《六話》初デートは邪魔がいっぱい!?
お風呂に入り、英語の予習をするなんてことを忘れて、今日買ってきた雑誌を取り出してベッドにごろごろとしながらぱらぱらめくっていた。こういう雑誌のモデルさん、みんなほっそくてかわいいのよねぇ。少しぽっちゃり目のあたしが着たら似合わないだろうと思われる服を着てカメラに向かってにこにこしているモデルさんたちを見ていたら、なんだかもう、切ない気分になってきた。ダイエット、とは言わないけど、ももう少し細くなった方がいいのかなぁ。
雑誌を閉じて、起き上がって明日の服を決めるためにクローゼットを開け、そこについている鏡を覗き込む。朝、あんなにひどかったクマは朱里に教えてもらったマッサージの効果もあったのか、ずいぶんと分からないレベルにまではなっていた。
だけどさ。根本の部分がなぁ。
鏡を見て、自分の錆色の髪をつまんでみる。母親譲りのチョコレートのような色の髪。小さい頃からこの髪の色のことでずいぶんと言われ続けた。
『チョコ色の髪なんてありえない』
『染めてるんだろう、おまえ?』
『気持ち悪い~』
父は今ではずいぶんと白髪交じりとはいえ、黒髪だ。写真の中の母は、やっぱりあたしと同じ髪の色をしていた。
父は髪の色でいじめられて泣いていると事あるごとに、
『チョコ、ボクは母さんのあのチョコレートのようなきれいな髪に惚れたんだよ。もちろん、見た目だけではなくて中身も大好きだ』
そう言って細い目をますます細めて目が溶けてしまうのではないか、と思われるくらいとろりととろけるような笑顔でいつも母のことを話してくれた。ああ、父は本当に母のことを愛しているのだな、と思ってその父の顔を見るのが大好きだった。
そういえば、最近はあの笑顔を見ていないな。と思ったら、中学に入ってからは髪の色のことをあまり言われた覚えがないことに気がついた。
あたしの通っている聖マドレーヌ女学院……改め、聖マドレーヌ学院は私学ということで良家の子女が通う学校である。そして、聖マドレーヌという名を冠している割に、これが面白いことにカトリック系の学校ではない。聖~と名前がついていたらミッション系だと思われがちだけど、由来は別にあるらしい。そんな話を中学に入学した時に言われた気がするけど、つまらなくて聞いていなかったから分からない。
そして、私学なら校則が厳しい、と思われがちだけど、確かに変な校則も存在することはするけど……思っているよりも自由で、この髪の毛に関しても先生から一度として注意を受けたことがない。ませている子は中学入学と同時にすでに染めたり化粧をしてきたりという子もいるにはいるけど、基本的にはみんな、真面目な子、なのである。染めるなんてもってのほか、化粧なんかもしている子の方が珍しい。朱里は母親の影響もあって結構早くから化粧をしている派手な子ではあったけど、見た目の派手さからは相反して、真面目な子。
もちろん、突然恋に落ちて突撃告白して玉砕することも多いけど、思いが叶ったらかなり一途。だけどあまりにもとんでもないことをしでかしてくれるので、向こうからすぐに別れを告げられるみたい。朱里、かわいいのにあの性格がねぇ……。
そういえば圭季さん、この髪の色、褒めてくれたよね。細くてふわふわの髪の毛を再度つまみ、服を決めようとしたその時。
こんこん、と扉が遠慮がちに叩かれた。
「はい?」
那津かな、と思ったけど返事をして扉に向かって開けた。そこには、意外にも圭季さんが立っていた。
「まだ起きていてよかった」
圭季さんは安堵した表情で見ている。先ほど見たなんとも言えない表情を思い出して少し居心地が悪くなる。
「明日だけど、家を九時半くらいにでようかと思って。起こすのはいつも通りでよいよね?」
出発時間だとか全然決めていなかったことに気がつき、考える。いつも通りの時間だと早いような気がしたけど、なんならお菓子の下準備だけでもして出かけるのもいいかな、と思い直してはい、と返事をする。
返事を聞いた圭季さんはにっこり微笑んでそのまま部屋の目の前にある脱衣所に向かって行った。今からお風呂に入るのか。
扉を閉めて、明日着て行く服を考えることにした。
圭季さんがどんな服を着て行くのか分からないけど、年上の働いている男の人だから……。
今日買った雑誌をぱらぱらとめくり、参考にしてみる。高校生らしいけど年上の人と一緒にいても恥ずかしくないような服、かぁ。普段からおしゃれなんて気にしないからあまり洋服を持ってないんだよねぇ。困ったなぁ。やっぱりスカートかなぁ。ブラウスにカーディガンにこのあたりのスカート……? 選択肢がなさすぎる。
早く寝よう、と思っていたのに結局なかなか決めることができなくて思ったより遅くなってしまった。うぅ、またクマ牧場が……。
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「おはようございます、千代子さま。本日も10秒以内に起きないと」
那津のその言葉にがばっと起き上がった。なにをされるか分かったもんじゃないわっ!
「さすが千代子さま。お早いお目覚めで」
今日の那津はジーンズに長袖のTシャツといったかなりラフな格好をしている。そうだよね、土曜日だもの。那津に朝の挨拶をして、着替えるから部屋を出るように促す。しぶしぶといった表情で出て行くのを確認して、とりあえず楽な服に着替える。お出かけ前に昨日考えた服に着替えよう。
洗面所に行って顔を洗う。鏡を覗き込んで見るとクマはできていなかった。よかった。
キッチンに行くと、圭季さんが笑顔で挨拶をしてきたので、笑顔で答える。父はまだ寝ているようだ。休みの日はなかなか起きてこない。疲れているだろうからと思っていつも、父が起きて来るまで起こさないでいる。
朝ごはんを食べ、型抜きクッキーを作るために材料を用意して作り始める。ああ、型抜きじゃなくてアイスボックスクッキーにするか。少し多めに作っておいて冷凍しておけば焼くだけだし。材料を合わせて生地を作り、冷凍庫へ保存する。帰ってきてから切って焼けばいいから楽だわ。
時計を見ると、いい時間だったのであわてて部屋に戻って着替える。着替えてリビングに行くと圭季さんは待っていてくれているようだった。
「すみません、お待たせしました」
「大丈夫。まだ時間に余裕があるから。だけどそろそろ出ようか」
時計を見たら、九時半にまだなっていなかったけど出かけることにした。
ショートブーツを取り出し、履く。圭季さんはバッグを持つように言ってくれたけど、そんなに大したものが入っているわけではないから断った。
圭季さんが先に立ち、歩く。隣に立って揃って歩くのもなんだか気恥しくて、ちょこちょこと後ろについて行く。
駅について改札を通り、電車に乗る。さすがに土曜日、車内は空いていて楽に並んで座ることができた。だけどなにを話したらいいのか分からなくて、終始うつむいていることしかできなかった。圭季さんも取り立てて話をしてくる様子もない。うぅ、こんな状態でいいんだろうか?
水族館の最寄り駅へはふたつほどなので、それほど時間がかからないで着いた。
今日の圭季さんは濃紺のスラックスにロングTシャツを着てその上に黒っぽいシャツをはおり、スプリングコートを着ている。スーツもいいけど、私服もいいわ~。
改札を通り、地下から地上に出て水族館への道を歩く。
風が圭季さんのスプリングコートの裾をはためかせる。少し強い風に手をかざして顔をかばう圭季さんのその姿が妙に色っぽくて、あたしの心臓は外に聞こえるのではないかというくらいドキドキと鼓動を鳴らしている。
あたしの顔、たぶんものすごい間抜けな顔をしている。圭季さんのその何気ないしぐさに自分の頬がうっすらとピンクに染まっているのが分かったし、思わず口を開いて魅入ってしまっている自覚もあった。圭季さんは不思議そうな表情であたしを振り返る。
「チョコ、今の風で目にゴミでも入った?」
そんなことなかったからフルフルと首を振る。
「本当に?」
圭季さんはあたしを道の端に連れてきて、瞳を覗き込む。赤墨色の瞳に見つめられ、心臓はますますばくばくと爆発しそうな勢いで血液を全身に送り出している。こんなにどきどきしっぱなしだと、早死にしそうだわ。
「うん、大丈夫そうだね」
圭季さんは大きな瞳を細めてにっこりと笑う。その笑顔がかわいくて、キュンとする。ドキドキしたりキュンとしたり、あたしの心臓は大忙しだわ。
「今日は少し風が強いみたいだから、おれの後ろから歩けよ」
そう言って圭季さんは風から守ってくれるようにして歩き始める。言われた通り、圭季さんの大きな背中に隠れるようにして歩くことにする。圭季さんの広くて大きな背中を見つめながら歩いた。その間、心臓はずっとドキドキしっぱなし。このままではあたしの心臓、そのうち壊れてしまうわ。
水族館のある建物は大きな複合ビルの中に入っていて、そのビルの中に行くまでは駅から少し歩き、ビルへと続く地下通路に入る。長いエスカレーターに乗って下り、動く歩道を使ってようやくビルの入口に到達する。ここは地下通路なので、風はない。ここまできたらもう圭季さんの後ろを歩く必要なんてないのだけど、横に並んで歩くのもやっぱり気恥しくてそのまま後ろを歩いていた。
ビルに到着して、圭季さんは迷うことなく水族館へ向かう。
近いというのにほとんどここに来たことがないから分からない。
学校の子たちはよく遊びに来ているみたいだけど、あたしは家のこともあるし、なによりもあまり遊び歩くことが好きではなくて家に引きこもってお菓子を作っていることの方が多い。
材料にしたって近所のスーパーに行けば足りているし、どんだけ引きこもりなんだよ、と自ら突っ込み。だけどなぁ、用事もないのに遊びに来ることに抵抗があるからなぁ。
圭季さんはたまにきちんとついてきているのか確認するように後ろを振り向いてくれる。その度に目があってドキドキする。
圭季さん、かっこいいから学生時代からもてていたんだろうなぁ。社会人になって、会社ではたくさんの女の人がいるだろうし、それに橘製菓の御曹司だもんね。
結婚相手なんて引く手あまたのはずなのに、なんであたしなんだろう?
そう考えたらなんだか急にさみしいというか悲しいというかなんとも言えない気持ちになってしまった。
「チョコ? どうした、急に立ち止まって。やっぱり調子がよくないのか?」
うつむいて立ち止まってしまったあたしを心配して、圭季さんは少し前を歩いていたので駆け寄ってきてくれる。
「いえ、大丈夫です」
圭季さんに心配をかけてしまったことに気がつき、謝る。
「ちょっと道が分からなくて不安になっただけです、ごめんなさい」
その言葉に圭季さんはふんわり、という表現がぴったりな柔らかな笑みを向けて、
「大丈夫だよ。おれも分からないから」
って。ええええええっ!? だって圭季さん、自信たっぷりに歩いているから……!
「正直な話、あんまり女の子とデートしたことなくて、昨日から緊張してるんだ」
うそだぁ。全然そんなそぶり、見せないから……。
それに、なんだか学生時代からもててますオーラというの? が出ているからデートなんてお手の物、だと思っていた。本当なら意外だけど。
「ここに来たのは初めてではないし、水族館は好きでよく来ているし、ほら、上を見たら表示されてるだろう? おれはあれを見ながら歩いているだけだから」
言われてみれば、あちこちに道案内が出ていた。なるほど。
先ほど思ったことをすっかり忘れ、圭季さんの少し照れくさそうなはにかんだ笑顔を見て微笑んだ。あたしの顔を見ていた圭季さんはいきなり真っ赤になって左手で顔を覆ってそむける。またなにかやらかした?
「あの、圭季さん、あたし……またなにか変なこと、やらかしましたか!?」
『心臓に毛が生えている事件』(そう、あれは事件よ、事件!)を思い出し、自分が知らないうちにとんでもない言動をとってしまったのかもと思ってかなりあわてた。圭季さんはあわてたように顔を覆っていた左手を振って違う、とジェスチャーしてきた。
じゃあ、一体なに?
不安な面持ちで圭季さんを見ていた。
「ごめん。笑顔があまりにもかわいくて」
笑顔が……かわいい!? 圭季さんの言葉に、今度はあたしの顔が真っ赤になった。
な、なんてことをっ!
恥ずかしくて、両頬に手を添え、うつむくしかなかった。
あたしたちと目的が一緒だと思われる家族連れやカップルがちらちらと視線を送ってくる。
よく見るとここ、通路のど真ん中じゃないの。じゃ、邪魔なのね。圭季さんもそのことに気がついたようで、あたしの肩を軽く押して通路の端に寄る。
そこでようやく頬の熱は少しおさまった。相変わらず心臓はばくばくと賑やかだけど。今日でかなり寿命が縮んだような気がする。
「い、行こうか」
圭季さんの言葉にうなずき、あたしが歩き始めるのを確認してから後ろについて行った。
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水族館に着き、チケットを買う段階でもめた。
「いえ、自分のチケット代くらい出します!」
「チョコ、気にするな」
そう言って圭季さんは有無を言わさずチケット代を払い、受け取ったチケットを手渡す。チケット代を渡そうとしたら圭季さんがすごい目で睨んできた。
「おれが誘ったデートなんだから、今日はチョコはお金のことは気にしなくていいの!」
そう言われたら、もうなんにも言えないじゃないの。しぶしぶお財布をバッグに入れた。圭季さんの少し後ろから水族館に入る。
ここの水族館、ものすごく久しぶりに来たような気がする。いつ以来だろう──? もしかして、あの迷子になったのが最後、だったりする? そうすると、かなり前の話だなぁ……。
ずいぶんと昔に来たきりのはずなのに、中に入るとあまり変わっていなかった。
「ここの水族館には来たことあるよな?」
圭季さんの言葉にうなずく。
「でも、もう十年以上前ですよ、来たのは」
その言葉に圭季さんは目を丸くしている。
「そうなんだ。じゃあ、おれがしっかり案内してあげるよ」
にっこりと微笑まれ、うれしくて笑い返す。やっぱり少し照れたように圭季さんは顔を赤くしていた。
圭季さんの案内で久しぶりの水族館を堪能した。そこそこ混んではいるけど、思ったよりは空いていた。土曜日とはいえ、朝早いからかなぁ?
薄暗い中、圭季さんの後ろ姿を見失わないように必死について行った。
そんな中で、ちらり、とここにいるはずのないシルエットが視界の端に映った。
え!?
驚いて、そちらの方を向く。そこにはカップルと家族連れしかいなかった。……気のせいか。
ほっとして視線を戻すと……。
先ほどまで見えていた圭季さんの後ろ姿が見えなくなっていた。
やだ。はぐれた!?
昔、この水族館で父とはぐれたことを思い出し……泣きそうになってしまった。
水槽の近くで見る人の邪魔にならない場所に移動してそこで待つことにした。迷子になった時に下手に動くと余計にはぐれてしまうから。だけど……このまま圭季さんに会えなかったらどうしよう。前に迷子になった時は大声で泣いたから父が見つけてくれたけど、もうこんなに大きくなったから、泣くこともできない。あたしは……泣きたくても泣けないこの状況でじっと待つしかなかった。
「チョコ!?」
水槽にもたれかかって下を向いていたら、聞きなれた声が聞こえてきた。顔をあげ、声のした方を向く。そこには、ものすごく心配そうな顔をした圭季さんがいた。
ようやく圭季さんを見つけることが出来て、ほっとしたと同時に、涙が出そうになった。うるんでいるのを悟られたくなくて、下を向いた。
「チョコ、ごめん。……調子悪い?」
首を横に振る。なんだかあたし、せっかくのデートなのに圭季さんにものすごく気を使わせている気がしてきた。心配をかけたいわけじゃないのに、顔を上げることができなかった。圭季さんがいつまでも顔を上げないあたしを心配して、しゃがみこんでくる。ぐすん、と鼻をすすり、顔をあげた。
「ごめんなさい。大丈夫です」
少し鼻声のような気がしたけど、ぎこちなく笑って見せた。すると今度は圭季さんがなんだか泣きそうな表情で見て来る。
「チョコ、本当に……ごめん。調子が悪いんだよな? 帰ろうか」
圭季さんの言葉に、思いっきり首を振る。
「ち、違うんです! あ、あたしもその、すっごい緊張しているだけなんですっ!」
昨日のクマのせいか、圭季さんは調子がよくないと勘違いしているようで、それだけは誤解を解きたくて必死でそれだけ言うのが精いっぱいだった。罪作りなクマだ……。
あたしの言葉に圭季さんは少し驚いたように、
「緊張してる……の?」
壊れた人形のようにこくこく、とうなずくしかなかった。
だ、だって。これが緊張せずにいられますかっ!?
数日前にいきなりあたしの前にこんなにかっこいい人が現れて、婚約者だなんて言われたのよ!? そんな人とふたりっきりでデート、だなんて、これで緊張しない人がいるのなら、会ってみたいわ!
「……なんだ。調子が悪いのに無理して来てくれてるんだ、と思って申し訳なく思っていたよ。そうじゃないのなら、いいんだ」
圭季さんはほっとした表情で微笑む。……やっぱりこの微笑みに弱いわ。頬が赤くなるのがよくわかる。だけどここは幸いなことに薄暗いから、頬が赤くなっていることは圭季さんには分からないはず!
……ということはだ。な、涙ぐんでいたのもばれてない、ということよね?
そのことに気がつき、圭季さんに余計な心配をかけてしまったことにいまさらながらに反省した。
「あの……さ」
圭季さんがなんだか言いにくそうに見ている。なんだろう、またやらかしちゃった!?
「もしよければ、手、つなごうか?」
圭季さんのその言葉に、心臓がどっきーん、と止まりそうになった。
手。
手をつなぐ、ですってっ!?
「またはぐれてチョコに泣かれたら困るから、ね?」
ぐわっ。涙ぐんでいるの、ばれてるっ!?あわてて目をこすり、泣いていないことをアピールしてみたけど、その行動が墓穴だった、というのを圭季さんの次の発言で知る。
「あ、本当に泣いてたんだ。……ごめんね」
うわっ、カマ掛けられていただけですかっ!? われながら情けない……。
圭季さんはにっこりと微笑んで手を差し出してきた。あたしは……もう恥ずかしくて恥ずかしくて。その手を取ることができなかった。
がっしりとした大きな手。昨日、器用にこの手でジャガイモをむいていたなぁ……と思い出して、なんだか妙に恥ずかしくなる。なんでそこであたし、恥ずかしくならないといけないのよっ!?
緊張で手が少ししっとりしているのが気になってスカートで手のひらを拭く。だけど汗は全然取れなくて、むしろそう思うことで余計にじっとりとしてくる。こ、こんな手で圭季さんの手に触ることなんてできないよ!
とにかく恥ずかしくて、どうしてよいのか分からずにいたら、圭季さんから手を握ってきた。
あたしの手なんかと違って、さらさらとした温かな手。手を振りほどきたい衝動にかられてしまった。だけど圭季さんの手はあたしのしっとりとした手をしっかりつないで離してくれる様子はない。
少し困った表情で圭季さんを見上げる。圭季さんはにっこりと微笑み、
「本当だ。緊張してるんだね」
と笑ってくれた。
だけどあたしの手、緊張していてもしていなくても常にしっとりしてるのは確かだ。こんなことなら手を洗ってから手をつなげばよかった。
手をつなぐことによって、必然的に圭季さんの横に並んで歩くことになる。
薄暗い深海魚がたくさんいるエリアを出て、人だかりができている水槽に近寄る。
「ここにはラッコがいるんだよ」
「ラッコってあの貝殻を胸の上で割る、あれですか?」
もっと他に聞き方がないのかっ!? と自分の心の中で自分に突っ込み。
「そう。ネコ目イタチ科カワウソ亜科で絶滅危惧種に指定されているんだ」
へー、圭季さんって物知りねぇ。
「ラッコの毛皮は保温性に優れてしかも柔らかい手触りらしく、昔は乱獲されていたらしいよ」
それで絶滅危惧種に指定されているのか。こんなにかわいいのを殺して毛をはがすなんて、信じられないっ!
人の頭越しに一生懸命背伸びをしてラッコを見る。ガラス越しに見えるラッコはのんびりと水の上にあおむけに浮かんで毛づくろいをしている。かわいいなぁ、あの姿。
伸びあがって見るのに疲れてふぅ、と息を吐いて足を元に戻した。そしてふと前を見ると。
「那津っ!?」
ラッコの水槽の後ろの少し高くなったところで見ていたのだけど、ラッコの水槽の前には……那津がいた。
「本当だ。あいつ……」
圭季さんを見ると、ムッとした表情で那津を見ている。
「千代子さまに圭季。これはまた偶然ですね」
にたり、とまたもや悪魔の笑みを浮かべている那津。那津は器用に人を避けてあたしたちの前にまでやってきた。そして、あたしと圭季さんが手をつないでいるのを見て、またもやにたり。
「圭季も手が早いねぇ。もう手を繋いでるし」
手を離そうとしたけど、圭季さんはぐっと握りなおしてきた。
「那津、来るな、と言っただろう?」
今まで聞いたことのない圭季さんの冷たい口調にあたしがびくり、と身体を震わせた。
「チョコちゃんが怖がってるよ?」
那津は全然堪えてないような表情でにやにやしながら手を振って去って行った。
「チョコ……すまない」
圭季さんは申し訳なさそうに謝っている。あたしは首を振り、圭季さんの手を握り返した。那津に気がついても言わなければよかった……のかな?
なんだかあたしにも原因があったような気がして、圭季さんに申し訳なかった。
「行こうか」
先ほどの冷たい口調とは違っていつもの優しい言い方に、ほっとした。
クラゲの水槽の前で、あたしはあまりの美しさに見惚れていた。薄暗い水槽の中でふわり、ふわりと気持ちよさそうにそれでいて幻想的な動きにいつまでも見ていたい気分になった。飽きることなく見ているあたしの横で、圭季さんもじっとクラゲを見ているのかと思ってふと見上げると、思ったよりも真剣な表情であたしのことを見ていた。
圭季さんと目が合い、あたしは驚く。にっこりと微笑み、圭季さんは口を開く。
「クラゲ、気に入ったの?」
こくん、とあたしはうなずく。
「クラゲに強い水族館を知っているから、今度そこに行ってみようか」
行きたい! 行って見たいです!
こんなに涼しそうにそれに気持ちよさそうにふわふわ泳いでいるのを見て、あたしはもっと見てみたい、と思ったからうれしくなった。あたしはこくこく、と大きく同意した。
「次のデートはそこだな」
圭季さんはうれしそうに次のデートの約束をしてくれた。
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二階もあるのでそこも見た。二階は基本的に熱帯の魚やら生き物たちがいた。
あたしがこの水族館に来たときのイメージは下の階の回遊魚がたくさんいるところしか覚えてない。どこで迷子になったのか来たら思い出すかと思ったけど、分からなかった。結局、短い間だったけど、圭季さんとはぐれちゃったしなぁ。
二階も見て回り、あたしたちは下に降りて外に出る。外ではアシカがちょうどショーをやっているところだった。あたしと圭季さんは手をつないだまま、後ろの方からアシカのショーを見ていた。
『だれかアシカのショーのお手伝いをしてくれる人~』
舞台の上で水族館の職員のお姉さんがそう聞いてきている。親に連れてきてもらっている子どもに混じって、なぜか那津が元気に手を挙げている。……那津よ、きみは一体なにがしたいのだ。圭季さんも気がついたらしく、少しムッとした表情をしてあたしの手をぐい、と引っ張って歩き始めた。あたしも同じ気持ちだったので歩き始める。
歩いているとトンネルが見えたのでそこをくぐってみる。出口のあたりで水がざばーん! と襲いかかってきたように見えて、あたしはあせって圭季さんに抱きついてしまった。
ぬ、濡れちゃうっ!
覚悟をしていたのに、いつまでも水の冷たい感触がしてこなくて恐る恐る見ると……。ガラスがはまって濡れないようになっていた。
び、びっくりしたっ!
そんなあたしを見て、圭季さんはくすくすと笑っている。
「まさかそんなに驚くとは思わなかった」
圭季さんはさすがにここに何度も来ている、と言っているだけあって知っていたようで、平然としている。
知っていて連れてきたのねっ、意地悪だっ!
「抱きついてきてくれるとは思ってなかったから、なんだか得した気分だな」
少しにやにやした圭季さんの顔にあたしはあわてて離れる。
うぅ、ものすごく恥ずかしいっ! 穴があったら入りたい。
圭季さんはあたしの手を改めて握り直し、うれしそうに歩き始める。
抱きついた時、思った以上に身体ががっしりしていて、あたしは思い出して赤面していた。
水族館なのになぜか馬がいたり、アルマジロやアリクイもいた。ペリカンを見て、圭季さんはなぜかペリカンとけんかをしていた。……なんで?
それを見てあたしはおかしくてお腹を抱えて笑ったり、ペンギンを見たりして、あたしたちは水族館を後にした。
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水族館の入っている複合ビルにはさまざまなお店が入っている。飲食店から衣料品を取り扱うお店、雑貨などなど。スーパーに置いてあるような食材はないけれど、ここにくればたいていのものが手に入る。水族館から下に降りてお昼を食べるために飲食店を探した。
「チョコはなにか食べたいものある?」
「和食」
われながら色気のない選択だよなぁ、と思ったけどなんだかご飯をいっぱい食べたかったのよ!
圭季さんは館内案内図を片手に和食のお店を探しているようだ。
「とりあえず行ってみよう」
お店を見つけたのか、圭季さんは案内図をたたんであたしの手をしっかりと握ると歩き始めた。どこに行くのか分からないけど、ついて行く。
エスカレーターを昇って三階についた。圭季さんは迷うことなく目的のお店へと向かう。
まだ少し時間が早いせいか、待つことなく店内にはすぐに入れた。席に案内され、向かい合わせで座る。
メニューを見て、悩む。むむ、どれも美味しそうだ。圭季さんは早々に決めたらしい。
あたし、結構優柔不断なのよねぇ。
……うん、決めた!
店員さんを呼んで、オーダーする。
待っている間、圭季さんと水族館の見たものなどをぽつぽつと話をする。
あたしはあんまりしゃべる方ではないし、圭季さんもそんなにおしゃべりというわけではなさそうで、会話がよく途切れる。
会話が弾まない。……仕方がないのかなぁ。
よくよく考えてみたら、出会ってまだ四日?
そういえば朱里が言っていたよね。
『そういう人の方がいきなり情熱的な恋に陥ってソッコーで結婚したりするのよね』
情熱的な恋かどうかは分からないけど、なんだか天から降ってきたような婚約話にパニック。わけのわからないまま結局流されるように受け入れ……ているような気がする。
そういえば断ろう、と思っていたんだよね。今のあたしはどう思っているんだろう。
急に黙り込んだのを心配して、圭季さんは口を開く。
「チョコ、やっぱり……」
「違います!」
否定しようとテーブルに手をついて立ち上がったと同時にあたしたちが頼んだ料理が運ばれてきた。恥ずかしくなって何事もなかったかのような振りをして料理を受け取る。
照れ隠しにお味噌汁に口をつけ、あまりの熱さにあわてる。あわてた拍子に中の汁が少し手にかかる。
「あつっ」
お椀をトレイに戻す。圭季さんがあたしの手を引っ張り、おしぼりで冷やしてくれる。おっちょこちょいで嫌になる。
「あの、ごめんなさい」
恥ずかしくて小さな声で謝る。圭季さんは少し困ったような表情であたしを見て、先ほど汁がかかった手を確認してくれる。
「もう大丈夫そうだ」
ほっとした表情であたしの手を見ておしぼりをはずす。気持ち赤みは残っていたけど、ひりひりしたりしないところを見ると、すぐにおしぼりで冷やしてくれたのがよかったのだろう。
ほっとした。
あたしたちは少し冷めてしまった料理を無言で食べ、またお会計のところでもめた。だけどやっぱり圭季さんは強引にお会計を済ませてくれた。
働き始めたばかりの人におごらせるなんて、いくらなんでも悪いでしょう!
「あのさ……チョコ、おれってそんなに頼りない?」
お店を出たところで少し元気をなくした圭季さんにそう言われ、驚いた。
「た、頼りないんじゃなくて……。働き始めたばかりの人にたかるのも……」
圭季さんは深い深いため息をつく。
「高校生のチョコに気を遣わせるくらい、おれはだめなやつなんだな」
そう言った圭季さんが妙に小さく見えて、ずきん、と心が痛んだ。なんだかあたし、圭季さんに悪いことを言ってしまったみたい。
「そんなことを言うおれもまったくみっともないというかかっこ悪いな」
苦笑交じりにそう呟く圭季さん。みっともないともかっこ悪いとも思わない。普通ならそんな弱音、吐きたくないよね。
「あの……ごめんなさい」
謝罪の言葉に圭季さんは泣きそうな表情で見ている。どうしていいのか分からなくて、圭季さんの手をぎゅっと握りしめた。
「ごめんなさい。あたし、圭季さんに気を遣わせてばっかりいる」
「おれの方こそ、その、ごめん」
圭季さんはあたしの錆色の髪をやさしくなでてくれている。圭季さんからふんわりと石けんのようなやさしい香りがして、そのにおいで落ち着いた。
「働き始めたばかりだから確かに贅沢はできないけど、これくらいなら大丈夫だから。だから……チョコは心配しないで、ね」
やさしい声にあたしはうなずく。
「じゃあ、行こうか」
先ほどの泣きそうな表情ではなく、少しはにかんだような微笑みにつられて笑う。圭季さんは少し困ったような顔で頭をくしゃりとして反対の手であたしの手を握り直し、歩き始めた。
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今日の第二の目的地であるお菓子博覧会。
常設しているとあるテーマパークの中で期間限定で開催されているお菓子博に実は行きたかったのよね。
うぅ、入園するのにお金がいるの!? と思っていたら、圭季さんは無料チケットを持っていると言ってそのチケットで入ることができた。
「橘製菓も出店しているらしくて、もらっていたんだ」
なるほど。
中に入ると思っている以上に広いらしく、あたしたちは少し見て回る。ここは昭和の街並みを再現した場所らしい。「懐かしい昭和の街並みを再現!」と書かれているけど、あたしなんて思いっきり平成生まれだから昭和と言われると遠い過去としか思えない。圭季さんはぎりぎり昭和生まれ?
この昭和の街並みの中に餃子のお店がちらほら。お昼を食べていなかったらここで食べていたのになぁ。
だけどさすがに土曜日。餃子のお店はどこもかしこも行列だらけ。食べておいてよかったのか。
そして、アトラクションのあるコーナーへ。なんだ、アトラクションはお金を払わないとだめなのか。ケチくさいなぁ。
目的のお菓子博は上の階。おお、あるある。さまざまなメーカーのお菓子から世界のお菓子まで。あたしたちは隅から隅まで見て回った。
さすが圭季さん、製菓会社の御曹司。お菓子の話になると急に饒舌になる。
あまりにも無口だから心配だったけど、話は面白いし上手だし、たまに笑いを交えてくれて笑い転げたりした。
行きの時はあんなにしゃべることがなくてどうしようか悩んでいたのに、圭季さんがいろいろしゃべってくれるからあたしも普段よりよくしゃべったような気がする。
お菓子も充分に見て堪能したし、ほしかったお菓子もゲットできてご機嫌なあたし。
帰ろうかと思ったところに、ばったりと見知った顔と出会ってしまった。
「あれ、チョコちゃん」
声をかけられ、驚いた。同じクラスの子三・四人ほどの集団がそこにいた。なんとなく気まずい雰囲気。あたしは思わず圭季さんとつなぐ手をにぎりしめた。圭季さんも気のせいか青ざめた表情をしている。
「チョコちゃんがこんなところにいるなんて、珍しいね」
なんとなくすぐに立ち去りたかったけどそれも不自然な気がしたから黙ってうなずく。
「あっれー? そちらの人、もしかしてチョコちゃんの……?」
あたしは手をつないでいることを悟られないように後ろ手に隠したけど、すでに遅かったようだ。
「手まで繋いでー。楓くんという人がありながらっ!」
急に那津の名前を言われ、あたしはムッとする。
「那津とはそんな関係じゃありませんっ!」
誤解されるのが嫌で、ついついあたしは反論していた。
「えー、楓くん、かわいそー」
口々にそう言うけど、那津はかわいそうでもなんでもありませんって!せっかくの楽しいデートに水をさされてあたしは不愉快な気持ちになった。少し怒りながらあたしはテーマパークを出る。
「チョコもそろそろ機嫌直せよ」
圭季さんは思ったよりも涼しい表情をしていて、信じられなかった。
「那津のせいで今日はなんだか散々だったからっ!」
苦笑はしているけど圭季さんは聞こえるかどうか分からないくらいの小さな声で、
「……那津のこと、もう少し考えてくれないか」
言われた言葉に驚いてあたしは立ち止まって圭季さんを見上げたけど、言った本人はなにごともなかったかのようにそのまま歩いている。立ち止まっていたあたしは必然的にぐい、と引っ張られる形になり、あわてて追いかけた。
。.。:+* ゜ ゜゜ *+:。.。:+* ゜ ゜゜ *+
帰る前にどうしても寄りたいお店がある、と言われて素直について行った。
そこは、紅茶専門店。
圭季さんは慣れた様子でお店の中をのぞいて缶に入っているお茶っぱのにおいをかいでいる。
「試飲、どうですか?」
とすすめられ、あたしは少し喉が渇いていたのもありありがたくいただく。
口に含んで驚いた。ものすごくいい香り。一口でこんなに鼻の奥までにおいが届くなんて。
「ここのお茶、少し高いけど美味しいだろう?」
値段を見て驚いたけど、この味なら納得。
圭季さんはなにか見つけたみたいで店員さんにお願いしている。出してきてもらってレジでお会計をしている。気のせいか、圭季さんに向けるお店の人の視線が熱い。少しムッとする。にこにこしながら商品を受け取り、圭季さんはあたしのところに来た。
「ごめんね、お待たせして」
「いいえ」
なんだかぶっきらぼうになってしまったけど、当たり前のようにつながれた手に安堵した。
朝来た道をそのまま逆トレースするような形で駅まで戻る。外に出ると思ったよりも時間が遅くなっていたようで驚いた。今から帰ってご飯作るの、大変だよね。手伝わなきゃ。
手をつないで並んで歩いて、圭季さんはいろんな話をしてくれる。お菓子の話だったり、料理の話だったり。
とりあえず今のところのあたしたちの共通で話ができるのはそのふたつだけど、これからまだまだいろんなことを知ることができるから、一歩前にすすめたのかな? あせったっていいことない。
「ゴールデンウィーク前に一度、今日言っていたくらげに強い水族館に行ってみようか」
電車から降りて家への帰り道、圭季さんはそう約束してくれた。
「はいっ!」
あたしはその約束が待ち遠しくなった。
【つづく】