《五話》おねだり!? 執事?
圭季さんと一緒に肉じゃがを作って、驚いた。包丁さばきがプロ級!?
あたしはジャガイモの皮をむくのは皮むき器でやっているのに、圭季さんは包丁一本を片手にするするとまるで手品でも見ているかのごとく、見事なまでに皮をむいていく。
「すごい……」
と見惚れていたら、
「チョコ、手が休んでる。ジャガイモはいいから人参むいて」
とあたしの手の中からジャガイモをひょいと取り、むきはじめた。……これだとあたし、ものすごい足手まとい!? 流しに置かれていた人参を取り、皮をむく。
「皮むき器でむいてるのに見ていてなんか危なっかしいなぁ」
と言われましても。うわっ、あぶなっ。
……これが危なっかしいのか。かなり足手まとい風味になりつつ、あたしと圭季さんは肉じゃがを作った。
え、お出汁要らないの? 肉じゃがって出汁で煮るものだと思っていたから、かなり驚いた。あとはお味噌汁とつけ合わせ。
圭季さんの手際の良さと料理のセンスというの? に脱帽。教わるというよりも圭季さんの魔法のような料理さばき? を見ている方が面白くて、後ろからのぞき見。結局、手伝ってないし。
「おれに惚れた?」
後ろでじっと見ているあたしに圭季さんは右側の口角をにやりと上げ、あたしを見る。その自信たっぷりで魅惑的な笑顔に、胸はきゅん、とする。
あ……素敵。
だけど圭季さんに惚れた、だなんていうのが恥ずかしくて、
「ち、違います!」
と思わず強がりを言っていた。だけどこの料理をする姿を見て、惚れない女の人がいるのなら見てみたいっ! でも、圭季さんに惚れられたら、困るかも。と考えて、それが信じられなくてそのまま止まってしまった。
あたし……。昨日会ったばかりなのに、圭季さんのこと──。
自分の中に思わぬ感情を認めて、動揺する。
え、いや、う。
恥ずかしくて頭に血が上ってきた。
すると急に視界が遮られた。
「!?」
な、なにっ!?
「だーれだ」
後ろから目隠しをされ、耳に息を吹きかけられるような囁きでそうつぶやくのは、
「那津っ!」
驚いて目隠しをしている手を引きはがし、那津から身体を引き離す。あまりの出来事に驚き、肩で息をしていた。
「しっ、心臓に悪いこと、しないでよっ!」
「チョコちゃんの心臓には毛が生えてるだろう?」
ひ、人を人外みたいな言い方するなっ!
「そもそも心臓に毛が生えていたら心臓としての機能が悪くなるでしょうっ!? 心臓の中で毛が絡んだり毛に赤血球が張り付いて血栓の元になったりっ!」
あたしの反論に那津ばかりか圭季さんまでお腹を抱えて笑っている。
な、なによ。そんなに変なこと、言った!?
「心臓の中に毛が生えている、というのは考えたことがなかったな」
圭季さんは涙目であたしを見ている。言われて初めて気がつく。
そうか。心臓の外側に生えていれば問題ないのか……って違うっ!
「中でも外でも心臓には毛は生えませんっ!」
自分の勘違いが恥ずかしくて、真っ赤になりながらそう言ったけど、ますます墓穴を掘っているような気がした。
んもうっ!
「那津もいたずら、しないでよっ!」
ふと見ると、圭季さんの料理はもうすっかりできていたらしく、食器を取り出して料理をよそっている。さすがにこれはぼんやりと見ているわけにはいかなくて、手伝おうとしたら、那津に邪魔される。
「千代子さまは座ってお待ちください」
あたしの手からお茶碗を奪い、強引に手を握ってテーブルまで連れてこられた。
「那津っ!」
抗議したけど、肩を掴まれて無理やり座らされた。立って手伝おうとすると、那津は鉄黒色の瞳であたしを睨みつけるものだから、おとなしく座って待つしかなかった。
執事がどうしてそんなに睨むのよ。そもそも那津が執事、というのは……。うん、よく考えてみたらおかしいじゃない。
高校生の分際で執事ですって?
そもそも執事、とはなによ?夕食のあとに最近の御用達である『Wikipedia』で執事について調べてみた。
そうそう、夕飯の肉じゃがだけど、もうね、ものすんごく美味しかったの! ジャガイモもほくほくで味付けもちょうどよくて。今度詳しいレシピを教えてもらおう。
話を戻して執事のこと。最近言われている『執事』というのは『バトラー』に近いのね。バトラーの項目に書かれていた「主人との関係で許されていたこと」を見て、思わず悲鳴を上げていた。
ノックしなくて入室していいってっ!?
か、仮にも乙女の部屋よっ! 別にやましいことをしているわけではないけど、心臓に悪いからノックしてから入ってよっ!
許されなかったことは結婚と借金か。
昔は身分が違うと結婚できなかったとかあったのよね? じゃあ、主人と執事が恋に落ちる、なんてことは……どうだったんだろう?
そもそも『執事』は男性主人に仕えるのが基本なのか。女性には女中頭がつくのか。ほうほう、勉強になるわ。
……するとだ。ますます那津があたしの執事、というのが訳がわかんない。
そうか。あたしの執事、と思うからおかしいのよ。圭季さんの執事、と思うと……高校生で執事、というのはなんだか納得いかないけど、それなら自然だわ。
なんとなく自分の中で納得できたから安心してお風呂に向かおうとした。
その問題の那津が当たり前のようにノックしないで部屋に入ってきた。
「千代子さま、お風呂の時間でございます」
手にはあたしのお気に入りのバスタオルを持って、那津はあたしに向かって深々とお辞儀をしている。
「ノックくらいしなさいよっ!」
「執事はノックをしなくても入室してよいとなっているのです」
「そんな屁理屈、どうでもいいわっ! あたしの部屋に入る時はノックしなさいよっ!」
思わず鼻息も荒く那津に言い募った。那津は年下とは思えない妙に貫禄のある表情であたしを見て、
「ご命令とあらば」
め、命令!? あたしはその単語に動揺する。
「め、命令じゃないわよ! お願いよ」
命令なんてありえないわよ。あたしはお嬢さまでもなんでもないんだから。
「お願い、でございますか……」
那津はそう言い、少し困ったように眉尻を下げる。その表情が先ほどの貫禄のあった表情と百八十度違って、年齢より下に見えて……なぜかあたしの心臓はどっきん、と一度、はねた。
や、やばい。那津の性格を知っているけど、その表情は萌える。なんだか頭をなでなでしたい衝動にかられる。
ああそうか。捨てられた子犬みたいなこの表情に弱いんだわ。普段の強気な態度がなりを潜め、かまってビームが目から出ていて……。
だけどきっと、これも那津の計算ずくの表情なんだわ。
あたしが
『いいわよ』
と言うまできっとこの表情で見ているのよ。
「い、一応、あたしも年頃の娘だし。ノックして入ってね」
自分で年頃の娘、と言っている時点でどうなのよ、と思うけど、いきなり入室されるのはやっぱり困る! それでもあまり強く言うことができなくて、念を押すようにお願いという形でしか言えなかった。だけど主張したことは褒めてほしいわ。
「どうしてもそこは譲れない、とおっしゃるのですね」
本当に困ったな、という表情でいるものだから負けそうになったけど、ここで負けたら困るのはあたし。あたしは力強くうなずく。
「わかりました。千代子さまのお部屋“だけ”でよろしいのですね?」
なんとなく嫌な予感がしたけど、再度うなずく。
あたしのうなずきを確認して、那津はにたり、そう、まさしくにたり、という擬音語が正しい悪魔のような笑みを浮かべ、
「では、お風呂に参りましょう」
と嬉々としてあたしの腕を引っ張る。激しく嫌な予感がっ!
脱衣所に連れてこられ、那津はあたしの洋服に手をかける。
「ええい、なにするのっ!」
「服を脱ぐお手伝いを」
那津の手を振り払い、前をかき抱く。
「自分で脱げますっ! 今からお風呂に入るんだから、出ていけっ!」
言っても出て行かない那津に切れて背中を押して脱衣所から出す。那津はつまらなそうな顔をして見ていたけど、ばたん、とわざと音を立てて扉を閉めた。
わが家の間取りはあたしの部屋の前にトイレとお風呂がある。トイレとお風呂の間は脱衣所になっていて、その先が洗面所。洗面所の横は洗濯機置き場があり、そこからキッチンに抜けることができるようになっている。キッチンから脱衣所に侵入されても困るので、洗面所と洗濯機置き場の間の引き戸を閉める。ここにはかぎがついてないから、これはもう那津の『大人な対応』に任せるしかない。そして脱衣所と廊下に続く間にある扉に子どもだましのようなかぎがついているんだけど念のためにかけておく。
あれだけ顔がいいのだから、女の子なんていくらでも選り取り見取りのはずなのに、なにを考えているんだか。
頭と身体を洗ってから湯船につかっていると、外にだれかがいる気配がする。
那津だな。そう思うとなかなか湯船から出ることができなかったけど、さすがに限界になり、少しのぼせながら湯船から出る。そっとお風呂場の外をのぞくと、だれもいないようだったので脱衣所に出て、バスタオルを探す。
……ない。
ストックされているタオルを見るとスポーツタオルがあったのでそれで髪の毛と身体を拭く。
普段はバスタオルを身体に巻いて目の前のあたしの部屋に戻ってから着替えていたんだけど、これからは別の方法を考えないといけないようだわ。少し大きめのタオルを探して身体に巻いて脱衣所を出た。
「!」
脱衣所を出ると、廊下で那津が待ち伏せしていた。
「千代子さま、お着替えをおて」
那津がすべてを言う前に鼓膜が破れそうなくらいの悲鳴をあげてやった。
「きゃぁああああっ!!!」
悲鳴を聞きつけた圭季さんが血相を変えて走ってきたことで余計に事態が悪化したような気がしたけど、さすがに那津はやりすぎだと思う。
圭季さんにも結局、年頃の娘としては一番恥ずかしいタオル一枚の恰好を見られてしまったわけだけど……。
パジャマを着て、ダイニングにあたしと那津と圭季さんの三人が集まり、圭季さんは那津に今日のことを説教していた。
「那津、少しやりすぎだろ」
圭季さんにそう言われているけど那津はまったく反省しているように見えなかった。ほんと、那津にも困ったものだわ。
お風呂上りにクッキーを食べようと思っていたのをすっかり忘れ、げんなりして部屋に戻った。
とにかく那津が絡むと疲れる。宿題しなきゃ、と思いつつももうぐったりしてしまい……あたしは結局机に向かうことなくベッドに沈み込んだ。
。.。:+* ゜ ゜゜ *+:。.。:+* ゜ ゜゜ *+
「千代子さま、おはようございます」
耳元で那津の声がする。今日はのしかかる、という暴挙には出てこなかったのね。褒めてつかわそう。
……だれよ、あたし!?
肉体的疲れよりも精神的疲れを感じた次の日の朝の目覚めはとにかく最悪。気持ちでは起きなくては、と思うんだけど、身体が眠りを欲求していてなかなか起きることができない。
「千代子さま、十秒以内に布団から出ないと突っ込みますよ」
そう言うなり那津はカウントダウンをはじめ……っ!?
「十、ゼロ」
をいっ! 間は省略かいっ!?
「千代子さま、予告通り突っ込みます!」
「ぐおりゃあ、またんかいっ!」
突っ込むというけどなにをされるのか分からず、あわててベッドの上に上半身を起こした。
「高校生にもなって数字も数えられないのっ!?」
「わたくしが突っ込もうとしたのにつっこむとは。千代子さま、なかなかやりますね。おはようございます」
那津は美しいお辞儀で朝の挨拶をしてくれた。
「……おはよう」
昨日はできなかったけど、今日のあたしは昨日より少しおとなになったのよ。朝の挨拶くらいはするわ!
しかし。寝起きから那津と突っ込み漫才がしたいわけではない。
「お着替えをおてつ」
「断わるっ!」
あたしの強い言葉に那津はまた困ったように眉尻を下げて見るけど、もうその顔には騙されないわ。
「昨日あれだけ圭季さんから怒られたのに。那津、聞いていたのっ!?」
「わたしく、嫌なことは一晩で忘れることにしていますので、もう忘れました」
としれっと言うものだから、朝からどっと疲れが出る。それでなくても今日はなんとなくけだるい寝起きだったのだから、やめてほしいわ。
「那津、ハウス!」
扉を指さし、外に出るようにジェスチャーした。那津はしょんぼりと肩を落とし、一礼してからとぼとぼと部屋を出て行った。
……犬!?
思わず犬扱いしてしまったけど、よかったのかな?
制服に着替えて時間割を見てげんなりする。今日の三・四時間目は立花センセの家庭科ですか。あーあ、楽しみの家庭科がなんだか苦痛な一時に変えられた感じ。
だけどなんでよりによって家庭科の先生が若い男の人なんだろう?
偏見かもしれないけど、家庭科の先生というとベテランのおばちゃん先生ばかりのような気がする。立花センセ、手が大きかったけどあまり器用そうに見えなかったしなぁ。調理にしても裁縫にしても、できるのかな?
とついつい要らない心配をしてしまった。
キッチンに向かうと、今日はすでに朝ごはんが用意されていた。
「お父さん、おはよう」
あたしの声に父は振り返り、にっこり微笑む。
「おはよう、チョコ。圭季くんとデートの約束を取り付けるとは、なかなか積極的だね」
すっかり忘れていた。父にそう言われ、頬が赤くなるのを自覚した。
そうそう、すっかりジャガイモの皮むきに気を取られて忘れていたけど、水族館デートを約束したんだった。
「待ち合わせに遅れる心配はないけど、圭季くんとはぐれないようにね」
父の言葉にムッとする。
昔、父とふたりで水族館に行って魚に夢中になりすぎてはぐれてしまったのを思い出した。気がついた時は右を見ても左を見てもあんなに大きな父なのに見当たらず、水族館中に響く声で泣きじゃくったのだ。あせってあたしのことを探していた父はあまりにも大きな声だったからすぐに気がつき、見つけてくれた。
「また迷子にならないようにしっかり手をつないでね」
「!」
あの後、父があたしの手をずっと握って離さなかったことを思い出した。だけどあのときはあたしは子どもだったし、相手は父だったから……。
け、圭季さんと手をつなぐ、だなんてっ!?
むむむむ無理無理無理無理!
朝から興奮させるようなことを言うのではない、父よ。
くらくらしながら椅子に座ろうとしたら、那津が当たり前のように椅子を引いてくれたので素直に座る。ふと見ると、キッチンには圭季さんが立っていた。
「お、おはようございます」
父に言われた手をつなぐ、ということを変に意識してしまい、明後日の方向を向いたまま圭季さんに朝の挨拶をした。
「おはよう。昨日はよく眠れた?」
さっき、キッチンに向かう前に髪をとかそうと洗面所に行ったけど、鏡に映った顔は最悪だった。睡眠時間自体は足りているはずなのに、目の下に今まで見たことがないほどのクマができていた。
あらやだ、このクマ牧場。登別に帰ってちょうだい。
目の下のクマをぐりぐりと指で押して洗顔して髪をとかしてからキッチンに向かったのだが。鏡がないから分からないけど、かなりひどいわよね、この状態。
圭季さんはトレイにあたしひとり分の朝食を乗せて持ってきてくれた。
「チョコ、目の下のクマ、ひどいな。……明日の水族館、やめようか?」
圭季さんは体調が悪いと思っているのか、そう提案してきた。とんでもない、とふるふると首を振り、さらに手までつけて否定する。
「だ、大丈夫です!」
これは美容の鬼・朱里さまに聞いてどうすればクマが消えるか教えてもらわねば。
そうよ、明日はデートなのよ!
今更ながら、女の子向けのそういう雑誌を見て勉強しようかな、と思ってしまう。手遅れっていうなっ!
朝ごはんをしっかり食べて、昨日食べられなかったクッキーを食べ、お弁当とマドレーヌを持って学校に向かった。
いつもより早い時間に学校についてしまった。教室に行くと、生徒は半分くらい来ていた。
朝一番で立花センセにマドレーヌ、持って行ってあげようかなぁ。だけどまだ来ていないかもしれないし……。授業が終わった後に届けに行けばいいか。
自分の席に荷物を置き、後から出たはずの那津の荷物が隣の席に置かれていることを知り、驚く。
どうして先に来ているの!? やっぱり双子? 忍者??
ふと見ると、朱里はすでに来ていて、大きな鏡に向かってなにやらやっている。
「朱里、おはよう」
朱里はあたしの方を振り返らず、鏡越しに
「おはよう。チョコ、なにそのひどいクマ」
開口一番でそう指摘された。あたしのこのクマ、そんなにひどい?
「そうなのよ、朱里。なんだか精神的疲れからクマがすごくって。どうしたら消える?」
ようやく朱里はあたしに身体を向け、いきなり立ちあがってあたしの手を包み込む。
「チョコ、とうとうあなたにも恋がやってきたのね」
はい?
「楓くん、すごい積極的よね。一年生なのに先生を説得してチョコの横に来て勉強しているなんて」
はい?
「片時も離れたくないんだ、なんて、キャー!」
そういって朱里はあたしの肩をばんばんと叩いてくる。
あ、いえ。那津とあたし、そういう関係じゃないし。
「違うのよ、朱里」
「いいのよ、照れなくても! 春休みになにがあったのか知らないけど、チョコも水臭いわね!」
いえ、春休み中はなにもありませんってば! こんな恐ろしい状況になったのは新学期始まってからです!
朱里になにを言っても今は駄目なようだったから、あたしはそのあたりのことはスルーして目の下のクマをどうすればいいのか再度聞く。
「とりあえず目の周りをマッサージがいいと思うわ」
そういって朱里はマッサージの仕方を教えてくれた。授業中、隙あらばずっと目の周りをマッサージし続けた。あまりやりすぎてもよくないような気もしたけど、気になって気になって。休憩時間、お手洗いに行ったついでに鏡を見たらまだまともになっていたからほっとした。なんだか恋する乙女みたいだわ、あたしったら。
そうしてとうとう家庭科の時間。今日は実習があるわけではないから教室に待機。授業が始まる前からなんとなく教室の空気がざわついているような気がするのは気のせいかな?
授業開始のチャイムとともに、立花センセは教壇に立った。
今日も相変わらずのぼさぼさ頭によれよれの白衣にワイシャツ。あろうことかワイシャツのすそがズボンからはみ出している。太い黒ぶち眼鏡になんとなくめんどくさそうな空気。……これでいいんですか、みなさん!?
「授業を始めます」
だけどそう発せられた声は意外にもいい声で……。顔さえ見なければ結構いいかも? と思ってしまったあたしは逝ってきた方がよいですか?
「チョコレート頭の隣。おまえは一年生だろう?」
立花センセはあたしの横に座っている那津を指名している。
「先生の許可は取ってあります」
那津の言葉に立花センセはムッとした表情で、
「教室に帰れ」
「嫌です」
なんとなくふたりの間にいやーな空気が流れる。
「先生、授業をすすめてください」
今年も学級委員になった片田さんの声で立花センセは仕方がなさそうに授業を開始した。
立花センセも那津のことなんて放っておけばいいのにことあるごとに「教室に帰れ」と言うものだから、なんだか家庭科の授業は妙な空気のもとで進む。それでなくても疲れ切っているのに、そういうことはやめてほしい。
三時間目と四時間目の間の休憩に入り、げっそりと机に突っ伏した。
なんだか分からないけど、疲れました……。早退したい気分。
「チョコ、控室まで資料を取りに来て」
立花センセは教室を出るときにそう声をかけてきた。
あああ、もうっ! またややこしくなるっ!
席を立つと、那津は当たり前のように後ろからついてくる。
「那津、ついてこなくていいよ」
「千代子さまをあの男と二人っきりにさせるなんて、圭季に顔を合わせられません」
言っている意味が分からない。もうすでに何度か二人っきりになったわよっ!
「あのさ。仮にも先生なんだし、それにあたしは資料を受け取ったらすぐに教室に戻るから! 控室に行ったら那津、また教室に帰れ、と言われるわよ!?」
あたしの強い言葉に那津はしょんぼりと肩を落とし、回れ右をしておとなしく教室へ戻ってくれた。ほんと、困るわ。とは言ったものの、足取りは重く、控室へと向かう。
控室の扉をノックした。中から立花センセが扉を開けてくれて、手にどっさりとプリントを渡された。
「おれが戻るまでにこれを配っておいてくれないか」
「はーい」
「チョコ、それと。昨日お願いしておいたアレだけど……」
立花センセは少し遠慮がちに聞いてくる。
「作ってきましたよ」
立花センセは目をキラキラさせてあたしを見つめる。
「い、いつ持ってきましょうか?」
「お昼前に持ってきてもらっていい?」
分かりました、と一言言ってから控室から離れる。
教室に戻っている途中で那津が待っていて、あたしの手からプリントを取り上げてそのまま戻って行った。教室に入ったら、すでに配り終えていた。はやっ!
「那津、ありがとう」
那津はあたしのお礼の言葉に驚いたように目を見開き、そして次の瞬間、今まで見たことのないようなふんわりとした笑顔で
「千代子さまのためなら、たとえ火の中、水の中」
とお辞儀してきた。どちらも行かなくていいですっ! だけど那津のその笑顔が眩しくて、また胸がキュンとした。どうもあたし、那津のこのかわいい系の笑顔に弱いらしい。
そんなどうでもいいことを分析していたら、四時間目が始まった。
あたしは極力、立花センセの顔を見ないようにして、声だけ聞いていた。顔を見たら負けよ……。
配られたプリントを見ているとパソコンで作った資料のところどころに手書きで文字が書き添えられていて、それが妙に大人の男の文字。黒板に書かれた文字を見ても見た目とは違ってずいぶんと美しい文字を書いている。
見た目がなぁ。実に残念。
いや、残念、って見た目が良かったらどうしたというのよっ!? 相手は先生だよ?
それにあたしには圭季さんという素晴らしい婚約者がいるではないか。もう、浮気者めっ!
……と自分にかわいく突っ込みしてもなぁ。
そんな馬鹿なことを考えているうちに授業が終わった。
立花センセが教室を出て行ったのを確認して、さらに那津が職員室に行くのを確認してからマドレーヌの入った袋を持って家庭科控室に向かった。
控室の扉をノックすると中から声がした。恐る恐る扉を開ける。するとすでに何人かの女の子に取り囲まれていた。おモテになりますこと。ぶっきらぼうに立花センセに袋を渡し、無言で控室を出て行った。
みなさんで今からそこでお昼を食べて優雅におやつですか。うらやましいですこと。
自分がなにに対して怒っているのか分からないまま教室に戻り、お弁当を広げて食べ始めた。
お弁当を半分食べたくらいのタイミングで那津が戻ってきた。
「千代子さま、お友だちとお弁当を食べないのですか?」
ひとりでお弁当を食べているのを不思議に思ったらしい那津はそう声をかけてきた。
女子校に通っておきながらなんだけど、女の子とご飯を食べるのはどうも苦手。みんなちっこいお弁当箱にちょこちょこと手をつけて
「もうお腹いっぱい」
と残すのを見ると腹が立って仕方がない。せっかくの楽しい時間、そんな不愉快な思いをするくらいならひとりで食べたほうが精神衛生上いい。
那津はあたしの机に自分の机をわざわざくっつけて、圭季さん特製のお弁当を広げる。
でかっ!
あたしのお弁当の倍はあるのではないか、というお弁当を広げてそれは見ているこちらが気持ちがいいくらい豪快に食べてくれる。やっぱり男はこれくらい食べないとね!
……あたしの中での那津のポイントをあげてどうするんだ!?
。.。:+* ゜ ゜゜ *+:。.。:+* ゜ ゜゜ *+
午後の授業を受け、帰路に着く。すぐには家に帰りたくなくて、スーパーに寄り道。と言っても、圭季さんと那津が来る前は学校帰りにスーパーに寄って食材調達をするのはあたしの仕事だったので寄り道、というほどのことでもない。今日もまっすぐに家に帰るつもりでいたから、寄り道と言えば寄り道だ。
そうだ、その前に本屋さんに寄ってあたしくらいの子が読むような雑誌を買ってみよう。明日のデート……うわっ!
デート、という単語を改めて考えて真っ赤になる。人生初の大イベントじゃないですかっ!
周りがあまりにも騒々しすぎてすっかりそんなことを考えてなかったけど、あ、明日あたし、なにを着て行こうっ!?
昨日、タオル一枚というとんでもない恰好を見られてしまったからなぁ……。思い出し、あたしの顔はさらに真っ赤になる。
あぁ、もうっ! 那津が絡むとほんと、ろくなことにならないわっ!
本屋に入り、雑誌コーナーに立つ。普段読まないから、どれがなにやらさっぱり分からない。と、そこにあたしの年齢にぴったりな雑誌を発見! 十七歳のあたしにはこれしかないでしょ! うん、これこれ。
雑誌を片手にスーパーへ。学校のかばんと雑誌で重いけど、お菓子の材料を買っておかないと。スーパーの中をうろうろしてお買い物をして家に帰った。家に帰ると、那津は当然、圭季さんも帰ってきていた。
「ただいま」
今までそういって家に入ったことは数えるくらいだったのでなんとなく座りが悪い。
「お帰りなさい」
キッチンに当たり前のように立った圭季さんはにっこりとあたしに笑いかけてくれた。ああ、この笑顔……素敵。
圭季さんの邪魔にならないように隙間をぬって先ほど買ってきたばかりのお菓子の材料を片づける。
昨日のクッキーがまだ残っていたはずだか……ないっ!? 朝にクッキーを片づけた場所を開けて見て、空っぽになっていることに気がつく。
「さっきそのあたりを那津が漁っていたよ」
クッキーがないのはヤツのせいかっ!?
がっかりして荷物を片づけ、自分の部屋に行こうとしたところに那津がやってきた。
「千代子さま、お帰りなさいませ」
整った顔でにっこり笑いかけてきても……口の端にクッキーの食べかすがついてましてよ?
「那津、勝手にクッキーを食べたわね!?」
あたしの怒りに那津は涼しい顔で首をかしげてにっこりと微笑んでいる。だから……クッキーの食べかすがついているからいくらそんなかわいい顔をしても台無しだから! それを指摘するために那津の目の前に立ち、自分の口元を指さし、
「那津、いいものつけてるわよね」
とにっこり笑ってからくるりと回れ右をしてから部屋に向かった。見えないけど気配で那津は少し焦っているようだった。
ふ……勝てた。
どうでもいい勝負に勝てたことに気を良くしたあたしは足取り軽く、自室へと向かう。
制服から部屋着に着替え、昨日忘れていた宿題と今日の宿題をすることにした。
と言ってもそれほど大した量ではない……はず。
先ほど、那津に勝てたことがうれしくて思ったよりはかどった。この調子なら英語の予習もしておこうかな。と思っていたら、部屋の扉がノックされ、那津が現れた。
「千代子さま、お食事の準備ができました」
那津に言われるままに立ちあがり、キッチンへ向かった。テーブルに着くとすでに準備されていていつもながら申し訳ないと思う。
圭季さんだってお仕事で疲れているだろうし、いくら食べてもらうことが幸せ、と言っても大変だろう。夕食を食べながら圭季さんにそのあたりのことを聞いてみる。
「基本的にはおれが作るよ。気にしなくていい。その代わり、おれの帰りが遅い日は作ってもらってもいい?」
「はい、もちろん!」
「おれ、基本的には十七時頃の帰りになると思うんだけど、火曜日は会議があるからその日は作ってもらってもいい?」
あたしはうなずく。火曜日は授業が一時間少ないんだよね。この日は部活もお休みになる。なんでも先生たち全員がそろって会議をする日、らしいから。
ご飯を食べて椅子を立ちあがったら那津が真横に来て、両手を差し出してくる。
……なんの真似? 那津をにらみ、そして手を見る。
「食後のデザート」
……はい?
「クッキー、もうないの?」
ありません!
だけどその那津の表情がものすごく「おねだり」していて……。か、かわいい。ついキュン、としてしまったのは……許して。
「やーだー! チョコちゃんの作ったお菓子がたーべーたーいー」
手を差し出したまま、口をとがらせていやいや、としている姿が恐ろしく年よりも幼く見えて、ついつい那津の頭をなでなでしていた。
那津は最初、その行動にびっくりして目を丸くしていたけど、目を細くしてまるでごろごろとなでてとまとわりついてくる猫のようにまとわりついてきた。犬なのか猫なのかよくわかんないけど、なんだかものすごくかわいい。
「今日はもう作れないから、明日、ね?」
那津の頭をなでなでしながら諭す。那津は不満そうな顔をしていたけど、
「分かった」
と言って那津は少し名残惜しそうな瞳を残して部屋へと戻って行った。
ふぅ、とため息をついてふと圭季さんを見た。
圭季さんはあたしと那津を観察するような瞳で見つめていた。別に悪いことをしているわけではないんだけどその瞳がいたたまれなくて、逃げるように自室へと戻った。
【つづく】