FESTIVAL D'AVIGNON

アヴィニヨン演劇祭公式ガイド 03


■アヴィニヨン演劇祭 99"0FF" 

 今年で53回目になるアヴィニヨン演劇祭は、先の7月9日から31日
まで開催された。その23日間の期間中に、招待公演の"IN"には60本、
自主参加の"OFF"には演劇から大道芸まで、総計539本もの催しがあ
った。

 "OFF"についてプログラムを中心に見てみよう。"OFF"の殆どの劇
団は市内外95の劇場で、朝10時から深夜 2時頃まで期間中連日同じ
時刻に公演をする。

 昨98年のこの演劇祭での初演作品は 166本。今年は同時代の作品
上演に力を入れ、プログラム構成も<存命作家><物故作家>とに
変更され、それぞれ291本、154本である。作家別案内を見ると古典
ではモリエール(98年10劇団→99年7劇団、以下同)、P.マリヴォ
(6→7)、J.ラシーヌ(5→1)。今世紀作家ではJ.ジュネ(3→2)、
M.デュラス(5→3、B.-M.コルテス(1→ 4)。外国作家ではW.シェ
イクスピア(2→5)、S.ベケット(6→ 1)、A.チェーホフ(2→1)、
B.ブレヒト(3→1)、と昨年とさほどの違いはないようだ。こうし
た作家の作品は、アヴィニヨンの定番のようだ。一方、<存命作家
>で人気が高いのは、イタリアのダリオ・フォ(フランカ・ラーメ
との競作等 4→7)。 また、日本の作家では安部公房『砂の女』、
井上靖『猟銃』が仏劇団により上演された。

 日本からは、オペラシアターこんにゃく座が宮沢賢治『セロ弾き
のゴーシュ』で初参加。和製オペラは現地で好評だったという。ダ
ンスではNIBROOL とインド舞踊のシャクチ。大道芸には人間彫刻で
常連の雪竹太郎がいる。他国からは韓国から 1劇団、中欧諸国は 6、
伊は 5、アフリカ諸国は 4、中南米からは 2劇団の参加している。
…と、国際的とはいえ 500の上演の殆どが地元劇団による仏語上演
だ。しかし筋が分っている古典的作品も多く、言語の壁を越えて観
劇しやすい。

 今年の印象的な観劇体験を聞いた。エフェメリッド
劇団 THEATRE EPHEMERIDE によるブレヒトの『バール』。野生味が
あって面白かったそうだ。冒頭は装置の二階から洋服が落され、舞
台の全裸のバールが着衣しつつ歌うという趣向。ラストシーンでは、
バールが舞台奥の暗がりに去りつつ、客席に首を向け<ククク>と嘲
う。「客席への悪意が、たまらなかった」のだそうだ。 事務局に
申込めば、プログラムは会期 2週間ほど前に届く。観劇作戦は渡航
前でも、現地で運任せでも、いつか気軽にアヴィニヨン演劇祭を訪
れてみては?  

[杵渕里果]
 
 

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オスターマイヤーの船出

佐藤 康

 この夏のアヴィニヨン演劇祭は、以前にもまして、ますます汎世
界化するフランス演劇の現在をきわだたせた観があるが、新しい才
能はまたしても「国外」からやってきた。トーマス・オスターマイ
ヤーThomas Oster-meier、30歳。わずか3年前に劇団バラッケBara
cke を結成してまたたく間に注目を集め、来年から5年契約で、ベ
ルリン・シャオビューネの芸術監督に就任するドイツ人演出家であ
る。 

 それにしても、倉庫を改造した客席数、100 に満たない文字通り
の「小屋」の主宰者が、来年からは、日本円換算でおよそ 15 億円
(!)の年間予算で演劇活動を行う権限を手中に収めるというのだか
ら、これはオスターマイヤーにしても、今までとは質的にも、量的
にも異なる舞台を創造することになるにちがいないし、シャオビュ
ーネにもいかなる変革が訪れるか。いずれにせよヨーロッパ演劇に
新しい風を吹かせることだろう。1986年にペーター・シュタインが
去って以来、その近代設備を持て余し気味、と評価が低迷している
シャオビューネの救世主に、はたしてオスターマイヤーがなれるの
かどうか、期待は尽きない。 

 オスターマイヤーはドイツ北部の生まれ。職業軍人の父親にとも
ないバイエルン地方に転校して、ことばの違いを学友に嘲られたの
がアマチュア演劇に加わるきっかけとなった。つまり、バイエルン
方言は出来なくても、戯曲のせりふならば彼の「標準語」でいいの
だった。高校卒業後、80年代ドイツに見られた極右勢力の台頭に対
抗して、左翼活動に参加。アルバイトをしながら俳優修業をし、23
歳で旧東ベルリン、エルネスト・ブッシュ高等演劇学校に合格した。
(余談だが、彼の風貌は鋭い目つきのスキンヘッドで、どうみても
「ネオ・ナチ」のほうだ。身長も196センチ!でも、兵役は社会奉仕
に切り替えて身障者の介助をしたっていうから、優しいお兄さんな
んだ。)

 ここでオスターマイヤーはメイエルホリドの「ビオ・メハニカ」
に傾倒することになる。このメソードをオスターマイヤーがどうい
う角度から消化したのか、それを検証する機会も余裕も今はないが、
俳優の身体の可塑性、また、運動性に最大限の意味の負荷をかけて
いくものとして理解したことは確実だろう。彼は、自分の俳優たち
を曲芸やアクロバットにおよぶまで修練を積ませ、肉体的に鍛え上
げた。かくして「バラッケ」の俳優たちは何時間も疲れを見せず、
舞台上を走り回り、飛び跳ね、軽業すらこなしながら演じるという、
強度を獲得したのであった。

 オスターマイヤーのレパートリーは、人間の洗脳を題材にするブ
レヒトの『男は男だ』、工場を舞台にした権力との闘争を描くドレ
ッサー作『ベルトの下で』、消費社会の虚妄を衝くラヴェンヒル作
『ショッピングとファッキング』。アヴィニヨンでもこの3つの作
品が、いずれもパワフルに演じられたという。

 レパートリーがくっきりと資本社会批判の色合いを持っているこ
とは、誰の目にも明らかな特徴であろう。システムの部品としてか
らめとられていく主体=俳優が、「機械」さながらに高速度で運動
しつづけるのは、演劇テクストを意味生産のマシーン=構造体とし
て提出しようという意図のこもったものなのかもしれない。そうだ
とすれば、オスターマイヤーの世界はハイナ・ミュラーの「マシー
ン」とも位相を異にした、もっと伝統的な意味での喜劇の原理に近
いものなのであろう。また、こうした「リアリズム」戯曲が、激し
い身体の運動をともなって演じられたことが、ベルリンの批評家た
ちにとって衝撃的に映ったのだとも伝えられるのは、想像するにど
うやらそういうことであったと思える。シェイクスピアをはじめと
した古典作品を、さまざまな読解に基づいて上演することには、今
のところ関心がないようで、あくまでも「現代」の矛盾を直接的に
舞台にかけていく主義であるのも、うなずける。

 ところで年齢からもキャリアからも、まさにこれからのヨーロッ
パ演劇を支える軸のひとつとなるであろうこの演出家が、その「新
しさ」を評価されながらも、やはり「身体の強度」をめがけて自ら
の演劇を組織していくということはどういうことなのだろうか。ま
すます表層的に身体という構造体を解体する方向に進むコンテンポ
ラリー・ダンスを横目に、私はここに、現在の演劇がかかえる問題
の一端が垣間見えている気がしてならない。
 

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