FESTIVAL D'AVIGNON

アヴィニヨン演劇祭公式ガイド 09


■アヴィニヨンの「街宣」

 アヴィニヨン演劇祭には、プログラムにも INとOFFの2種類があ
るのは、もう周知のことだろう。招待公演のINの場合は、事務局発
行の公式プログラム以外に劇団や公演の個別のパンフレットやポス
ターはなく、むしろ劇団側の宣伝活動は制限されているようである
。一方 OFFの場合、演劇祭に参加というよりは、その期間中にアヴ
ィニヨンとその周辺で劇場と称される場所を見い出して勝手に公演
をうつ劇団は、 OFFの事務局に登録することによって、さまざまに
検索のできる網羅されたプログラムに掲載されるとはいえ、実際の
宣伝活動は各劇団それぞれの熱意次第となる。もちろんそれらの宣
伝活動は、観客にとっては貴重な情報源となり、アヴィニヨン演劇
祭に集う人々は、その地であるいは事前に入手したプログラムと、
それらの情報をもとに、城壁内外で繰り広げられるスペクタクルを
駆け巡るのである。

 一番の宣伝は、当然のことながらよい公演を行うことだ。3週間
ほどの演劇祭の期間中、毎日同じ時間に同じ劇場で公演を重ねるこ
とによって観客を増やしていくというのが、一番真っ当な方法だろ
う。初日には数名だった観客が日ごとに増え、最終日には満員とな
って外にまで溢れ出すこともままあることである。

 それには全国紙や地方紙などのメディアに掲載される紹介記事や
批評記事も大きな影響力をもつのだが、そのほか、カフェや宿舎な
どでの知人や見知らぬ観客同士の情報交換によるところも大きい。
マス・メディアを介さない、むしろマス・メディアに踊らされない
健全といってよいその情報交換は、まさに「オッフの醍醐味」とい
えるものだろう。

 もちろん各劇団によるビラ配りや至る所を占拠したポスター貼り
といった「街宣」(昨年参加した「こんにゃく座」座付作曲家林光
の言)も重要な宣伝手段である。オフ事務局にはすべての公演カー
ドを並べる棚があり、またカフェやレストランも積極的に協力して
くれる。

 そしてもっと効果的なのは、街頭でのパフォーマンスや寸劇、ま
たは幟や旗をもって舞台衣装のままで練り歩く「パレード」である
。これに音楽があれば、目立つこと請け合いである。またOFFの「
街頭パフォーマンス」部門なら、劇場を借りる必要がないから安上
がりに済む。このようにさまざまな演劇行為が至るところ溢れ、ま
た俳優と観客が渾然一体となって、夏のアヴィニヨンは城壁の内も
外も、演劇一色に塗りつぶされるのである。 

 [西田信子]
 

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ラカスカードの演劇作業
佐藤 康

 ジャーナリスティックな言い方をすれば、今世紀最後のアヴィニ
ヨン演劇祭はなかなか充実したものであった、と総括できるかもし
れない。イザベル ・ユペールを主演に迎えたラサール演出の『メ
デ』を筆頭に、コベール自作自演の自伝劇、リュビーモフ演出の『
マラー‐サド』、ジンガロの新作『トリプティク』あたりに大方の
評価が集まっているようで、けっして見劣りするはずもないヴァン
サン演出の『ロレンザッチオ』やピィの『楽しい黙示録』すら鼻白
ませてしまった観がある。

 ところでこうした大御所、中堅に交じって目を引いた「チェーホ
フ三部作」の新進演出家、エリック・ラカスカードの演劇作業は検
討に値すると思われるので、まずは覚え書き代わりの一文を綴って
みる。なにしろ『かもめ』の様子を伝える写真は、胸を露わにのけ
ぞってブリッジしている女性と、それをかなり離れたところからや
はり上半身を露わにし、床に腰を下ろした姿勢から、今や立ちあが
ろうとする男性を写しているのだから。

 ラカスカードは1959年生まれ。北フランス、リールの劇団「プラ
ト」に参加した後、83年に自らの劇団「ベラタム」を創設し、俳優
との共同創作の成果を次々に発表。97年からカンにあるノルマンデ
ィー国立演劇センターのディレクターに就任している。「チェーホ
フ3部作」は「ベラタム」時代の作品ふたつ『イワーノフ』と『三
人姉妹』に、今回『かもめ』を付け加え、同時に『三人姉妹』を実
験的に再創造したもの(『三人姉妹のためのファミリー・サークル
』)で、 3作はそれぞれ別に上演された。なお、『イワーノフ』は
99年にパリ、オデオン座の「カバーヌ」で上演されている。このほ
か98年にはラシーヌ、クローデルのテクストに、協同作業のコンビ
を組む詩人のウジェーヌ・デュリフのテクストを加えた『生へ』、
ラシーヌ『フェードル』を中心とした『愛へ』、ストラスブール国
立演劇学校の俳優と協同制作した即興性の高い『死へ』からなる「
三部作」を完成させている。

 多くの劇評がラカスカードの舞台に認めるのはコレグラフィー(
ダンス)にも比すべき身体の幾何学的な造形力が作る「冷たい美し
さ」である。また、身体の「エネルギー」を最優先に考えて作品を
作り上げていく手法は演出家自身が強調するところである。作品は
いずれもセノグラフィーを極限まで切り詰めた裸舞台で上演され、
俳優は裸足で、衣装は白あるいは黒の素朴なもの。照明は数本の蝋
燭が舞台上に灯るだけである。そうしたことさら神秘性を帯びた空
間で行なわれる劇とはいかなるものであろうか。

 過去の作品からも明らかなように、ラカスカードの演劇は複数の
テクストのモンタージュで構成されている。しかしそれは「引用の
モザイク」を織りなす作業とは違う。無数の引用を散種することは、
エクリチュールの場でこそ主体生成のドラマたりうる可能性を秘め
ているが、演劇という身体の作業の場では、かえって引用する側の
主体を無傷のままに肥大させることになろう。(若い頃のラヴォー
ダンが試みたコラージュの限界がここにある。)ラカスカードの方
法は複数のテクストが衝突する空間を俳優の身体が支えるために、
テクストと身体の「深層」を発見することにある。

 深層を浮かび上がらせるためにテクストは削除と切断を余儀なく
される。ここにはリアリズム(映画のためのものだ、とラカスカー
ドは言う)は一切ない。俳優は、不断に自己、あるいは他者の身体
との闘いの過程に置かれ、猛獣を前にしたときのように危機に晒さ
れる。したがって俳優個々は作品世界の器官として統合されたアン
サンブルに奉仕する主体ではない。それはむしろ「壊れた機械、空
転する歯車」なのであり、テクストはそれを運んでいく道具として
の位相にある。どうやらヴィテーズの作業の延長線にラカスカード
の演劇は展開されていると考えてもいいだろう。しかし、ヴィジュ
アルな表現に成功していれば台詞はことさら必要ない、と語るラカ
スカードがヴィテーズとはまったく別の発想を持っているのも認め
なければなるまい。

 テクストと身体の深層を詩的な美に昇華させようとしているこの
舞台を、いつの日かこの目で見ることができるだろうか。それまで
はひたすら想像をたくましくするしかなかろう。
 

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