《四話》圭季さんはあたしの彼氏!?
あたしは日直だったので校内に走りこみ、職員室へぜーはーと肩で息をしながら滑り込んだ。
「お、おはようご、ございま……す」
朝の職員室は戦場だ。準備で忙しく動き回る先生たちをぬって担任の机に向かう。
「菊池先生、おはようございます」
菊池先生はにっこり微笑んで日誌を手渡してくれた。
「立花先生とはうまくいきそうですか?」
先ほど遭遇した出来事を話そうと口を開きかけた時、後ろからだれかが来る気配がした。
「おはようございます、菊池先生」
振り向かなくてもだれか分かった。
でたっ! 元凶の立花センセっ!!
「ご心配なく、大丈夫ですよ」
なんであたしの代わりに答えているのよっ! 断るタイミングを逃してしまったじゃない。
立花センセはあたしの背後にいるからどんな表情をしているのかまったく見えないけど、なぜか菊池先生は頬を赤らめている。……菊池先生も病院に行った方がよいかもしれませんよ? 菊池先生の態度にげんなりしながら教室へと向かった。
そして、教室について自分の席にたどり着く前にあたしは床に崩れ落ちた。
「那津……なんであなたがあたしの席にいるの?」
先ほど校門前で見た那津が当たり前のようにあたしの席に座っていた。
「千代子さま、おはようございます」
にっこり笑って椅子から立ち上がり、座るように促す。周りはあたしと那津のやり取りに痛いほどの視線を送ってくる。うぅ、注目を浴びるのは不本意すぎる!
「那津! あなたは一年生で教室はここではないでしょっ!?」
あたしの言葉を聞いているのかいないのか知らないけど、那津は鉄黒色の瞳に笑みを乗せ、微笑む。
「わたくしは千代子さまの執事。常にご一緒するのがつとめ。先生の許可なら取ってありますのでご心配なく」
那津は優雅にお辞儀をして、無理やり椅子に座らせ、隣の席に座る。
そういう問題じゃないわっ!
それよりも先生! そんなわがまま許されていいのですかっ!?
しかも! 今座った隣の席、昨日まで別の人が座っていたわよね!? どうなってるの?
あたしは言いたいことがたくさんあって、だけどうまく言葉にできなくて空気を求めて水面に上がってきている魚のように口をぱくぱくとさせることしかできなかった。
ようやく落ち着いて那津に文句を言おうとしたら。……無情にも始業のベルが鳴り始めてしまった。クラスメイトたちはあたしと那津の動向を気にしつつも席について前を向く。
しばらくして、苦手な数学教師が教室に入ってきて、授業が始まった。
昨日、しっかり寝たはずなのに、授業を聞いていると睡眠の効果のある呪文でも聞いているのではないか、というくらい眠気が……。黒板に書かれた文字を追いながら、ノートを取っているにも関わらず、舟を漕ぎ始めてしまった。
ぷにっ、と頬に固い感触を感じてびっくりして目を覚ました。
「千代子さま、起きてください」
うぅ、なによ……。じろり、と頬をつつかれている側に視線をやり、にらむ。
「教科書の四ページの練習問題を解いてください」
はっとして周りを見ると、みんななにやら必死になって解いているようだ。びっくりして教科書を開きなおし、四ページを見る。
……うん、わかんない。あわてて黒板に書かれた文字をノートに書き写し、四ページを見る。とりあえず見よう見まねで解いてよし、と思って正面を向くと那津が一言。
「千代子さま、間違ってます」
……うっさい! 一年生の分際でこれが正解かどうかどうしてわかるんだっ!?
「これはここをこうしてですね……」
那津はあたしのノートに容赦なくなにか書きこんでいく。那津の書いている文字をぼんやり見ていたけど、ものすごく分かりやすくて驚いた。
「じゃあ、こっちのこの問題は……」
ノートにもう一問の数式を写し取り、計算していく。
「そうです」
那津はあたしが導き出した回答を見て、にっこりと笑った。屈託のないその笑顔に心はきゅん、とときめいてしまった。
……どうしてそこでときめくっ!? そのときめきを悟られないようにしかめっ面をして前を向いた。
那津はあたしの横の席に戻り、なにかを広げてノートに書き込みを始めてしまった。
ど、どうして那津の笑顔にときめかないといけないのよっ!? この人のことだから、またなにかたくらんでいるに違いない。自分にそう言い聞かせてもう一度、問題を見直した。
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こんな調子で那津はずっとあたしの横で授業を受けていた。……こら、一年生っ!
ようやくお昼になり、那津はあたしのためにお弁当を用意してくれた。
「それくらい自分でできるから……」
なんでも先回りしてされるから、正直、疲れる。
「千代子さま、今からわたくしは職員室に提出物を持っていきますので、少しいい子にして待っていてくださいね」
那津はあたしを思いっきり子ども扱いして、ノート四冊を持って教室から出て行った。
……なんなのよ。
ため息をつき、お弁当を食べようとしたその時。ずっと好奇の目で見つめていたクラスメイトたちがあたしを取り囲んだ。
「チョコ、今のはだれよっ!?」
「あの人、入学式で新入生代表挨拶していた人じゃない」
「ということは一年生よね? なんでここにいるの?」
「あたしが聞きたいわよ……」
ため息をつき、お弁当に箸をのばす。
圭季さんが作ってくれたお弁当。栄養バランスが取れている理想的なおかずに驚く。あたしがお弁当を作るとついついめんどくさがって冷凍食品ばかり入れてしまうんだけど、圭季さんのお弁当はすべて手作りっぽい。すごすぎる。
だけど未来のだんなさまがこれだけ料理が上手だと、あたしの肩身はかなり狭いわ……。なんたってあたしはお菓子はまともに作れるけど、料理はいまいち得意ではない。
そうか。圭季さんに教えてもらえばいいのか。
父の目的? である「相手を知る」というきっかけを作るには最高の手段だと思うわ。
あたしは日中はこうして学校だし、圭季さんもなにかお仕事をしているみたいだし、そうとでもしないと相手を知るチャンスなんてないものね。
周りに人がいて那津のことを聞きたがっているのをすっかり忘れて自分の世界に浸りきっていた。
「チョコはいるかー?」
せっかく心穏やかにお昼を楽しんでいたのに、その聞きたくない声で現実に戻された。
「立花先生!」
教室内に黄色い声が飛ぶ。
げんなりして、一番最後に取っていた甘い煮豆を口に入れ、もぐもぐとゆっくりとかみしめ、ごちそうさま、と手を合わせてお弁当を片づけてから立ちあがった。立花センセがあたしの名前を呼んでからゆうに三分は経っていたと思う。
「なんでしょうか」
あたしの不機嫌な表情とさらに待たされたということに対してなにも感じていないのか、立花センセはにこやかな笑顔を向ける。
「手伝ってほしいんだ」
あたしは今日、日直の仕事もあるんですけど!? あたしはそう口を開こうとしたら、
「立花先生、わたしが手伝ってあげる!」
とどこから現れたのか、朝、校門の前でファンクラブリーダーと名乗ったツインテールの女が立花センセの後ろから抱きついていた。
お嬢さん、仮にも先生です。抱きつくのはやめておいた方がよいかと思います。
「おっと。きみはどこのクラスの子かな? 先生にむやみやたらに抱きつくのはよろしくないよ?」
そう言って立花センセはファンクラブリーダーをひきはがし、それでもすがりつこうとするのを阻止しながらあたしの元まで歩いてきた。
「とりあえず来い」
あたしのことなんてお構いなしに腕をつかみ、ずかずかと歩き出した。
ちょっと!! 日直の仕事!
立花センセは器用にツインテール女をかわしながらあたしをずるずると引きずるように家庭科室まで連れてきた。
「おまえはいつまでついてくるんだ? 手伝いはひとりで充分。このチョコレート頭だけでいい」
立花センセはあたしを教師控室に投げ込み、自分もすぐに中に入ってドアを閉め、あろうことか鍵を掛けやがった!?
か、かぎっ!?
「せ、センセ?」
身の危険を感じて後ずさりした。ここはとても狭い控室。逃げる場所などどこにもない。
「よし、邪魔ものがいなくなった」
今日も相変わらずのぼさぼさ頭に太い黒フレームの大きな眼鏡。その笑顔は邪悪そのものだ。あたし、ここでなにされちゃうんだろう……? ま、まさか……! ここで食べられちゃうっ!?
「た、立花センセ、あたし、教室に帰りますっ!」
あたしの声は相当裏返っていたと思う。
自分でも恥ずかしいくらいの声だったのに、立花センセは思いっきり真剣な表情であたしを見ている。
「チョコ、相談があるんだ」
次の瞬間、控室の扉がどんどんと叩かれた。立花センセは舌打ちをして、かぎを開けて外を見る。隙間から外をうかがい見る。まだツインテール女は外にいたようだ。ものすごい執念だわ。このセンセのどこがいいんだろう……?
「おまえな……。しつこいぞ。おれはしつこい奴は嫌いなんだ」
立花センセのその言葉が功をなしたのか、ツインテール女はしょんぼりと肩を落としてとぼとぼと去っていくのが見えた。ちょっとかわいそう。
立花センセはほっとしたように息を吐き、今度はかぎをかけないで扉を閉めた。
「相談というか、お願いだ」
はい? さっきあたしには「手伝ってほしい」とおっしゃってましたが? そう指摘すると、
「先生が生徒にお願いがあるからこい、とはさすがにあれだけの人数の前では言えないだろう」
そうですね、先生としての対面ってものがありますものね。
「おれはどうでもいいんだ。チョコがそう言われたら、好奇の目にさらされるだろう?」
いえ、すでにさらされていますから、ご心配なく。
「ツインテールの彼女にあんな態度をとった時点でアウトだと思いますけど?」
立花センセ相手だとどうしても冷たくなってしまうのは、あまりかかわってほしくないから。
ほんと、今日は朝から立花センセがらみでろくなことがない。新学期が始まるまでの穏やかな日々をあたしは返してほしかった。あたしがなにしたっていうのよっ!?
涙ぐんでいるあたしを見て、立花センセは少しため息をついて近寄ってきた。びくっと自分の身体を抱きしめ、壁際に寄った。
「……そんなに嫌がらなくても」
「つ、つい……。条件反射的に」
腕をのばせば届くか届かないかの距離で立花センセは立ち止まった。
「昨日もらったマドレーヌが美味しくて忘れられなくて……また作ってきてくれないか?」
立花センセの唐突の『お願い』に疑問符をつけたまま、見上げた。黒ぶち眼鏡の奥に思ったよりもやさしい光を宿した瞳があって……あたしの心臓はなぜかどきん、とひとつ大きく脈打った。……いやだ、こんなダサいセンセにあたしったらなに胸をときめかせているのっ!?
「マ、マドレーヌがいいんですか?」
「うん。とりあえず。もう少し食べてみたいな、と思って」
そう言って子どもっぽく笑う立花センセの笑顔がかわいくて……あたしの意思なんて関係なく、心臓がドキドキと早鐘を打ち鳴らしている。えええいっ、あたしの心臓、静かになれ! ……あ、でも止まったらだめよっ!
口から心臓が出そうなくらいの勢いなのを悟られないように大きく息を吸って、
「分かりました。明日、持ってきます」
あたしの言葉に立花センセはこれが破顔、というんだというくらいにっこりと笑われ、心臓が止まりそうなくらい胸がドキドキとしていた。
し、死ぬ……。
「楽しみにしているよ」
そう言って立花センセはあたしの錆色の髪をぽんぽん、となでた。
ひいいいい、さ、触らないでっ!! 頭を抱えてしゃがみこみ、逃げるように扉に向かって
「そ、それではし、失礼しますっ!」
と半ば叫ぶようにして控室を飛び出した。
え、笑顔だけでも凶器なのに、あのなでるのは……心臓が確実に止まるっ!
昨日も思ったけど、丸いマドレーヌが手のひらにすっぽりおさまる大きな手。あたしの頭をなでた手が思ったより大きくて……思い出しただけでもカーッと頭に血が上って鼻血が出そうだった。
乙女の貴重な血液をなんてことで出させるのよっ! それでなくても毎月出てるというのにっ!
半ば走るようにして教室に戻り、自分の席に戻ろうとしてその横に那津が当たり前のように席についてお弁当を食べているのを見て、脱力した。
……そうだった……。教室に戻ってもこいつがいたんだった……。
あ、あたしに安らぎの場をぷりーず!
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午後の授業も那津の的確なつっこみ(?)を受けつつ、那津はあたしの横でなにか調べ物をしながらノートに書き込んでいたりしてそれが気になりつつもとりあえずどうにか授業を終え、ホームルームが終わると同時に教室を飛び出し、職員室に日誌を出してから家へダッシュで帰った。
「お帰りなさいませ、千代子さま」
ぐあっ! な、なんでもう那津が帰っているわけっ!?
きみたち実は双子とか? それともテレポートできるの? 宇宙人??
あたしの驚く顔を見て那津は、
「予想通り、驚いてくれた」
と笑っている。
きいい、くやしいっ! 年下の分際でっ!
「あたし、今からお菓子作るからっ! 邪魔しないでね!」
部屋に戻って着替えてキッチンに向かう。
とりあえず立花センセにあんな笑顔でお願いされちゃったから……その笑顔を思い出して少し赤面した。
「千代子さま、思い出し笑いですか? ……やらしいですね」
う、うっさいわっ! 赤くなってる頬を押さえてわれながら迫力ないな、と思いつつも那津を睨みつける。
エプロンをつけ、必要な材料を準備する。ついでだからクッキーも作っちゃえ。あー、お菓子を作っている時間が一番の安らぎかも……。
マドレーヌの生地を寝かせている間にあたしはクッキー生地を作る。こちらも少し寝かさないといけないのよね。
クッキーの生地ができたタイミングでマドレーヌ生地を冷蔵庫から取り出し、カップに入れてオーブンで焼き始める。しばらくして、オーブンからはあまーいにおいが漂い始めた。
……お腹すいたかも。
あ。そこで今日の夕飯を作らなくてはならないことを思い出した。あわてて冷蔵庫の中をのぞく。昨日と朝ご飯は圭季さんにお任せしていたから、食材はなにが残っているのか分からない。
「夕飯は圭季が仕事から帰ってから作ると言っていたぞ」
冷蔵庫を開けてごそごそしているのを見て、那津がそう言ってきた。
那津の性格がいまいち把握できてないのですが……。今のしゃべり方はきっと素の状態、だよね?
「圭季さんの帰りって、遅いでしょう? 仕事をして帰ってきた人に作らせるのは悪いよ」
「チョコちゃん、作れるの?」
にやにやした顔で那津がそう聞いてくる。
「つ、作れるわよっ、失礼ね!」
今まで父がいない時は料理をしてきたんだから! ……圭季さんほど美味しいものは作れないけど。あー、そういえば圭季さんに作り方を教えてもらおうと思っていたのに。
そうだよねぇ、普通に働いていたらこんなに早く帰ってこれないよね。
そう思っていたら、玄関が開く音が聞こえた。驚いて、玄関まで向かった。
「ただいま」
そこには、スーツを着た圭季さんが手にエコバッグを持って帰ってきた。
エ、エコバッグっ!?
「お、おかえりなさ……」
あたしがすべてを言う前に那津が圭季さんの持っていたエコバッグを奪うようにして受け取り、その足で冷蔵庫へと向かっていた。
「ずいぶんと帰りが早いんですね」
時計を見ると、十七時過ぎだった。
「ああ。おれ、橘製菓にはまだ勤務していないんだ。別のところで修業中……」
そういえばそんなことをちらりと言っていたような気がする。どこに勤務しているのか聞きたかったけど、圭季さんはさっさと部屋に向かったのでタイミングを逃してしまった。圭季さんの勤務先を知ったところであたし、どうするのよ。
キッチンに戻るとマドレーヌはすっかり焼けているようであたしはオーブンから取り出した。マドレーヌを鉄板からおろして網の上で冷まし、冷蔵庫に寝かせておいたクッキーの生地を取り出してオーブン用シートを敷いた上にタネを乗せていく。少しまだ鉄板が熱いけど、いいや。
今日のクッキーはハードタイプではなくソフトクッキー。ハードタイプのクッキーも好きだけど、片抜きしたり生地を寝かせる時間が長かったりでこういう日には向かないのよね。
着替えを済ませた圭季さんがキッチンにやってきた。
「お、なに作ってるの?」
「マドレーヌとクッキーです」
圭季さんはキッチンを覗き込んできて、マドレーヌに手を伸ばしてきた。
「だめです!」
ぱちん、と圭季さんの手をたたいた。
「なんでだよ。おれのために焼いたんじゃないのか?」
そう言われて、気がついた。どうでもいい立花センセのために作って、肝心な圭季さんのものがないじゃない。
「あの……今焼いているクッキーでいいですか? これ、頼まれて焼いたものなのであげられないんです」
圭季さんは少し驚いたように大きな目をさらに見開き、ふんわりと微笑む。
「ありがとう。焼けるのを待つよ」
圭季さんはやかんに水を入れ、コンロに掛ける。そうしてどこから調達してきたのか、棚から紅茶の葉を取り出してお茶を入れる準備を始めた。
「あ、那津ありがとう」
那津が圭季さんから受け取った袋から冷蔵庫にしまっているのが視界の端にうつっていた。
クッキーの甘い香りと紅茶の豊潤な香りがキッチンに広がる。
あー、幸せ……。
圭季さんはティカップに紅茶を三人分注ぎ、テーブルに持っていく。
この香りは……ダージリンティかなぁ? クッキーの味を邪魔しないからいいかも。
オーブンのアラームが鳴り、焼きあがりを伝える。いそいそとオーブンを開ける。
この開ける瞬間が一番好きだ。どんな風に焼け上がってるかな。
扉を開けるとむわっと熱気が顔を襲う。少し顔をしかめ、その熱気をよける。そして厚手の鍋つかみを手にして、鉄板を取り出す。
後ろから圭季さんが覗き込んでいるのが分かった。
「お、美味しそう」
今日のクッキーはチョコチップクッキーにしてみた。鉄板が熱いままだったから焦げてないか心配だったけど、大丈夫だったみたい。熱々のクッキーをオーブンシートからはがしてお皿に乗せる。だれかの手が伸びてきたのでぱしっ、と叩いた。
「いてっ」
どうやら那津の手だったようだ。
「こらっ! 今から食べるのになにしてるのっ!」
那津はわざとらしく叩かれた手をさすっている。
んもう。
鉄板をオーブンに戻し、小皿を三枚取り出してそれにクッキーを一枚ずつ乗せてテーブルに持って行った。そして紅茶の横にそれぞれを置く。それを見て、那津が不満の声を上げる。
「一枚だけ?」
「そうよ。今から夕食なのに、クッキーでお腹いっぱいにしたらいけないでしょ?」
那津は不満そうに唇をとがらせる。
「ご飯のあとにまた食べればいいじゃない」
椅子を引こうしたら、那津が横から来て、椅子を引いて座るように促してきた。そして那津は当たり前のようにあたしの真横に椅子を持ってきて、座る。那津はあたしのクッキーのお皿に手を伸ばして取り、お皿に乗っているクッキーをつまんで
「千代子さま、はい、あーん」
と言ってくるではないか。
「なにするのよっ! ひとりで食べられます!」
と言っても聞き入れてくれず、あたしの口の前にクッキーを持ってくるから仕方がなく口を開けようとしたら、そのまま腕を返してこともあろうか、あたしのクッキーを那津は口に入れた。
「あーーーーっ!」
那津はさくり、といい音をさせてクッキーを食べている。
あたしのクッキー! 悔しくて立ち上がり、那津の紅茶の横に置かれているクッキーを取ろうとした。が、あたしの考えなんてお見通しらしく、那津はクッキーだけひょいと取り上げ、手が届かないところに置いた。
なに、この子どもっ!?
ふと圭季さんを見ると、あたしたちのやり取りを面白そうににこにこ笑って見ながら優雅に紅茶とクッキーを食べている。
「クッキー、美味しいね」
圭季さんは赤墨色の瞳に幸せそうな光を宿してクッキーを大切そうに食べている。
一方の那津は、あたしから奪ったクッキーのみならず、自分用のクッキーも一口で食べてしまったようで、美味しそうにもぐもぐと口を動かしている。
もー! あたしのクッキー!
新たにクッキーをここに持ってきたところでまた那津に食べられるかも、と考えて夕食の後まで我慢しよう、と思い、圭季さんが入れてくれた紅茶で我慢することにした。
ダージリンの澄んだ味が口の中に広がり、豊潤な香りが鼻を抜ける。
おおお、これは……!クッキーのお供にするには惜しい味だ。むしろ紅茶単体で味わいたい。
ダージリンってどこか草っぽいにおいと言うか雑味を感じることが多いけど、これは美味しい。だけど取り立てて変わった入れ方をしていたわけではなさそうだけど……? なにが違うんだろう? 水も普通に水道水から沸かしていたしなぁ。
圭季さんから教わることはたくさんあるな。
「圭季さん、夕飯のお手伝い、あたしもします。料理を教えてほしいですし」
あたしの申し出に圭季さんは最初びっくりしたように目を丸くして、そして次の瞬間、ものすごくうれしそうに目を細め、口角をあげてにっこり笑った。
その笑顔が少年のようで、あたしの心臓はどきどきと音を立てて早鐘を打ち始めた。な、なんだか今日はドキドキさせられっぱなしなんだけど。こんなにドキドキしていたら寿命が縮まりそうだわ、あたし。
「厳しい先生だけど、ついてこられる?」
いたずら坊主のようなその笑みに、あたしの心臓はますますドキドキする。
「は、はいっ!」
同じ先生でも立花センセとは違うわ。
……だから、なんでここで比較対象として立花センセがでてくるわけっ!?確かにあの学校で若い男の先生と言われたら立花センセしかいないような気がするけど!
……ああ、だからあんなダサいセンセでもファンクラブなんてできるのか。なんでファンクラブなんてできたのかと悩んでいた回答を得ることができて、ひとつすっきりした。そっかー、若い男の先生がいないからか。
もともと女子校だったわけだし、若い男の先生がいなくても仕方がないよね。
たまに聞く他校の若い男の先生と生徒の過ちを思い出し、今日のお昼、密室にふたりきりになったことに……ぞっとした。
あ、ありえないっ! あたし身体はぶるり、と震えた。
「チョコ?」
あたしの様子がおかしいことに圭季さんは気がついてくれたらしい。
「あ、いえ。なんでもないです」
紅茶を飲み干し、キッチンにカップを持っていこうと立ち上がったら、先読みした那津があたしの使っていたカップと自分のと圭季さんのと合わせてトレイに乗せて持って行ってくれた。気が利きすぎるのも困りものだわ。
圭季さんは椅子から立ち上がり、キッチンへ移動した。あたしも椅子から立って圭季さんの後へと続く。
「オレ、宿題してきます」
那津はそう言って部屋へ戻って行った。
キッチンに圭季さんと二人きりになり、なんとなく気まずい。
「きょ、今日はなにを作る予定なんですか?」
変に意識するから気まずく思うのよ、自然に、自然に。自分にそう言い聞かせるけど、そう思えば思うほど、ぎこちなくなる。
「肉じゃがでも作ろうかと」
肉じゃが!
彼氏が食べたい手料理ナンバーワンの肉じゃが!
……ん? 彼氏が食べたい!? 彼氏?
け、圭季さんて、あたしの彼氏、ということでいいんだろうか? 婚約者、ということは……そういうこと、よね?
え、や、ちょっと待って!
えーっと。か、彼氏ぃ!?
今更ながらそのことに思い当たり、頭に血が上ってきた。
「け、圭季さん。あの」
あたしの切羽詰まった表情に圭季さんは驚いた表情でこちらを見ている。
「あの。ひとつ……聞いていいですか?」
「ひとつと言わずにいくらでも」
赤墨色の瞳に優しい光をたたえてにっこりとあたしのことを見つめている。那津とは違うとろける表情に心臓はドキドキする。
「あのっ。圭季さんは……あたしの彼氏、でいいんですよね?」
あまりにも間抜けな質問に圭季さんは笑うかと思っていたけど、笑ってはいたけどそれは馬鹿にした笑いではなくてむしろものすごくうれしそうな笑い方だった。大きな目が分からなくなるくらい目を細めてとてもうれしそうに笑うから、その笑顔があまりにも魅力的で恥ずかしくなって目をそらそうとしてしまった。すると圭季さんは大きな温かな手であたしの左頬を包み込み、視線を合わされた。
「おれはチョコのこと、将来のお嫁さんと思ってるんだけどね。だけどチョコはまだ、戸惑ってるだろうから。そんな中でチョコがおれのことを彼氏と認めてくれるのなら、ものすごくうれしい」
まっすぐな視線でそう告げられ、あたしの頬は紅潮する。こんな素敵な人が、あたしの彼氏、で本当にいいの?
「土曜日にデートしようか」
圭季さんに唐突にそう言われて、頭に血が上る。
で、でぇと!?
「どこがいいかなぁ? 遊園地? 水族館? 動物園? 映画?」
デートの定番コースをあげられて、答えに困る。
「水族館に行って、その下でお菓子博をやっているから、そのコースでいいかな?」
圭季さんはそう提案してきた。あたしは行きたかったお菓子博の話を出されて、力強くうなずいてしまった。
「じゃあ、決定だね」
そういって圭季さんはあたしの左頬にあてていた手を離して頭をくしゃり、となでた。
「ご飯を作ろうか」
圭季さんはあたしにジャガイモを手渡してきた。
「皮をむいてくれる?」
あわててエプロンをつけて、ジャガイモを受け取った。
【つづく】