいドキドキする。
きょ、今日、立花センセと圭季さんを間違えてしまったことを思い出し、なんとなく後ろ暗い気持ちになる。別に悪いことをしたわけじゃないのに、なんとなく圭季さんと視線を合わせられない。
「きちんと寝ている? 最近、なんだか顔色がよくないけど」
指摘され、ドキッとする。
実は、ゴールデンウィークに薫子さんに髪の毛を掴まれて以来、ゆっくり眠ることができていない。寝ると、あの保育園での出来事を夢に見るのだ。それで最近、怖くてなかなか夜、眠ることができないでいる。
「試験前で、真面目に勉強しているからだと思いますけど」
なんでもないかのように少し茶化して言ってみる。それも少しあるとは思うけど。
「根詰めて勉強して、試験当日に倒れる、だと意味がないからな。適当なところで息を抜けよ」
困ったな、という表情で見ていたけど、
「今日は倒れたらしいから、早く寝るんだぞ」
「はーい」
圭季さん、たまになんだかお父さんな顔、になる。年が五つ違うのだから、妹みたいに感じられることがあるんだろうなぁ。
圭季さんはお風呂に入るらしく目の前のお風呂場に去ったのを見て、素直にベッドに向かう。
確かに今日は疲れた。お布団の中にもぐりこみ、瞳を閉じて眠ることにした。
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『やーい、チョコレート頭』
『お母さんと一緒の髪の色、馬鹿にしないでよっ!』
見覚えのある風景が目の前に広がっている。ああ、今日もこの夢を見てしまうのか……。
自分でも分かっていたけど、止めることができない。
『なんだよおまえ、お父さんがいるからいいじゃないか』
顔を思い出すことはできないけど、その子が着ていた青いスモックの色だけは鮮明に覚えている。いきなり男の子は甲高い奇声をあげて、あたしの頭を掴んできた。
『痛いからやめてよっ!』
スモックの青い袖が目の前に見える。反対からの腕も伸びてきて、後ろ頭を掴まれる。
『やめてっ!』
男の子の腕に阻まれて顔は見えない。だけど男の子はやめてという言葉が聞こえていないのか、ぐいぐいと髪を引っ張り、ぶちぶちぶち、という音が耳元で聞こえる。それとともに、頭皮にものすごい痛みが走る。
『やめてよっ!』
無我夢中になって腕をばたばたと振るけど、男の子は手を離すどころか、ますます強く髪の毛を引っ張ってくる。
「やだっ! やめて──!」
「チョコちゃん!?」
ばたん、と音がして部屋にだれかが入ってくる音が聞こえた。あの青い服は……やだ、あの時の男の子!
「いやだ、こないで!」
身体を起こし、腕を振ってこないでと拒否する。
「チョコちゃん、オレだから! 大丈夫だから!」
「やだ! だれか助けて──!」
目の前の人があの時の男の子とかぶって、パニックになっていた。嫌だ、もうあんな痛いのは嫌だ。
だれか……助けて──!
入ってきた男の人はあたしの側まで来て、頭に向かって腕をのばしてくる。
「嫌っ!」
のばされた腕をぱしっ、と叩いて布団をかぶる。
いやだ……嫌だ!
「チョコちゃん」
「那津、どうしたんだ?」
「それが……」
なにやらぼそぼそと話す声は聞こえるけど、内容までは分からない。
もう、やめて。なにも悪いこと、してないのに。
ただ『お父さん、早く来ないかな……』と呟いただけ、だったのに。
あの日の痛みを思い出し、涙があふれてきた。
助けて、嫌だ、やめて、といくら言ってもやめてくれなかった男の子。男の子は乱暴だから嫌い。
お父さん、結婚なんて無理だよ……。
「チョコ」
布団越しに、聞き覚えのある声がした。だけど怖くて布団から顔を出すことができない。
「大丈夫だから、安心して」
そうして、布団の上からふわり、と手が置かれ、やさしくゆっくりとなでられているようだった。その手に、少し気持ちが落ち着いてきた。
恐る恐る、布団をはがして隙間から外を見る。暗くて見えないけど、だれかがいる。
「大丈夫」
やさしい声にもぞもぞと布団から出る。
そこには、とても心配そうな顔をした圭季さんがいた。
「あたし……」
「どうした? 怖い夢でも見たか?」
ほっとしたようなやさしい笑顔を向けられ、ふいに夢を思い出して、鼻の奥がつんとしてきた。
「泣きたいのなら泣けばいい。我慢するのはよくないよ」
それが合図になり、じわりと涙があふれてきた。そうなるともう、止めることができず、次から次へと涙が流れ始めた。
泣き顔はかわいくないから見られたくない。そんなことを頭の片隅で思ったけど、簡単には涙は止まらない。それどころか、嗚咽をもらすほどの号泣になってしまい、恥ずかしかった。
圭季さんはそんなあたしの背中をやさしくなでていてくれている。その手が温かくて、少しずつ落ち着いてきた。
部屋の中に、あたしのしゃくりあげる声が響く。恥ずかしすぎる。
だけど圭季さんの手が気持ちがよくて、どうにか涙も止まり、落ち着いてきた。
「ちょっと待ってて。ホットミルクを作ってくるよ」
圭季さんはあたしの頭をぽんぽん、と軽くなでてから部屋を出て行った。
ここのところ、頭を触れられることに恐怖を覚えていたあたしは、驚いた。圭季さんの手は、全然怖くなかった。むしろ、もっとなでてほしい、とまで思ったほどだ。
泣きじゃくったので鼻が詰まり、目もはれて、かなり悲惨な状況になっている。暗い部屋の中、手探りでティッシュを探し出し、鼻をかむ。明日、この調子だと目がはれぼったくなるなぁ。と先ほどまで感じていた怖くて悲しい気持ちをすっかり忘れて、そんなのんきなことを考える。
しばらくして、圭季さんはトレイにカップを乗せて、戻ってきた。
「電気つけるけど、いい?」
泣いた後の顔を見られるのは嫌だったけど、そのままだと不都合なのが分かったのではい、と返事をする。
パッと部屋に明かりがつき、眩しさに目を覆う。
圭季さんが部屋に入ってきて、机にトレイを置く気配がした。
「もう大丈夫だよね?」
眩しくなくなったのを確認して、圭季さんを見る。圭季さんからぬれタオルを渡され、ありがたく受け取って顔を拭く。冷たくて気持ちがいい。
「夜にすみません」
ちらり、と壁にかかった時計を見ると、すでに日にちが変わっていた。こんな時間に起こしてしまったのが申し訳ない。
「大丈夫、まだ起きてたから」
あたしの部屋と圭季さんたちの部屋は距離が離れているから、何時に寝ているのか知らないけど、起こしたわけではなかったことを知り、少しだけほっとする。
「机の上にホットミルクを置いてるから。落ち着くから飲んで寝てね」
圭季さんは部屋を出て行こうとする。ひとりになりたくなくて、待ってと言いたかったけど、言葉が出てこない。わがままだと分かっているから。
部屋を出る直前、圭季さんはこちらを向いて
「おやすみ」
と言ってきた。
もう少しいてほしい気持ちが大きかったけど、明日もお仕事があるから貴重な睡眠時間を削るのが申し訳なくて、
「おやすみなさい……」
と返事を返すしかなかった。
圭季さんはそんなあたしを見て、困ったような表情をしている。
「そんな泣きそうな顔されたら、戻るに戻れないじゃないか」
そんなにあたし、泣きそうな顔してる? 確かにまだもう少しいてほしい、とは思ったけど……。
「だ、大丈夫ですっ! 圭季さん、明日もお仕事でしょ? あたしのことは気にせず、寝てください」
先ほど渡されたタオルでもう一度顔を拭き、圭季さんに微笑む。圭季さんはさらに困ったように髪の毛をくしゃりとして、出て行こうとしていたのに部屋に戻ってきた。
「チョコはもうちょっと、おれを頼ってくれてもいいと思うんだけどな」
意外な言葉にきょとん、と圭季さんを見上げてしまった。
「怖い夢を見て心細いのなら、正直にそう言ってくれればいい。だれだって怖い夢を見て、だれかに側にいてほしい時があるだろう?」
「圭季さんも……そんなこと、あるんですか?」
「あるよ」
ぼそり、と呟かれ、また頭をぽんぽん、となでられた。その手がやっぱり気持ちよくて、目を閉じる。
「はい、ホットミルク」
机の上に置かれていたホットミルクを手渡された。受け取り、そっと一口飲む。ほんのり甘くて温かいミルクに、心がほっとする。
圭季さんは椅子に座り、ホットミルクを飲んでいるあたしを見つめている。そのまなざしがやさしくて、安堵する。
喉が渇いていたのもあり、ちょっと一気飲みっぽく飲みきった。それを見て、圭季さんはくすくす笑っている。あたし、最悪じゃん。
「もう大丈夫だよな?」
まだいてほしかったけど、これ以上迷惑をかけられない。うつむいて返事をしたら、ため息をつかれた。ああ、迷惑をかけてる。
「寝るまで側にいてあげるから、チョコは気にせず寝ろ」
部屋の電気はそのままにして、圭季さんは椅子から立ってベッドまできて床に座る。
「見られてると眠れない?」
にやり、と笑われた。
「ね、寝顔は見ないでくださいっ!」
たぶん、いなくても大丈夫です、と言っても圭季さんはこのままいるような気がしたので、甘えてそのままいてもらうことにした。
「あ、これをかけていてください」
そのまま座っていても少し寒いような気がしたから、自分が使っている肌布団を圭季さんに手渡した。
「ありがとう」
圭季さんは肌布団を受け取り、顔をうずめて息を吸い込んでいる。
「チョコと同じ甘いにおいがする」
そのセリフ、ものすごっく恥ずかしいんですけどっ!
突っ込みを入れることができず、恥ずかしかったので、圭季さんに背中を向けて横になる。
「おやすみ、チョコ」
その言葉に安堵して、あたしはそのまま目を閉じた。
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目覚まし時計のけたたましい音に驚いて、目が覚めた。今日は那津は起こしに来な……んんん?
「んわええええっっ!?」
なんだかあたし、圭季さんの手を握りしめて眠っていたようなんですけどっ!
あわてて手を離し、目覚ましを止める。圭季さんは床に座り、ベッドにもたれかかるように眠っていた。なんで圭季さんがあたしの枕元で寝てるのっ!?
「け、圭季さんっ!」
肩をゆすり、圭季さんを起こす。身じろぎして、ようやく目を覚ましてくれた。
「あ、おはよう」
寝ぼけ眼の圭季さん、意外にかわいいなぁ。
……って! 違うからっ!
いくら婚約者とはいえっ! なにもなかったとはいえ、同じ部屋で一夜を共にするなんてっ! なんて破廉恥なっ! お嫁にいけないじゃない!
……いや、待て。圭季さんがあたしをお嫁さんとしてもらってくれれば問題ないのか。そうか!
「ちっがーうっ!」
「チョ、チョコ?」
いきなり叫んだあたしに圭季さんは驚いてぱちくりと見ている。しまった……。
「な、なんでもないです」
圭季さんは立ちあがり、左手であたしの後ろ頭を包み込み、ギュッと胸に抱き寄せてきた。その意外な行動にあたしの心臓はどっきーん、と高鳴り、どうすればいいのか分からず、そのまま固まってしまった。
心臓がばくばくとしている。明らかに外にこの音、聞こえていると思われるくらい。
「チョコ、おれだと頼りないかもしれないけど、もっと頼ってもらっていいから」
ちょっと切なさの詰まった声に、顔を上げる。真摯なまなざしに、ドキッとする。あたし、最低だ。圭季さんにこんな顔、させたら駄目だ。
「ごめんなさい。圭季さんのこと、全然頼りないなんて思ってないです」
今まであまり人に頼ったことがないから、どう頼ればいいのか分からない、というのが正直なところ。どういう場面でどれくらい、というさじ加減が分からないから。
「なにかあったら話してくれる?」
そう言われたらこくり、とうなずくしかないじゃない。圭季さんはあたしがうなずくのを見て、いつもの優しい笑顔を返してくれた。
「じゃあ、着替えて朝ごはんと弁当作るから。今日は時間がないから手抜きになると思うけど、ごめんな」
作ってもらっている身なので、文句なんて言えないし、そもそも文句はない。
圭季さんが部屋を出て行ってしばらくして、キッチンから珍しく言い争うような声が聞こえてきた。
制服に着替えてかばんを持ってダイニングに行くと、那津と圭季さんがなにやら言い合っていた。
「圭季が起きてくるのが遅いからっ!」
「それは悪かった。だけど、さすがにこの黒焦げの目玉焼きは……」
「食べられないわけではないだろう? 作ってやってたんだから感謝くらいしろよ」
どうやら、朝ごはんのことでもめているみたい。
ちらり、とフライパンの中を見て絶句した。黒く焦げた、目玉焼きのなれの果てが入っていた。
「な、那津っ! 申し訳ないけどあたし、それは食べないわよっ!」
「なんだよ、おまえら。ラブラブで手を繋いで寝ていたくせにっ」
うわっ、あれ、見られていたの!?
「夜中は夜中でチョコちゃんはオレの腕を叩くしさぁ」
はい? 腕を叩く?
「結構あれ、痛かったぜ」
むーっとした表情で那津はあたしが叩いたと思われるところを大げさにさすっている。それが本当なら、謝るけど……。まったく記憶にない。
「うなされていたから助けようと思ったら叩かれるだなんて。オレのガラスのハートは粉々だよ」
那津に限ってそれはない。あたしより那津の方が心臓に毛が生えていそうだしっ!
「この目玉焼きだってちょっと目を離した隙に黒焦げになったんだよっ!」
どれだけ目を離していたんだ、那津よ。
「あとはおれがするから、おまえたちはおとなしく座っていてくれ」
那津とあたしのふたりはキッチンから追い出され、仕方がなく席に座る。圭季さんはすぐに温かいお茶を用意してくれて、それを飲んで待っているしかなかった。
。.。:+* ゜ ゜゜ *+:。.。:+* ゜ ゜゜ *+
それから、あの保育園での出来事を以前に比べて見なくなった。残念ながらまったく見ない、というわけではなかったけど、前のように寝ることが怖い、という状況からは少し脱することができた。
相変わらず人の手が頭に近づくと恐怖で身体がすくむけど、圭季さんだけは別だった。
そう言えば、と考える。
夢を見ない日と見る日の差、圭季さんがあたしの頭をなでたかなでないか、の差があるような気がしてきた。なでられた日は夢を見ないような気がする。
だけどなぁ、だからって圭季さんに頭なでなでして、なんて言えないし。なによりも子どもみたいで恥ずかしい。
「なあ、チョコ。怖い夢を最近よく見てるみたいだけど、なにかあったのか?」
土曜日、那津が実家に帰っている時に圭季さんにそう聞かれた。まさか聞かれるとは思っていなかったので、笑ってごまかそうとしたけど、ものすごい真剣な表情の圭季さんを見て、ごまかしはきかないことが分かり、話をすることにした。
保育園であたり一面、あたしの髪の毛の海になった話をすると、圭季さんは今にも泣きそうな顔をして錆色の髪を見つめる。
「チョコレート色の髪、きれいでおれは好きなんだがな」
そういってふわり、とその大きな手をあたしの頭にそっと置く。他の人だと駄目なのに、圭季さんは平気なのはどうしてだろう。あたしの髪の色が好き、と言ってくれているからかなぁ?
「他のだれがなんと言おうと、おれはチョコのこの髪、好きだから」
そう言って、やさしく髪をすいてくれる。父と祖母以外にそうやって肯定してくれる人がいなかったから、涙が出そうなくらい、うれしかった。
圭季さんに話をして少し気持ちが楽になったのもあるからか、忘れるほどしか見なくなり、気がついたらまったく見なくなっていた。
【つづく】