《三話》立花センセ、ファンクラブ!?
「千代子さま、お食事の時間でございます」
少し遠慮がちな声と手に、目が覚めた。目を開けると、薄暗くて寝ている間に夜になってしまったことを知った。
それよりも……。このテノールの声、だれだっけ? 寝ぼけた脳みそで布団の中でまだまどろみながら考える。
「チョコちゃん、起きないの? 襲っちゃうよ」
その言葉と同時に、あたしの上になにかがのしかかってきた。
「!?」
薄暗闇の中、人のシルエットが目の前に浮かびあがり、ものすごくあせった。
「な、なにするのよっ!」
目の前になぜかナッツさんの整った顔があり、心臓が口から飛びでそうになった。
「なかなか起きないから、襲っちゃおうかなぁ、と」
そうしてナッツさんはあたしの身体の左右に手を置き、その腕で身体を支えた状態で見下ろしていた。
「寝顔もかわいいけど、寝起きのちょっとボーっとした顔もかわいい」
にっこりと微笑まれ、頬が赤くなるのが分かった。
「照れてる。やっぱりからかうと楽しいなぁ」
先ほどのセリフはからかいのために言われたものだと気がつき、ムッとして布団の中からナッツさんの身体をぐい、と押し上げる。
「ナッツさん! 起きますから布団から降りてくださいっ!」
ナッツさんは素直に布団から降りてくれた。こういうところは意外に素直なのよね、この人。そんなことを考えながら身体を起こし、ベッドから降りる。
「夕ご飯、出来てますよ。冷めないうちに食べましょう」
チョコレートがとろけそうな笑みを向けられた。だいぶ耐性がついてきたようで、これくらいなら頬が赤くなる、ということはなくなってきた。なんだかこの人、二重どころか三重人格っぽいのよねぇ。短い付き合いだけどなんとなくそれは分かってきた。
足を踏み出したのを見て、ナッツさんは前を歩いて部屋のドアを開けてくれる。廊下に出ると、電気がついていて少し眩しくて目を細める。
キッチンに向かうと、橘さんが立ってなにかを味見しているようだった。
「よし、完璧だ。あ、おはよう。よく寝ていたみたいだね」
大きな瞳を少し細め、橘さんは笑顔を向けてくれた。
「すみません。甘えて眠っちゃって」
お手伝いをしようと橘さんのいるところに向かおうとしたら、ナッツさんに腕を掴まれた。
「千代子さまはこちらへ」
椅子を引かれて、座るように促される。座らないとなにかしてきそうな目をしていたので、お客さんに昼食のみならず夕食まで作らせてしまったことに罪悪感を覚えつつも椅子に座る。
目の前のテーブルにはすでにほとんどの料理が出揃っているようだった。
サラダに焼き魚、小鉢が何品か。
「あのっ、お客さんにご飯を作らせるのは」
そこまで言ったあたしの言葉に橘さんは目を丸くして、
「チョコは本当に雅史さんからなにも聞いてないんだ」
面白そうな表情であたしを見ている。
そういえば、お昼寝前にもそんなことを言っていたような気がするけど……。
「さっぱりなんのことか見えてこないのですけど?」
橘さんは笑みを浮かべたままご飯と汁物を装ってお盆に乗せてテーブルまで持ってきた。
「まあ、そのうち分かるよ」
楽しそうな響きを乗せて、橘さんは目の前にご飯とおみそ汁の入った器を置いてくれた。
「じゃあ、食べようか」
橘さんの笑みを合図に、あたしたちはご飯を口にした。
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ご飯もしっかり食べて、お風呂に入っても橘さんとナッツさんのふたりは帰っていく気配がまったくなかった。それどころか、あろうことかふたりともお風呂に入ってくつろいでいるではないか。
「おふたりは……家に帰らなくていいんですか?」
どこから出してきたのか、ふたりともパジャマに着替えてリビングのソファでくつろいでいる。
「本当に知らないんだ」
橘さんは少し気の毒そうな表情であたしを見ている。ナッツさんはくすくすと笑っている。ふたりのその様子が面白くなくて、思いっきりしかめっ面をした。
「あたし、隠し事、嫌いなんです。はっきり教えてください」
橘さんは目をまん丸くしてあたしを見て、ふっと肩の力を抜いて微笑んだ。
「からかって悪かった。気分を害したようだったら申し訳ない」
そうしてあたしに向かって頭を下げた。そこまでしてほしくて発した言葉ではなかったので、ものすごくあせる。
「や、いや。た、橘さんっ! そこまで気にしていませんから!」
あわてて橘さんに向かって頭を上げるように言った。ちらり、と橘さんはあたしを見て、
「チョコ、結婚したらきみも『橘』という姓になるのに未来のだんなさまを名字で呼ぶのはどうかと思うんだが」
け、結婚っ? 未来のだんなさまっ!?
さらりととんでもないことを言われ、顔は熟したトマトより真っ赤になってしまった。婚約者、という言葉は確かにそういう意味のものなんだけど……。
日常的に男の子と言葉を交わすことがない、と言い切っていいくらいの状況のあたしには刺激が強すぎた。
「で、では、下の名前でお呼びすればよろしいのでしょうか……?」
「ケイでもケーキでも圭季さまでも好きなようにどうぞ」
赤墨色の瞳を細めてにっこりと微笑まれ、あたしの顔は完熟トマトを通り越してなんだか変な色になっているのではないか、というくらい顔に熱を持っていた。
とりあえず圭季さま、はあり得ないわよね。そうしたら……チョコにケーキ。なんだかお腹が空きそうだわ。
よし、圭季さん、と呼ぶことにしよう。心の中でそう決めた時、圭季さんはさらに頬を緩めて、
「チョコがどう思っているのかはともかく、おれはチョコだからこそこの婚約話に乗ったんだ」
意味が分からなくて首をかしげた。
あたしだから? 聞き返そうとした時、圭季さんは赤墨色の瞳を細めてあたしを見ながら、
「改めて自己紹介をしようか?」
と聞かれた。圭季さんのことは名前しか知らなかったので、素直にこくり、とうなずいた。
「名前は橘圭季。雅史さんが勤めている『橘製菓』の世間的に言えば御曹司になる」
そこまで言って、圭季さんは大きくため息をつく。
今の圭季さんの言葉に少し疑問を抱く。世間的には? 実際は違うの?
「……まあ、違わないか」
自分の言葉に苦笑しているようだった。
「あの、ところで……」
聞いていいのかどうか悩んだけど、ここで聞いておかないとと思い、意を決して口を開く。
「なんであたしだったんですか……?」
あたしは早生まれということもあり、十七になったばかり。結婚可能年齢ではあるけど、それは法律上では可能なだけで、結婚したいなんて思ってもいない。ましてや、どちらかというと男の子が苦手、なのである。
圭季さんやナッツさんを見てかっこいいと思うし確かに胸がドキドキとはするけど、それは慣れていないだけでそこに『恋愛感情』なるものがあるか、と聞かれると、たぶんない。
一方の圭季さんは、明らかにあたしより年上。しかも橘製菓の跡取りっぽい。そんな人があたしの婚約者、だなんてナッツさんが執事、というのと同じくらい……ううん、それ以上、なんの冗談かと聞きたくなる。
圭季さんは『あたしだから』と言っていた。圭季さんともなれば、あたしなんかではなくてもっとずっとすごい人を選び放題のはずなのに。
「そうだね……。おれはチョコの作るお菓子に惚れたんだよ」
圭季さんの言葉に、どきり、と心臓が高鳴った。
だけど。あたし自身ではなくて、あたしが作ったお菓子に惚れた、のか。というがっかり感もあった。『あたしだから』というから……圭季さんの中にあたしに対する感情がなにかあったのか、と期待してしまっていたから。あたしの中でドキドキとした気持ちとずきずきとした痛みが同居していた。
そう、よね。こんな恋愛の「れ」の字も知らないような小娘に圭季さんが惚れるだとか、ありえないわよね。あたしはなにを期待していたんだろう。
「あはは。……え? お菓子?」
圭季さんはいつ、あたしが作ったお菓子を口にしたんだろう?
父が会社にお菓子を持っていく、ということは有り得ないから……。
「あたしのお菓子、いつ食べたんですか?」
あたしの疑問に圭季さんの表情が明らかに変わった。
「え、あ。うん」
圭季さんは困ったように頭をポリポリとかき、目線を宙に漂わせている。……言えないようなこと、なの?
「あーえと。いや、実はまだ食べたことないんだけど、雅史さんの話を聞いているとお菓子作りの姿勢というか……」
しどろもどろ、という感じだったけど、その説明がしっくりきたのであたしはそれ以上、追求することはやめておいた。
それよりもお父さま。会社で娘の話をしないでくださいっ!
先ほどあんなに『自分ではなくてあたしの作ったお菓子に惚れたのか』とがっかりしていたのに、圭季さんの言葉にすっかり舞い上がってしまったあたし。
お菓子が大好きな父に育てられたあたしは、お菓子作りに関してはかなりのこだわりをもって作っている。無塩バターで作らないといけないところを普通のバターで作ったり、ということはたまーにするけど、最近、塩スイーツが流行りだからいいのよ! と思って作ったら、思ったよりも美味しくできた。『けがの功名』だったのよっ!
「あ……」
あたしはふと、思い出してしまった。今日、クッキーを焼こうと思っていたのに!
壁にかかっている時計を見ると、すでに二十二時を過ぎていた。今から作るには遅すぎる。諦めることにした。
「二十二時過ぎてますけど、おふたりとも早く帰ってくださいね」
圭季さんとナッツさんは顔を見合わせる。そして、圭季さんはおもむろに口を開いた。
「今日からおれたちの家、ここになったんだ」
はい?
聞き間違いかと思って、聞きなおした。
「圭季さんのおうちって、どちらなんですか?」
「おれと那津、今日からここに住むことになったんだよ」
「はい?」
意味がわかりませんが。
「雅史さーん、どうしてあの人はいつも肝心なことを言わないのかなぁ」
圭季さんが頭を抱えて父に向かって恨み事をつぶやいている。
圭季さん、分かるわ。その言葉、激しくよくわかる。
父は昔からわざとなのか天然なのか、肝心なこと「だけ」言わない、という特技(?)を持っている。意図的にあれをしているのならかなりの悪魔なんだけど、大切なことや肝心なことになればなるほど、言い忘れる、らしい。
「本当に雅史さんはおれとチョコのこと、話してないのか」
ええ、さっぱり。
いまだにこんないい男が自分の婚約者、と言われてもなんの冗談かとしか思えていませんが。
エイプリルフールは終わったばかりだから、どうやらその類ではないらしい、ということしか分からない。朝起きたらこの話はなかった、となりそうなくらい、あたしにとっては青天の霹靂(へきれき)状態。
「この婚約話、そもそもがおれの父と雅史さんの間で最初、口約束で決められたことだったらしい」
橘製菓の現社長である橘和明(たちばな かずあき)さんと父は幼なじみ、らしい。だからと言って便宜をはかってもらってここに就職しただとか部長になっただとかはないみたいだけど。それよりも父はかなりの天然なので、就職して初めて幼なじみの和明さんが橘製菓の跡取り(当時)、ということを知ったらしい。
『和明からよくお菓子をもらっていたんだけど、言われて納得したよ』
……どれだけ天然なんですか、お父さま。
製菓会社に就職したらもっとお菓子が食べ放題! と思って橘製菓に就職することにした、という話を聞いた時は……さすがわが父、と思った。和明さんからもらっていたお菓子も相当量あったらしいのに、さらにほしい、ってどれだけお菓子が大好きなんだか。
「雅史さんが結婚するとき、父が冗談で『女の子だったら嫁にもらう』と言っていたらしいんだ」
あの父のことだ、それを本気にしていたな。
「チョコが十六になった時に雅史さんから父に打診したらしい。『娘も無事に十六になった。あの約束はどうする?』とね」
一年以上前の話なのね。そんな話、本当にさっぱり知りません。
「父にこの話をされた時、おれは正直、驚いたよ」
そうでしょうね。あたしも驚きで言葉もでませんもの、いまだに。
「一年前はまだおれ、学生だったから……この話はそのまま保留になっていた」
……学生?今、さらりと重要なことをおっしゃいました?
「え。圭季さん……おいくつなんですか?」
「三月に大学を卒業したばかりの二十二歳だよ」
二十二歳? あたしの五つ上?
「四月から働き始めたし、チョコも来年三月には高校を卒業するから、とりあえず一年間一緒に暮らして、今後どうするか決めよう、と父と雅史さんが勝手に決めたらしい」
なんですってー!? お父さま、あたしの将来を勝手に決めないでくださいっ!
普段なら帰りが遅い、と言ってもこの時間には帰ってきていることが多い父がいまだに帰ってこないのは、あたしに怒られることが分かっていてどこかに行っているな? 文句を言いたい人が目の前にいないことに腹が立った。
本人たちを無視して勝手に決めるなー!
「おれもこの話を聞いた時、断ろうと思ったんだ。チョコはまだ高校生で、そんな口約束で将来を決めてしまうのは申し訳なくて」
この人、いい人かもしれない。きちんとあたしのことを考えてくれていることがうれしかった。
「だけど、雅史さんの熱い娘の話を聞いていて、少し興味がわいてきたんだ」
どんな話をしたんだ、お父さま。
「父からは一年、と言われたけど……。とりあえずお試し期間で一週間。おれと暮らして今後どうするか考えてもらおうと思って、話を受けてみた」
一週間なら、いいかな?
「いきなり男のおれとひとつ屋根の下、だと不安だろうから。那津も一緒にと思ってね」
だけどその那津さんが一番危険、ということをご存知でしょうか、圭季さん。
リムジンの中でべったりと密着されたこととお昼寝あけにのしかかられたことを思い出し、自分の顔が赤くなったことに気がついた。頬の赤みをごまかすために、今まで圭季さんを見ていた顔を伏せた。
「あ、チョコが嫌というならおれたち、今からでも帰るけど」
あたしが顔を伏せたことで嫌がっていると判断したらしい圭季さんはあわててソファから立ち上がる。誤解を与えてしまったことに気がつき、顔をあげて圭季さんを再度見た。
「ち、違うんですっ! あまりのことに驚いて……」
ふとナッツさんを見ると、今までずっと圭季さんの後ろに立って黙って聞いていたと思ったらいきなりあたしの目の前に現れ、
「それでは千代子さま、続きはベッドの中で」
というなり、圭季さんの向かいに座っていた腕を引っ張ってソファから立ち上がらせた。
続きはベッドの中で!? 意味が分かりません!
「こら、那津。やめなさい」
あたしの執事のイメージはかなり偏見が含まれているのは重々承知の上だけど、ナッツさんのあたしに対する態度は明らかに執事の態度、ではないよね? かなりからかわれているような気がする。
「そういうわけでチョコ。とりあえず一週間。嫌なら途中でやめるから、すぐに言ってくれる?」
圭季さんは赤墨色の瞳に少し不安の色を乗せながら、にっこり微笑んでくれる。
父以外の男の人とひとつ屋根の下、という初めての状況に戸惑ったけど、そこまで嫌ではないし……嫌ならすぐにやめてくれるみたいだし。
「はい……」
小さくそれだけ返事をした。
その返事に圭季さんはほっとしたのか、大きな瞳を少し細め、あたしの錆色の髪を大きな手でくしゃくしゃ、としてからリビングを出て、父の部屋のある方面へと行った。ナッツさんも圭季さんの後に続いた。
わが家の作りは少し変わっているらしく、玄関を入ると少し廊下があり、その扉を開くとリビングになっている。対面型のキッチンとダイニングがリビングの横にあり、そこを中心として玄関入って右側に向かうとあたしの部屋と風呂、トイレがある。左側は父の部屋とゲストルームとサービスルームという名の物置がある。圭季さんとナッツさんは父の部屋の前のゲストルームに寝泊まりするようだ。
あたしとは反対側なのを知り、ほっとした。
リビングとダイニングの電気を切り、自室に戻った。
先ほどまでお昼寝していたにもかかわらず、圭季さんの話は予想以上に疲れさせてくれたらしく、布団にもぐるとそのまま夢の住人と化した。
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身体に重みを感じて、目が覚めた。ふと見ると、ナッツさんが意地悪な顔をしてあたしの上に乗っかっていた。
「ぎゃああああ!」
思いっきり叫んだ。
「チョコちゃん、おはよ。そんなに叫ばなくてもいいじゃない」
ナッツさんはまさしくにやにやという表現が正しい表情で見下ろしている。すっかり目が覚めてしまい、ナッツさんの身体を布団の中から押して降りるように促す。ナッツさんはそれを察して素直に降りてくれた。
「もう少しまともな起こし方をしてくださいっ!」
壁にかかった時計を見た。六時。いつもは六時半に起きるようにアラームをかけているから、少し早いけど起きることにした。
「着替えるから出て行って!」
ナッツさんの背中を押して部屋の外へと押し出した。
「千代子さま、お着替えお手伝いいたしますよ」
とドアの外から声が聞こえるけど、冗談じゃない!
「ひとりで着替えられますっ!」
ぷにぷにのぽよぽよの身体を見せられますかっ! いや、ナイスバディでも見せられない!
制服に着替えて、今日の授業に必要なものをかばんに詰めて部屋を出る。キッチンに行く前に洗面所で顔を洗う。いつものように洗面所横の洗濯機置き場からキッチンに入ろうとして、固まった。
「チョコ、おはよう」
そこにはさわやかな笑顔でお玉を握った圭季さんが立っていた。
「け、圭季さん?」
挨拶をするのを忘れて、ぽかん、と圭季さんを見上げた。
「ご飯はおれが作るから、チョコは気にしないで待っててくれる?」
きーにーしーまーすーって!!
「圭季さんっ! ご飯はあたしが作りますっ!」
圭季さんの持っているお玉を奪おうとしたけど、明らかに圭季さんの方が背が高いので届かない。お玉を取ろうとして、意図せず圭季さんに抱きつく形になってしまった。
「チョコ、意外に積極的なんだね」
あわてて身体を離した。自分の頬が熱くなるのが分かった。
「ほら、椅子に座って待っていて?」
圭季さんに諭されるように言われ、仕方がなくそのままキッチンを通ってダイニングへ向かう。
かばんを置いて、テーブルに座ろうとしたらナッツさんが椅子を引いてくれた。こういうところはほんと、執事、なんだけどね……。
テーブルに着いたところで父が眠そうな顔をしてダイニングにやってきた。
「おはよう」
父の顔を見るなり、椅子から立ちあがって迫った。
「お父さん! どういうことよっ!?」
朝の挨拶より先に思わず文句を言っていた。……そういえばあたし、みんなにおはようと言われたのに返事をしてない。うっわー、ものすごくお行儀悪いじゃん。だけど今更「おはよう」というのもなんだかものすごくタイミングが悪いし、なによりも間抜けだ。
「どういうことって? 圭季くんも那津くんもなかなか好青年でしょ?」
父はにこにこと笑っている。
好青年……。
「ふたりが好青年だろうとなんだろうと、お父さん! 年頃の娘と見知らぬ他人、しかも男の人をひとつ屋根の下に一緒に暮させようだなんて! なにを考えてるのよっ!」
あまりにも興奮しすぎてはあはあと肩で息をした。
「ん? なにかあったの?」
なにかあったもなにもっ! ナッツさんにはのしかかられるしっ! ……えーっと、あれ、それだけ? いや、充分それだけでも犯罪級だわっ!!
「ボクは結婚していきなり見知らぬ人と暮らすよりかはとても前向きだと思うんだけどな」
同棲肯定派ですか!?
「おとーさま! そんな破廉恥なっ!」
父はおやおや、という表情であたしを見る。
「チョコは意外に古風な考えをするんだなぁ。結婚するまで身体を許さないとか、時代錯誤もいいところだよ。それにな、その考えはキリスト教的考えで……」
いきなり説教モードですか、お父さま?
「平安時代なんて通い婚という考えだったし……」
父の話は延々と続いている。父に突っかかったことを後悔した。
「分かりました、お父さま。あたしが悪うございました」
暖簾に腕押し、とはこのことを言うのか。ひとつ賢くなったよ、うん。
「分かればよろしい」
そう言って父はにっこりと微笑み、椅子に座ろうとした。
ナッツさんが気がついてレストランのウエイター真っ青な美しく無駄のない動作で椅子を引き、父を椅子に座らせ、そのまま流れるような動作で椅子を再度引き、座るように目で促された。しぶしぶ椅子に座った。ナッツさんは一礼して、キッチンへと下がっていった。そしてすぐにトレイに湯呑みを乗せて戻ってきた。香ばしいにおいをさせた熱々のほうじ茶が入った湯呑みを父とあたしの前に置いてくれた。そのいいにおいにほっとした。
ナッツさんはトレイを片手に持ち、再びキッチンへと消えて行った。
「チョコ、ボクは高校を卒業してすぐに嫁にやろうとは思っていないんだよ」
父は湯呑みに入ったほうじ茶をふうふうと冷ましながらそう口を開いた。父の意外な言葉に、目が点になった。
「だけど、チョコがそう望むのならボクは反対しない。母さんが早く死んだことでチョコにはたくさん苦労をかけたし、迷惑もかけてきた。……ボクはチョコには人よりもたくさんの幸せを知ってほしいんだ」
その幸せとこの同棲生活がどう結び付くのか、頭の中にはクエスチョンマークがいっぱいだった。
「圭季くんは和明の教育方針のもと、なんでもこなせるみたいだし、那津くんも素晴らしい執事ではないか。いい男に囲まれて生活するなんて、人生のうちでそうそうないぞ? 楽しまないと損だと思うんだけどな」
あまりにも前向きな意見に、開いた口がふさがらなかった。
父は美味しそうにほうじ茶をすすっている。
……お母さま、前から疑問に思っていたのですが。この父のどこに惚れたんですか? この超前向きな天然ボケに惹かれたんですかっ!? こんな人が橘製菓の部長なのか……と思ったら、橘製菓の将来がものすごく心配になった。それはひいては圭季さんの将来への不安、となり……。
あたし、そんな人と婚約って……。ものすごく不安だっ!
やっぱり、あたしなんて世間知らずの女子高生が婚約者、というのはお互いにとって不幸なような気がしてきた。こんなすっとボケた父を雇っているような会社なんだから、もっとしっかりした人を奥さんにもらった方が将来安泰するってものよね。
圭季さんの料理は美味しいしいい男の保養ができなくなるのは確かに残念だけど、これは早々にお断りした方が圭季さんの将来のためになるわよね。
あたしはそう結論を出した。
そう考えたら急激に喉の渇きを思い出し、恐る恐る熱々のほうじ茶に口をつけた。鼻に抜ける香ばしい匂いと舌に残る少し甘みのある味。美味しい。
昨日の疲れた状況ではただ流されるままに同意した部分もあったけど、今は一晩寝てすっきりした一番クリアな頭で考えたことだ。間違いはない!
「ねえ、お父さん」
あたしが言葉を発せようとした時、キッチンから美味しそうなにおいをさせて圭季さんが朝ごはんを持って現れた。
「お待たせしてすみません」
「待ってないよ。むしろ申し訳ないね、ご飯をすっかり任せてしまって」
父の言葉に圭季さんはにこにことしていた。
「だれかに食べてもらえるのが、おれにはうれしいですから」
あ。
圭季さんの言葉に心打たれた。
あたしと同じ考えをしている人がいる。
父がお菓子好きなのもかなり影響しているけど、あたしがお菓子を作る理由。食べてもらえることの幸せ。
作るのは正直言って、面倒だと思うこともある。作るのはいいけど、片付けるのが面倒で億劫に思うことがある。だけどお菓子を作ることをやめられないのは、その先に食べてくれる「だれか」がいるから。食べてくれるだけでうれしい。さらに「美味しい」と褒めてくれたらもっとうれしい。
父はこういうことをあたしに気付いてほしくて「同棲」だなんてことを言いだしたのかな?
圭季さんとナッツさんは魔法のようにテーブルに次々と料理を並べていく。
あたしが作る朝ごはんは食パンに適当にちぎった野菜とインスタントのスープとベーコンか卵。
だけど圭季さんがつくってくれた朝ごはんは和食ベースで、ご飯におみそ汁、そして昨日の残りだけど少しアレンジしたものが二・三品乗っていた。素晴らしい。
圭季さんは父の横に座り、ナッツさんはあたしの横に座る。
「いただきます」
父の合図とともに、あたしたちは朝ごはんを食べ始めた。
。.。:+* ゜ ゜゜ *+:。.。:+* ゜ ゜゜ *+
食器を片づけようとしたらナッツさんに止められた。
「千代子さま、今日は日直ではなかったですか?」
と言われ、思い出した。
そういえば!
それよりなんでナッツさんがあたしが日直なのを知っているの!? という疑問は浮かんだものの、朝ごはんに思ったより時間を取られていたようで、すぐに家を出ないといけないことに気がついた。かばんをつかみ、家の鍵をきちんと持ったことを確認して家を飛び出る。
あたしの家から学校まで徒歩十分。近すぎて自転車通学ができない距離。まだ四月くらいならいいんだけど、これが夏になるとその十分を歩くのさえ、暑くて嫌になる。しかもあたしは少しぽっちゃりしているので、人より汗っかき。嫌なのよねぇ、この通学が。通い慣れた道を少し憂鬱に思いながら歩く。
そういえば今日は朝から数学だ。数学が苦手なうえ、先生が苦手でついつい敬遠してしまい、成績がよろしくないのよねぇ。でも、お昼一番の数学よりはまだましかなぁ……。昨日配られたばかりの今日の時間割を思い出し、げんなりした。
学校の校門が見えたあたりで急に人の山に行く手を阻まれた。
その人数、ざっと見たところ十人前後。えーっと、どちらさまでございますか?
「あなたが立花先生の補佐なの?」
リーダー格と思われる黒緑色のツインテールの人があたしに向かって口を開いた。
ツ……ツインテール……。狙いすぎではないですか?
さらにそのツインテールを彩るように結ばれたかわいらしいピンクのリボンが「ワタシ、がんばってます!」感を出していて、なんともいえない哀愁が漂って見えるのは、あたしが冷め過ぎなのでしょうか?
「そうですけど……。あの、なにか?」
昨日、菊池先生にそう言われたので立花センセの補佐役のはずだ。それがどうしたというのだろう?
肯定の言葉にその場の空気がざわつく。
「どうやって立花先生に取り入ったのよっ!?」
はい? 意味がまったく分からなくて、首をかしげた。
「取り入る? なにをですか? あたし、菊池先生にそう言われて……」
できることならあのだっさいセンセの補佐、なんてしたくないんですけど。変われるものなら変わってほしい。
「ワタシたち、立花先生のファンクラブ会員なの! 会長のワタシの断りなく、どうしてあなたがしゃしゃり出てそんな補佐役だなんて……!」
ファ、ファンクラブぅ!?
あまりにも意外な単語に驚いてかばんを取り落としそうになった。
みなさん、どういう視力をしていらっしゃるのですか? あんなだっさいセンセ、どこがいいのっ!? 眼科に行って視力検査をしてもらうことを強くすすめるわ。
「あの、そんなに補佐役したいのなら」
どうぞ、と口を開こうとした時、後ろからだれかがやってきたらしく、自称立花先生ファンクラブ会員さまたちが黄色い声をあげた。
「か、楓さまっ!」
一番最初に口を開いてきたツインテールの彼女は黄色い悲鳴にも似た声であたしの後ろに立っている人の名前をつぶやいた。
楓……?
つい最近、どこかで聞いた名前だなあ、と思ってゆっくりと後ろを振り返った。
そこには、うちの制服を着た紅黒色のつやのあるさらさらと流れるような髪に鉄黒色の美しい瞳の端正な顔立ちの男性が立っていた。
あれ? この顔……どこかで見たことが?
必死になって思い出そうと目線を上にあげ、悩んだ。
「チョコちゃん、この人たちとお友だち?」
楓さま、と呼ばれた人は当たり前のようにあたしの真横に立ち、面白そうな表情でファンクラブ会員さまたちを眺めている。
いや、それより。今、この人あたしのことを「チョコちゃん」と呼んだ? あたし、この人と初対面だと思うのですが?
「どちらさまですか……?」
あたしの疑問に楓さまは目を見開いて、次の瞬間、はじけたように笑い始めた。
「チョコちゃん、それ、なんて冗談!?」
お腹を抱えて笑っている楓さまにファンクラブ会員さまたちもびっくりしてことの成り行きを見守っている。ムッとしてもう一度問いただそうとした時、ふとさわやかな風が楓さまの方からあたしの方へと駆け抜けた。その時、かいだことのある香水の匂いがあたしの鼻腔をくすぐった。あ……れ? この香水って……? ナッツさんと一緒のにおい?
「千代子さま、まさか……」
楓さまはまだ笑ったままだったけど、あたしの耳元でそうぼそり、と呟く。その声にようやくパズルのピースがぱちり、とはまるような感覚を覚えた。
「え……。うそ」
思わず楓さま……否、ナッツさんに指さしてしまった。
「え、え、えええっ!?」
「雅史さんから聞いてたけど、ほんっとチョコちゃんって恐ろしいほど天然だねっ!」
今まで見たことのない人懐っこい表情でナッツさんはあたしに笑いかけた。
「楓那津(かえで なつ)、高校一年生。昨日の入学式で生徒代表で挨拶したのに」
ちょっと待って! ナッツさんって……あたしより年上だと思っていたのにっ! 同じ学校で、しかも年下だったなんて……。
「那津って呼んでね」
ナッツさん改め、那津はあたしに向かって憎らしいくらいのとろけるような表情でウインクをしてきた。
「きゃー」
とファンクラブ会員さまたちの黄色い悲鳴が聞こえてきた。
「なんでよりによって立花先生ばかりでなく、学院のアイドル楓さままでっ!」
リーダーが悔しそうにあたしを睨みつける。
「こらこら、朝からこんなところでなにをしているんだ?」
背後から朝一番で会いたくない人物の声が聞こえ、げんなりと肩を落とした。
もう。なんなの朝からっ!?
「た、立花先生っ!」
那津と反対側に立花センセは立った。あたしは那津と立花センセに挟まれる形になってしまっていた。那津と立花センセは背が高いから、なんとなくあたしは囚われの宇宙人みたいになってしまっていた。
「ほら、チャイムが鳴るぞ。早く教室へ行け」
立花センセが解散するように伝えると、ファンクラブ会員さまたちは蜘蛛の子を散らしたかのようにばーっと校門に吸い込まれていった。
「うわっ! あたし、日直っ!」
あせって校門へと駆けて行った。
【つづく】