チョコレートケーキの作り方


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《八話》一触即発!? 一騎討ち





※ 後半に暴力……とまではいきませんが、ちょっと痛いシーンが入ります。苦手な方はお気をつけください。



 薫子さんのことを聞きたいけど、圭季さんの機嫌がなんだかものすごく悪くて聞くに聞けなかった。那津に聞いたら分かるかな、と思ったけど、こういう時に限って那津はどこかへ外出してしまったらしい。もー、肝心な時にいない那津って本当にあたしの執事なのっ!?
 重苦しい気持ちのまま、予定通りにシュークリームを作る。

「うわっ」

 いつもならやらないようなミスを連発。ぼんやりしながら作っているからいけないのか。お菓子を作る時間が一番の安らぎのはずだったんだけどなぁ。
 シューがうまく膨らまなくて、今のあたしの気持ちを表しているようで余計にしょんぼりした。こんな日は作らないのが一番だわ。材料がもったいない。
 がっかりとしてあたしは片づけて部屋に戻る。気持ちが晴れなくてため息しか出ない。
 こんな時は笑えば少しは気がまぎれるかな、と思って本棚から笑えそうな漫画を何冊か取り出して読み始めたけど、全然気持ちがついていかない。 なんであたし、こんなに落ち込んでいるんだろう?
 枕元に漫画を放り出し、大の字に寝転がる。
 圭季さんは元カノ? の薫子さんにあたしのことをきっちり『フィアンセ』と言いきってくれた。それはとてもうれしかった。
 だけど。なんで視線を合わせてくれないんだろう。顔も見せてくれない。
 考えたって答えはでないのは分かっていたけど、機嫌の悪い圭季さんに聞く勇気がまったくない。どうすればいいのか分からなくて、布団にもぐる。
 あたしは圭季さんのこと、どう思ってるんだろう? 圭季さんはあたしのこと、本当はどう思ってるんだろう? 圭季さんの本心を知りたかったけど、その本心を知るのが怖い。
 あたしは……圭季さんのこと、好き──?
 そんなことを考えていたら、いつの間にか寝てしまったらしい。気がついたら、部屋の中はすっかり暗くなっていた。
 ……またやってしまった。貴重な休日を寝て過ごしてしまった。嫌な汗をかいて目が覚めた。寝すぎたせいか、少し頭が痛かったけどベッドから起きてダイニングへ向かう。

「チョコ、おはよう。よく寝ていたね」

 そこにはいつもと変わらぬ笑顔の圭季さんがお玉片手にキッチンに立っていた。その笑顔を見て、ほっとする。
 先ほど見た嫌な夢を思い出す。起きたら圭季さんは薫子さんと一緒にあたしの前からいなくなっていた、という内容の夢。だけどなんだか妙に生々しくて、嫌な汗をじっとりかいて目が覚めた。

「よく寝ていたから起こさなかったんだけど、ゆっくり眠れた?」

 圭季さんは味見をしながら聞いてくる。料理の手伝いをしようと思ってキッチンに向かったけど、ほとんど終わっているらしく、手伝うことはなにもなかった。

「もう少しでご飯だから、雅史さんを呼んできてくれる?」
「はーい」

 父の部屋に行き、ノックして扉を開ける。ベッドから足をはみ出したすごい体勢で父は寝ていた。

「お父さん、起きて。ご飯だよ」

 ゆさゆさとゆするとうーん、と身じろぎをして父は目を覚ました。しかし、親子そろって寝て、圭季さんにご飯を作ってもらうってどういうことよ。と心の中で突っ込みを入れる。
 ダイニングに行くとすでに料理は並べられていて、食べるばかりとなっていた。圭季さんはあたしと父が来たのを確認するとご飯と汁物をよそってテーブルに運んでくれた。

「あれ、那津は?」

 いつもはうっとうしいくらいにまとわりついてくる那津がいなくて不思議に思う。

「家から呼び出されて帰っている。今日は戻らないとさっき連絡があった」

 圭季さんの言葉にそうだ、とずっと疑問に思っていたことを思い出す。圭季さんはともかく、那津も当たり前のようにこの二週間ずっと、ここに寝泊まりしていたから気にしなかったけど、家族がいるはずだよね。どうやって親を言いくるめてここに来ているのか、それとも親がいないのかと思ったけど、やっぱりきちんと帰る家はあったのか。
 那津ひとりがいないとなんとなくなにを話していいのか分からなくて、ほとんど無言でご飯を食べる。父は食べるとさっさと自室に戻っていった。少し疲れたような表情をしていたけど、大丈夫かな? ここのところ毎日会議だとかで帰りも遅いみたいだし。
 圭季さんとふたりきりになり、なんとなく気まずい。朝の薫子さんのことを聞きたかったけど、またあの不機嫌な顔を見たくなくて、ご飯をさっさと食べる。
 那津がいたらいつも止められる片付けも久しぶりにすることができたのはよかったけど、なにを話していいのか分からなくて少し緊張する。圭季さんはいつもと変わらないように見えるけど、なんとなく朝のことは聞くな、という雰囲気を醸し出しているから口を開くことができなかった。こうして思うと、那津はあたしたちふたりの橋渡し役なんだな、と少しありがたみを感じた。
 お昼寝の時の夢の名残なのか、頭の芯が微妙に痛い。ご飯を食べたら治るかな、と期待したけど、ましになったかな? といった感じ。お風呂に入ればすっきりするかと思ったけど、なんとなく頭が重い感じが付きまとう。
 新学期が始まってからなんだか環境の変化があったから疲れているんだろうな、と思って早めに布団に入る。
 お昼寝をあんなにしたのにあっという間に眠ってしまった。

。.。:+* ゜ ゜゜ *+:。.。:+* ゜ ゜゜ *+

 次の日の朝。だいぶすっきりはしたけどまだなんだかぼーっとする頭を抱えて起きる。惰眠をむさぼってしまい、すでに朝の十時は過ぎていた。寝すぎにもほどがある。

 ぼさぼさの頭のまま、キッチンに向かう。棚からコップを取り出して水を飲む。朝ごはん、なにを食べよう。冷蔵庫を開けて物色していたら圭季さんがやってきた。

「おはようございます」

 寝起きのままのすごい恰好なのを思い出し、恥ずかしくなる。圭季さんは少し目を細めて笑って、

「おはよう、というにはもう遅いけどこんにちは、には早い時間だな」

 といつものように軽口を叩いてきたのでほっとする。なんとなく昨日はピリピリした空気を醸していたから近寄りがたかったけど、いつもの通りに戻っていたからよかった。
 どうやらあたしのために朝ごはんを用意してくれていたみたいで、座って待つように指示される。素直に座って待っていると、バターロールにスクランブルエッグとサラダ菜を挟んだサンドウィッチとスープを用意してくれた。これくらいならお昼に影響がないくらいの量だな、と感心する。そして、ミルクたっぷりの紅茶を用意してくれた。

「いただきまーす」

 といつものように手を合わせてパンをほおばる。うーん、相変わらず美味しい。
 必死になって食べているのを圭季さんは眩しそうに目を細めて見ているから、急に恥ずかしくなった。

「あの……。そんなに見られると恥ずかしくて食べられないのですけどっ」

 圭季さんはふんわりと笑みを乗せて微笑む。その表情に、胸がキュンとする。落ち着いて食べられないじゃないっ!
 その笑みで胸が詰まってしまい、せっかくのパンが喉を通らなくなる。だけど食べないのはもったいないからスープで無理やり胃に送り込む。
 少女漫画を読んでいたら胸が詰まるだとか食べ物がのどを通らないとかそんなのあるわけないじゃん、と思って冷めた気持ちで読んでいたけど、あれって本当だったのね。
 遅い朝ごはんを食べ、部屋に戻る。今日は昨日のリベンジ、シュークリーム! そう決意をかためてキッチンへ再び戻る。圭季さんは部屋に戻ったのかいないから、遠慮せずにキッチンに材料を出して作り始めた。
 今日は昨日と違っていつも通りに作ることができて満足。シューもきれいに膨らんだし、カスタードクリームも上出来。冷蔵庫に入れて冷やしておいて、おやつの時に食べよう。そしてまた、これが那津とのバトルの原因になるとは思いもせず。というか那津。なんでそんなに食べ物に飢えているのだ?
 お昼前、那津は実家から戻ってきたようだ。少し不機嫌な表情をしていたけど、あたしの顔を見るなりいつもの調子でからかってくるから怒っておいた。
 ほんとにもうっ! これでも一応、年上なんですからねっ!
 父も交えた四人でお昼を食べ、昨日の夕食のお通夜のようなシーンとした暗い感じが嘘のように明るい食事となった。那津ってなにげにムードメーカー?
 部屋に戻り、宿題をしたり漫画を読んだりしてごろごろしていた。
 ふと時計を見ると十五時前だったので先ほど作ったシュークリームを食べようとうきうきとキッチンへ向かう。
 そして冷蔵庫を開けて、絶望した。
 あんなにたくさん作ったはずのシュークリームが。
 ひとつもないのだ。
 信じられないっ! 多めに作っておいたのに、それがひとつもないって一体どういうことっ!?
 犯人は那津。ヤツしかいない。
 どすどすと怒りをあらわにして圭季さんと那津の部屋に訪れた。一応ノックをして、ばん、と扉を開ける。
 と、そこにはよりによって圭季さんと那津ふたりがあたしが作ったシュークリームを美味しそうに食べていた。

「あ゛~~~~~!!!!!」

 これが絶叫せずにいられますかっ! 那津だけではなくてなんで圭季さんまで一緒に食べてるのよっ!?

「これは千代子さま」

 最後の一口を惜しげもなく口に入れ、幸せそうににっこりと微笑まれる。

「たーべーもーのーのーうーらーみーはああああああ」

 もうやだ。シュークリームはさすがに部屋に持っていけないからと思って冷蔵庫に入れておいたのにっ!

「この恨み、覚えておきなさいよおおおお」

 若干、涙目になってしまったのは許して。今日のシュークリームは自信作だったのよ? それが一口も食べられなかったなんてっ!
 半泣き状態で部屋に戻り、鍵をかけてベッドにもぐりこむ。うう、あたしのシュークリーム……。
 そう思うともうものすごく悔しくて、馬鹿みたいだけど泣いてしまった。
 そして泣きながらあたしはそのまま寝てしまった。
 なにこの不貞寝三昧の土日。

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 目が覚めると、部屋は薄暗かった。だけどカーテンの隙間から日差しが差し込んでいた。
 ぼーっとする頭で寝返りを打つ。まぶたがなんだか腫れぼったい。
 そうしてようやく、思い出す。文字通り「泣き寝入り」してしまったのか。高校生にもなってなにしてるんだか。
 時計を見ると、朝の五時。昨日、着替えないでそのまま寝てしまったことに気がつき、シャワーでも浴びようと思い、着替えを準備してお風呂場へ行く。
 ほんと、那津はひどいわ。楽しみにしていたシュークリームを全部食べちゃうなんて。圭季さんもひどいよ。
 それを思い出したら、また泣けてきた。
 一度ならずとも二度もお菓子を横取りされてものすごく悔しい。これは一度、那津を説教しなくては。そう決意して、お風呂からあがって部屋に戻る。
 髪を乾かして制服に着替えたくらいでいつものように那津が起こしに部屋に来た。

「千代子さま、おはようございます」

 先に起きていたあたしを見て、那津はつまらなさそうな顔をしている。

「……おはよう。それより那津っ!」

 あたしの言葉を牽制するかのようにわたがしのようにふんわりと甘い笑みを浮かべる。う……ま、負けないっ!

「お菓子が美味しくて食べてくれるのはうれしいけど、きちんと個別に分けてるんだから、人の取って食べたり、ましてや、昨日みたいに全部食べるなんてしないでよっ!」

 めいっぱい、怒っていることをアピールしながら那津をにらみつつ言うけど、われながら迫力ないな、と内心で思う。だけどここで負けたら駄目なのよ、千代子っ!
 まさか言われると思っていなかったのか、それとも予想通りだったのか。
 那津は切れ長の目を丸くして笑みを浮かべる。その表情が驚いた猫のようで、かわいいから許してあげようかな、と甘い考えがよぎったけど、駄目よ駄目駄目っ!

「千代子さま、誠に申し訳ございません。大変美味しくて……つい」

 執事モードで逃げようとしているのが分かったのでむかっとして思わず那津の両頬を引っ張っていた。

「チョコちゃん、やめてっ」

 思い切り引っ張ってやったからさすがに痛かったようで、素の状態で哀願してきたので手を離してやった。

「いい? 人のを食べたら駄目よっ!」

 那津の鼻先に指を持っていってつついてやった。まったく、どこの子どもよ!?
 かばんを持ち、那津をまず部屋から追い出し、キッチンへ向かう。キッチンにはいつも通り圭季さんが立って朝ごはんの準備をしていた。

「チョコ、おはよう。よかった、昨日、あれだけノックしても出て来てくれないから心配していたよ」

 ノック? なんのこと?
 首をかしげ、圭季さんを見る。
 困ったようなそれでいて瞳の奥には安堵の光が見えて、もしかして心配かけた? と気がつく。圭季さんはあたしのところまで歩いてきて、いきなり頭を下げてきた。

「その……シュークリームを勝手に食べて、ごめんなさい」

 まさか頭を下げられて謝られるとは思っていなかったから、戸惑う。那津と同じ勢いで怒ろう、と思っていたのに先手を打たれ、さすが年の甲、なんて思ってしまう。
 それにしても、こんなに正面から謝られたら、許さないわけにはいかないじゃない。ずるいよ、圭季さん。

「みんなで食べようと思ったのに、ひどいですっ!」

 素直に許すことができないあまのじゃくな自分が嫌だと思いつつ、口から出た言葉はそんなセリフだった。だけど、これも偽らない気持ちだから、と自分に言い訳をする。

「じゃあ、今度から一緒に食べよ」

 那津が屈託のない笑顔でそう言うから、あたしはふたりを許すしかなかった。

。.。:+* ゜ ゜゜ *+:。.。:+* ゜ ゜゜ *+

 学校に行くと、那津が相変わらず横にいて、立花センセもなにかと絡んでくるけど、それ以外はとりたてて変わりのない日常。異常な状態だと思っていたものもそれが毎日続けば平常と変わらなくなる──わけなく。

「那津っ!」

 那津は相変わらずお菓子を盗み食いしている。だけどやつも狡猾になってきたのか、以前のようにすべてをごっそり食べる、ではなくて間引くように食べるから、最初は気がつかなかった。

「何度言えば分かるのっ!?」

 ほんと、どうなのっ!?

「チョコちゃんが美味しすぎるお菓子を作るのが罪なんだっ!」

 と反論されて、喜んでいいのか怒っていいのか悩む。褒められているのは分かるんだけどさ。ものすごく複雑な気分。
 圭季さんはあたしたちのじゃれあいをいつも複雑そうな表情をして見ている。その顔を見ると、なんだか切ない気分になってしまう。
 圭季さんとふたりになったある日、

「そういえば、水族館に行く約束していたよな」

 とぼそりと呟かれた。どたばたしていてすっかり忘れていた。

「もう少しでゴールデンウィークだしなぁ」

 壁に掛けてあるカレンダーを見ながら圭季さんは思案している。

「圭季さんはゴールデンウィーク、なにか予定があるんですか?」

 一緒にどこかにお出かけしようかな、と思っていたのに、

「家に帰らないといけないんだ」

 と言われ、しょんぼり。
 そっか。そうだよね。いくら和明さんが了承していたとしても、たまには帰らないとね。

「チョコ、ごめんな。水族館はゴールデンウィーク明けにしよう」

 残念そうに圭季さんが言うから、うなずくしかなかった。
 ゴールデンウィークの予定もなくなったし、どうしたものかなぁ。そんなことをぼんやり考えながら学校に向かう。一歩前にはあたしの荷物を持った那津がいる。

「那津はゴールデンウィーク、おうちに帰るの?」
「圭季がいないから、帰るよ」

 久しぶりの日常が戻るのか。ほっとするような、なんだかさみしいような複雑な気分。

「チョコちゃん、さみしいの?」

 今の気持ちを言い当てられ、ムッとする。

「さみしくないわよっ! 静かになってせいせいするわ」

 那津は目を細め、ふっと鼻で笑った。うっわ、馬鹿にされてるっ!

 教室に着くと、なんだかざわめいている。なにかあった?

「おはよう、朱里」
「あ、チョコ!」

 手招きされたので行くと、朱里の周りには何人か人が集まっていた。

「で、それで?」
「あのね、それがね。ものすごい派手なスーツを着た髪の長い女の人がねっ」

 こんな時期に怪談ですか? もう興味をなくして、席に戻る。
 始業のベルが鳴り、名残惜しそうにみんな席に戻っている。

「おはようございますー」

 出たっ、立花センセっ! 相変わらずのぼさぼさ頭のよれよれの白衣姿で教壇に立っているのを見て、ため息が出る。もう少し身だしなみをどうにかしてほしい。

 立花センセの家庭科の授業はそれなりに面白かった。
 一度、調理実習があったんだけど、見た目があれだけど、ものすごく包丁さばきが上手で、みんなしておーっと感嘆の声をあげてしまった。少し照れたような表情にちょっとどきっ、としたけど、思わぬ表情を見たことによる驚きよ、と言い聞かせた。
 菊池先生は面倒な時、副担任の立花センセにホームルームを任せることが多くなってきていた。担任なのに無責任だわ、と思ったけど、立花センセのホームルームの方が生徒受けがいいらしい。いやだから、生徒に受けるとか受けないではなくて、きっちりお仕事を遂行していただきたいわ。

「今日からひとり、新しい英語の先生が来るらしいからな」

 なんて中途半端な時期に来る先生なんだろう。なんとなくいやーな予感がしつつ、ぼんやりと話を聞いていた。

 そして。その嫌な予感、は三時間目の英語の時間に的中する。

「なっ……」

 隣に座る那津が新しい英語の先生を見て絶句している。
 腰まで届くつややかな黒い髪。黒のひざ丈のスカートに黒のジャケット。中に着ている白いブラウスの胸元には少し派手目なフリルがあしらわれていたが、それを上品に着こなしている。細くてすらりと伸びた足。化粧は少し濃いめなのがなんだけど、きれいな若い女の先生に教室内は少しざわついている。

「今日から英語を担当する桜薫子(さくら かおるこ)です。よろしくお願いしますね」

 教壇に立つあの人は。
 数週間前、マンションの前に仁王立ちして圭季さんと痴話げんか(!?)していた薫子さんではないか。どんな魔法を使ってここの教師になったのだ? いや、それよりもなんであの人がここにいるのか意味がまったく分からない。
 薫子さんはあたしを見つけると挑むようににやり、と不敵な笑みを向けてきた。なんであたし、薫子さんに挑戦されているのっ!?
 そしてそのまま、普通に授業が始まった。薫子さんの授業はまあ……思ったより普通だった。教科書に沿って淡々とすすめられている。なんで薫子さんがいるんだろう、とボーっと考えているうちに授業が終わった。
 授業が終わるなり、那津はあわてて席を立って教室を出て行った。珍しい。お腹でも壊した?
 四時間目が始まるぎりぎりになって那津は帰ってきた。少し青ざめていた。

「那津、顔が青いけど、大丈夫?」

 いつでも顔色を変えることなく不遜な態度を取ることが多い那津が青い顔をしているのが心配になり、そう声をかける。

「ご心配なく。もう大丈夫です」

 そうして、いつもと変わらぬ笑顔を向けられる。その笑顔にほっとする。

「それならよかった」

 安堵して、にっこり微笑んだ。

 授業を受けて、那津がいつものようにかばんを持って一緒に帰宅。今日は火曜日だから、圭季さんの帰りが遅い。エプロンをしてキッチンに立っていると那津が手伝っているんだか邪魔しているんだか、ことごとくあたしの手から野菜を奪って勝手に切っていく。

「那津、切ってくれるのはうれしいんだけど、切り方が違うっ!」
「食べられればいいんだよ。口に入ったら全部一緒」

 と横暴なことを言われた。……男の料理。
 納得はいかなかったけど、包丁を奪われたままなので野菜を切るのは那津に任せる。
 こうしてできた那津との共同料理は……まさしく食べられたらいい、状態で泣けてきた。
 圭季さんはなにも言わないで食べている。味は……悪くないと思うんだ。だけど見た目がね。
 圭季さんの料理はそう思うと野菜ひとつとってもきちんと切ってあるし、なにを食べても美味しいし、もしかしてプロの料理人だったりする?
 だけどなぁ、そういうお仕事ってハードで忙しいはずだよね。毎日十七時までに帰ってこられるとも思えないし。なんのお仕事をしてるんだろう。
 やっぱり気になって、圭季さんに聞いてみた。

「あー、うん。料理関係のお仕事だよ」

 と曖昧にごまかされた。前にも聞こうとしたらなにげに逃げられたし、聞かれたくないのかな?
 だけどそうしたらますます料理関係の仕事だと……忙しいよね。
 調理師? 栄養士?
 乏しい知識で考えるけど、しっくりくる職業を思いつけない。
 それにしても、圭季さんのこと、なにひとつ知らないかも。流されるままに同居生活が始まってしまい、名前と年齢しか知らない状態なのに気がついて──愕然とした。
 圭季さんのこと、興味がないわけではない。だけど学校から帰ったら毎日当たり前のようにいるから。知ろうとする努力をしていないような気がする。
 そこでふと、薫子さんのことを思い出した。

「そうそう、圭季さんっ! 今日ね、学校で新しい英語の先生が来たんだけど──」

 その話題を出すと、圭季さんの顔色が明らかに変わった。
 ん? なんで?
 だけどそのことに気がつかなかった振りをして続ける。

「だれだったと思います?」
「おれの……知っている人か?」

 なんとなく機嫌の悪そうな声。あっちゃー、地雷を踏んじゃったかな? と思ったけど、後の祭り。ここで話題を変えるのもかえって変なのでそのまま続ける。

「この間、ここの下で会った薫子さんが英語の先生としてきたんですよ。驚いちゃった」

 あはは、と笑ったけど、なんとなく空笑い。うう、なんだかこの重苦しい空気が痛い。

「薫子が……。そうか」

 嫌な沈黙が落ちる。あの人は何者なのか聞きたかったけど、圭季さんのこんな表情を見たら聞けないじゃない。胸になにかつかえるものを感じながらどうにか料理を胃におさめ、ごちそうさまと呟いて席を立つ。すぐさま那津が立ちあがり、あたしの目の前の食器を片づけてくれる。

「ありがとう」

 口の中でもぞもぞと言ってそのまま部屋に戻る。部屋に入り、はー、と大きくため息をつく。圭季さんに薫子さんの話題は駄目なのね。
 あのふたりの過去になにがあったのか知らないけど、恋人同士だったんだよね?
 心の奥で小人さんがちくちくと針で心をつついているような痛みを感じる。
 エントランスで薫子さんが圭季さんの腕をつかまえて見上げていた姿を思い出した。あの日、圭季さんはとてもラフな格好をしていたけど、びしっとスーツで全身をかためた薫子さんと並んで立っていてもそん色しないほどだった。むしろあのふたりが並んでいるのをみると、世の中にはこんなお似合いのカップルがいるんだ、と思えるほど絵になっていた。この間、圭季さんと一緒に行った水族館の水槽に映った自分と圭季さんと並んだ姿を思い出し、ため息が出る。
 錆色のふわふわの癖毛。標準的と言われたらそうだけど、もう少しほしい身長。標準体重でも見た目は少しぽっちゃりしている身体。なにひとつとっても勝ち目がない。
 なのに……圭季さんは薫子さんの手を振り払い、あたしのことをフィアンセと言ってくれた。あたしは圭季さんのこと、なにひとつ知らない。
 一方、薫子さんは圭季さんのこと、なんでも知っている風だった。そして、なぜか聖マドレーヌ学院で英語の教師として赴任してきた薫子さん。那津の絶句している顔。圭季さんの青ざめた表情。

「やっぱり気になるっ!」

 と声に出していってみたけど、むなしく部屋に消えるだけだった。
 悩んだって仕方がないっ! よっし、お風呂に入ってから宿題しよ!
「うっしゃ!」
 気合を入れるために声に出し、立ちあがってお風呂に向かった。

 そうして、気がついたらゴールデンウィーク。圭季さんと那津はおうちに帰って行った。
 以前と変わらない日常が戻ってきたはずなのに、ぽっかりと穴が開いたような気持ちに自分自身がどうすればいいのか分からない。
 だれかとどこかに行く、という約束をしているわけでもないし。
 ぼんやりと部屋にいると、遠くでインターホンが鳴る音が聞こえてきた。ゴールデンウィークだというのに、父は仕事に出ていて家にはひとり。面倒だなぁ、と思いつつインターホンの画面を見ると、

「薫子さん?」

 圭季さんはいないのに、なんで?
 出ようかと思ったら、インターホンが切れてしまった。すると、再度鳴り始めたのであわてて出る。

『都さん、話があるの。降りて来てくれない?』

 なんで、と聞こうとしたら、すでに切られていた。
 強引な人だな、と思いつつ、素直に下に降りることにした。

「あの、話ってなんですか」

 下に降りると、薫子さんは赤い花柄のひざ上丈のワンピースにかなりヒールの高そうなロングブーツをはいて、初めて見た時と同じように仁王立ちをして待っていた。薫子さんはあたしが降りてきたのを見て、あごで外に出るように指示してくる。先生なのになんだろう、この態度。いざなわれるままに歩いてついていくと、そこには真っ赤な車が止まっていた。
 車についているロゴマークを見て、驚いた。こ、これがうわさに聞く……真っ赤なポルシェ、ですかっ!? 乗るようにまたあごで指示されたのでにらみながら車に乗る。なんなの、この人!?
 車に乗り込むと、運転席にはロマンスグレーの男の人が座っていた。その瞳はやさしそうで、緊張していた気持ちが少しほっとする。そうしてその男の人は本当に申し訳なさそうにあたしに頭を下げてきた。つられてあたしもお辞儀をする。

「もっと奥に行きなさい」

 薫子さんは車の中に上半身をぐい、とのぞかせ、あたしを奥へと追いやる。そして横に乗りこんで、ばたん、と音を立てて閉める。

「で、あなた。本当に圭季のフィアンセなの?」

 腕を組んで見下すような視線で薫子さんはあたしを見ている。なんでそんな表情で見られないといけないのだろう、と思いつつもあたしは素直にはい、と答える。

「ふうーん」

 そうしてマスカラがたっぷり乗った瞳を細め、にらんでくる。

「圭季があなたみたいなお子ちゃまを相手するとは思えないけど。圭季をどうたぶらかしたの?」

 今にも殴られそうな気配に泣きそうになる。
 それよりも、なんであたしが圭季さんをたぶらかさないといけないの?

「こんないい女を振るなんて、圭季も馬鹿よね。そう思うでしょ、奥村(おくむら)?」

 薫子さんは運転席に座る人をじろり、と睨みつけて同意を促す。

「そうでございますね」

 困っているような声音に、気の毒になる。

「わたしと圭季は将来を約束しあって愛し合っていたの。この意味、分かる?」

 腕組みをしてじろりとにらんでこられても……。

「それがあなたみたいな庶民が圭季の伴侶だなんて、わたしは認めないわよ!」

 いや、認めないもなにも……。別にあなたの許可なんていらないでしょ? と心の中では思うものの、怖くて声を出すこともできない。
 もしかして薫子さん、圭季さんと那津がいないこのゴールデンウィークを狙って来たの? なんでこの人がふたりのスケジュールを知っているんだろう。そう思うと──背筋に冷たいものが落ちた。

「容姿も完璧、頭もよくて家柄もよくてお金もあるわたしではなくっ! なんであなたみたいな十人並みで頭もよくなくて庶民でチョコレート頭のどこがいいのよ、圭季は!?」

 むかっと来た。
 確かに薫子さんの言っていることは間違いない。残念ながら否定できる要素はなにひとっつない、悲しいことに。だけど……。

「チョコレート頭と言うなっ!」

 黙って聞いていれば言いたい放題言ってきて! 先生だからと黙っていたけどもう我慢できないっ!

「髪の色を馬鹿にした上に、圭季さんのことも悪く言うなんて……。あんたなんか、圭季さんに愛される資格なんてないのよ!」

 そうなると売り言葉に買い言葉状態。

「わたしに口答えをするなんて、いい度胸ね」
「やれるものならやってみなさいよっ!」

 けんかは弱いけど、ここで折れたら駄目よ、千代子。あたしのことはともかく、圭季さんの名誉がかかっているのよ。
 あたしと薫子さんはにらみ合っていた。少し濃いめの茶色の瞳ににらまれ、気持ちはものすごくひるんでいたけど、ここで目をそらしたら負け! ぐっと眉間に力を入れて、負けずににらむ。
 先に動いたのは、薫子さんだった。

「年下のくせに生意気なのよっ!」

 あたしの髪の毛をつかみ、ぐいぐいと引っ張ってきた。
 その行為に……昔を思い出し、動悸が早くなり、動けなくなってしまった。
 ──やだっ!
 息ができなくなり、胸が苦しくなる。両手で胸元を押さえるけど、怖くて息が思うようにできない。
 助けて──!

「薫子さま、おやめください」

 静かな声が車内に響いた。

「奥村っ! 止めないでよ!」

 薫子さんは容赦なく髪の毛を引っ張っている。抵抗できないあたしは、なされるがままにしておくしかない。それを見かねた奥村さんはシートベルトをはずし、助手席のシートを前に倒して無理やり身体を割って後ろにむき、薫子さんの頬をぱしっ、と叩いた。

「おくむ……っ!」

 それでも薫子さんの髪の毛を握る手はゆるまず、ますます強くなる。

「薫子さまっ! このお嬢さんから手をお放しなさい」

 静かだけど威圧感を与える声に、薫子さんの手が少しだけ緩まる。

「あなた……わたしにそんな口を聞いて、どうなるか分かっているの?」

 怒りに震えているのか、ぶるぶるとしているのが伝わってくる。ふたりはしばらくにらみ合っていたようだけど、息ができなくて意識がもうろうとしてきてどうなったのか知らない。
 気がついたら後部座席に横になっていて、ひたいには濡れたハンカチが置かれていた。

「大丈夫でございますか?」

 なんだか……くらくらする。それに頭皮が痛い。

「申し訳ございません。薫子さまは頭に血が上ると見境がなくなりますので……。大変失礼なことをいたしました」

 奥村さんは心配そうな瞳で深々と頭を下げてきた。
 大丈夫です、と言いたかったけど、動くことができずに口を開くこともできなかった。
 しばらくそのまま横でいたけど、どうにか動けるようになったので止める奥村さんの制止を振り切って家に戻った。何度も何度も頭を下げている奥村さんを見て、いたたまれない気持ちになった。

【つづく】


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