12月11日(金)晴

太陽の海岸/コスタ・デル・ソル周遊

この日は「由緒正しいガイドブック」のお薦めコースの続きを走り、一般的に有名なカサレスという村を経由してコスタ・デル・ソル(太陽の海岸)を海岸沿いに最後の宿泊地マラガに向かう実質的な最終日だった。
そんな日だったので、朝起きたら無性にコスタ・デル・ソルの海岸が見たくなってしまい工藤君に「もう山はいい!もううんざりだ!コスタ・デル・ソルに行きたい!山を見に来たんじゃない!」と言い続け、「由緒正しいガイドブック」のお薦め山岳コース(逆三角形の形をしたコースの上の一辺)を通らずその北側をほぼ平行して走っている一般道でロンダという由緒正しい街へ行き、そこで又お薦めコース(逆三角形の右の一辺)にもどって早めに海岸に出ることにしてもらった。
ホテルをチェックアウトしたのは8時半過ぎ。この旅では最も早いチェックアウトだった。まだ周囲は夜が明けきったばかりなので静かで、静かな街をヘッドライトを点けてひた走った。
一般道と言っても真っ直ぐで周囲に何も無いので100〜120kmで走れ、前日行ったアルコス・デ・ラ・フロンテーラを経由してロンダまでの117kmはそう遠くは無かった。

ロンダは「由緒正しいガイドブック」にお薦めのお散歩コースが載っている闘牛発祥の地でもある由緒正しい街(人口4万人。アルヘシラスに来る時車両を乗り換えた駅がある街)で、高さ100mの断崖絶壁の上に街があり、しかも深い谷で街が旧市街と新市街に2分されていて、その深い谷にかかっているヌエボ橋から見る景観が有名な街だ。
街に入るといきなりJALの大きな観光バスを発見。駐車場に車を入れてヌエボ橋に行くとJALパック(ILL)のメンバーが一杯いた。
こんな朝早く(と言っても10時半位)からこんなところにいるなんて、いったいどこから来てどこに行くのかと思ったが皆さん熱心に写真を撮っていた。僕も写真を撮り足がすくむ程の高い橋から谷をしばらく眺めていた。
我々は工藤君の提案で橋のたもとの近くにあるカフェでひと休み。僕はオレンジジュースとまたまたチョリソのボカディージョ、工藤君はカフェで一息入れた。
団体さんはただひたすら写真を撮っていて、お忙しいご様子だった。我々は最後に闘牛場の外観を見てから駐車場にもどり工藤君にドライバーを交代した。
ドライバーを交代した直後、右に寄りすぎだよーと言った瞬間ドアミラーが駐車中の車のドアミラーに接触。「ガッコーン」という音がしてドアミラーが内側にたたみ、ミラー部分が路上に落ちてしまった。車を止めて僕がミラーを拾いに行ったが通行人のおばちゃんに笑われてしまった。工藤君曰く「車幅感覚が鈍い人なんです」との事。アメリカでは左ハンドルで運転しても接触した事は無いと言いそうだが道が狭いヨーロッパで運転するのは苦手のようだ。
ミラーはひびだらけだったが、ドアミラーのフレームにはめてみるとパコっとうまく収まってなんとか見えるのでまずはめでたし(ドアミラーのフレーム自体にはかすり傷一つなかった)。
「ロンダロンダロンダ〜♪(リンダリンダリンダ〜♪)って誰の歌だっけ?グループだっけ?」などど言いながらロンダは終わり、時間に余裕があれば「由緒正しいガイドブック」のお散歩コースを歩いてみるのも良さそうな街だった。

ロンダからは再び「由緒正しいガイドブック」のお薦めコースにもどり山道を62km走ってGausinという白い村経由で海岸に向かう道を下って途中にあるカサレスへ行くコースを走った。途中は見晴らしの良いカーブ続きの道が続き、工藤君は山道を走るのが好きなんだそうで、コーナーの手前でエンジンブレーキを効かせながら走り、カーブではタイヤを鳴らせていた。途中には白い村が所々にあって、その都度写真に撮ったが白い村はこのあたりではちっとも珍しくない事がわかった(写真下右も決して有名ではない村)。カサレスやミハスが有名なのはコスタ・デル・ソルから行きやすいだけの理由のようだった。どこにでもある白い村でも「由緒正しいガイドブック」に載っている白い村はローマ時代やイスラム時代の古い遺跡がある村で、まさに由緒正しい村だけだったのだ。

 

Gausinに着くと遥かかなたに地中海とジブの岩山が見えてあんなに目立っている場所がイギリスに占領されているなんてスペイン人はさぞかし気分が悪いだろうと思った。
Gausinからは下り坂を下ってカサレスに行ったが、なんてことはないただの白い村で、道ばたに咲いていた青い朝顔の方が珍しかった(カサレスの写真は逆光で黒い村に写ってしまった)。

カサレスを過ぎて一気に海岸まで下り、白い村の背景に地中海が見えた時は嬉しかった。
その後海岸沿いにしばらく走り、マルベーリャへ行った(実際は手前のプエルト・バヌス)。プエルト・バヌスは高級リゾートで、海沿いにはリゾートマンションが建ち並んでいた。我々は車を停めて海岸まで歩いていった。海岸は人気がなかったが真冬だというのに水着のおばさんやおじさんがいた。工藤君は「ヨーロッパ名物の冬でも泳ぐおじさんだ!」と言っていた。僕はうれしくてズボンのすそをたくし上げて海に入った。海は冷たかったが気持ち良かった。僕は地中海では必ず試す海の塩加減を味見する事にしているがやはり日本の海に比べると塩辛くなかった。
しばらく海の感触を楽しんでから海岸沿いのカフェで休憩することにした。カフェでは工藤君はセルベッサ、僕はコーラを注文。ここからも遥かかなたにジブが島のように見え、その先にはアフリカがかすかに見えていた(写真左は海の中から撮影したプエルト・バヌス。写真下は休憩したカフェ)



その後は海岸沿いに散歩。高級な店が並ぶ道をぬけるとヨットハーバーがあり、その先にはまた海岸があった。堤防の近くには猫が一杯いて僕は海岸を散歩したが工藤君は堤防に腰を降ろして「由緒正しいガイドブック」のコスタ・デル・ソルの解説を読んでいた。
少しのんびりした後はヨットハーバーに面したカフェで一番混んでいたカフェ(Da Paolo)で食事。

僕はニース風サラダ、工藤君はサンドイッチを注文。店の前をゆっくり通過する車はメルセデスベンツ、ベンツ、ポルシェ、ベンツ、BMWと高級車ばかりで今までの街とは明らかに違っていた。ニース風サラダ(Ensarada Nicoise)はボイルしてほぐしたチキンのささ身に松の実をトッピングしたフレンチドレッシングをかけたものの周りにチコリの葉(薄くて小さい白菜みたいな西洋野菜でほろ苦い)を放射状に飾っあたサラダで、どう見てもニース風に見えなかったが量が多いので充分お腹一杯になった。工藤君はPepito Patatasという名前の「ビーフステーキサンドイッチ フライドポテト添え」を食べた、この時彼にセルベッサを飲まれてしまったので必然的に運転を交代する事になった。

プエルト・バヌスに限らずコスタ・デル・ソルはイギリス人に人気が高く、イギリス人ジェラルド・ブレナンが書いた「素顔のスペイン」(The Face Of Spain)の序章には
「これから外国旅行をしようと考えている人に一言っておきたい。スペイン人は素晴らしい国民であり、彼らの国は世界でもっとも美しい国に数えられる。観光客にとってスペインは、イギリスとは完璧に対照的なものを見せてくれる最高の国である。実際、この国での旅行は簡単でしかも楽しい。ホテルは素晴らしいし、食べ物は豊富でおいしい上に、値段は手頃である。何よりも、イギリス人はどこにいっても親切に歓迎される
(略)何世紀にもわたってヨーロッパ、アジア、北アフリカの文化のるつぼとなってきたスペインは、今日ほかのいかなる国にもない調べを奏でている。鋭い、刺すような、ほろ苦いような、荒々しいと同時にノスタルジックなあのギターの調べにも似て、それは一度接したら決して忘れないメロディーだ。北国に生まれながら、新しい興奮を求める者にとって、それは必ず訪れる価値のある土地である」
べた誉めだが、実際この通りだと思う。特に「イギリスとは完璧に対照的なものを見せてくれる最高の国」という言葉はまさしくその通りで、アンティーク市に夜明け前から懐中電灯を持ってでかけるイギリス人とは確かに好対照だ、イギリスからは安いチャーター便も出ていて続々と観光客が来ていて、帰りのマラガ空港ではロンドンのガートウィック空港行きのチェックインカウンターに長蛇の列ができていた。

食後はいざマラガへ。
ところが、マラガに向かって高速を走ったがほんの少し走っただけで、マルベーリャ市街を示す標識があり、我々はマルベーリャにいたつもりだったので「こっちがマルベーリャかー」と工藤君の提案で市街地へ入った。どうと言う事は無い市街地だったが生活感があった。こちらもビーチが整備されていて居心地が良さそうな所で、工藤君はビーチ沿いの土産物屋さんで自分用のTシャツを買っていた(珍しい)。
マルベーリャに寄り道した後は一路コスタ・デル・ソルの中心都市マラガへ。
スペインの高速道路は追い越し車線を120km位で走っていても後ろからBMWやメルセデスベンツがどんどん迫って来て、ぴたっと後ろについて露骨に煽って来る。フランスでも一般道を100kmで走っていても抜かれて驚いたが、スペインも同じラテン系の血がドライバーに流れているのでみんな飛ばす。特にBMWは例外無く煽るのでルームミラーでBMWのフロントマスクが見えると自然と避けるようになってしまう。これがドライバーの習慣になっているのでBMWやメルセデスはグレードに係わらずフロントマスクのデザインを変えられないのだろう、変えてしまっては意味が無いのである。
途中、トレモリノス(由緒正しいガイドブックにwrong with uncchecked developmentと書かれていた)や白い村で有名なミハスが見えたが、高速沿いに白い壁、オレンジ色の瓦の新しいリゾートマンション(ヴィラ)が一杯建っていたのが印象的だった。最近では日本人でも定年後コスタ・デル・ソルにマンションを買って暮らす人がいるそうだ。

マルベーリャからマラガまでは50km位でこの日も日没前に予約していたパラドール・ヒルバルファロParador Gibralfaroにチェックインしたかった。なぜなら次の日は朝9時15発のイベリア航空でマドリッド経由で帰る予定になっていたので、朝が明け切らないうちに出ざるを得なく、マラガの代表的風景(高台にあるパラドールから見る闘牛場を手前に見たマラガの風景)はこの日の夕方に見ないと見れなかったのだ。


マラガは人口60万人。アンダルシアではセビーリャに次ぐ第2の都市で紀元前フェニキア時代から続く貿易港で、ピカソの生まれた街でもある。我々が泊まったパラドールは丘の上に建っていてローマ時代の街の上にイスラムのムーア人が建てたヒブラロファロ要塞の一部だった。
我々は高速を降りて市街地に入ったが、道が複雑でまっすぐ行けない。工藤君の右だ左だという指示に従って走ったが、まっすぐな道がいきなり一通になって、全ての車線が右に曲がらされたり、大きな交差点なのに信号が無かったりとかなり複雑。
最後にパラドールのピンク色の看板を発見して丘を昇ったが、丘の上でパラドールの案内の看板を見過ごして降りてしまい、また昇ってようやくパラドールに到着。


パラドールはまるで古城のような外見で、ここからの景色はマラガを代表する眺めなので左右に海、中央に闘牛場と街が見えた。実に美しい眺めで、ここにもブーゲンビリアの花が咲いていた。
部屋はベッドルームだけだったが20畳位ある大きな部屋で、白いテーブルと椅子が置いてあるバルコニーに出てみると左の丘の上にはヒルバロファロの古城が見え、正面にはマラガの街と海を見おろせた。空は夕焼けでワインレッドに染まり、紺色の夜の空と美しいコントラストを見せていた。

  

 しばらくパラドールの部屋と景色を誉めたたえ、一息入れていたら工藤君が翌日の朝食が8時からであることを発見した。予定では翌日はマドリッドの市内観光をする為早い便(9時15分発)を予約していて、レンタカーを返す時間も考えると7時半〜8時の間には出なければならなかったので僕は諦めたが、工藤君が確か午前中に便があったはずだと言いだし、僕はそんな記憶は無い言ったが工藤君がイベリア航空のマラガ営業所に電話したら10:45分発があって、9:15分発から変更してくれた。我々はパラドールでのゆったりした時間を選んだ。
次の日の予定も決まったのでマラガの街に出ることにしてタクシーを呼んでもらって丘を降りた。
街に出てみるとクリスマスイルミネーションがここにも道を横断していてかかっていて、夜店が一杯出ていた。工藤君とはここで一端別れて夜店を見物したが、ここでもクリスマス用の「ベレン人形」のパーツ屋さんが多く、他はたいした物は売ってなく、意外とあっさり終わってしまい、偶然再び工藤君と出会ったので一緒にぶらぶらした。途中デパートが開いていたのでここでも別れて買い物をした。ヨーロッパやアメリカの食器売場とカトラリー(ナイフ、フォーク類)売場はいつ見ても充実していて、しかも安いので今回も感心した。手袋や革製品も見たが結局僕は何も買わなかった(工藤君はCDを買っていた)。
その後食料品屋さんを見てからしゃれた小物屋さんに入ったが、入って10分もしない内に8時になってしまい閉店してしまった。僕は王冠の形をしたガラス製のブルーのキャンドル入れを買った(写真左)。iMacにぴったりなボンダイブルー(薄緑がかった青色)の目覚まし時計があったのでiMacユーザーの工藤君にお薦めしたら喜んで買っていた(この時は1ヶ月後に自分がiMacユーザーになるなんて夢にも思わなかった)。

その後も街をぶらぶらしたが、通りを歩く若い学生さんらしき女性が実にチャーミングで、平均水準がかなり高い。若いママさんも子供の手を引きながらさっそうと歩いていて格好いい。
10代のスペイン女性は顔が小造りで鼻が高くなく、髪の毛も明るいブロンド系よりもブラウン系が多いので親しみを覚え、気になってしょうがなくなってしまった。特に街頭でアコーディオンを演奏していた学生らしき女性が美しく、そこでしばらく見ていなかった事を今でも後悔している。
工藤君に言うと「そーなんです。水準が高いんです。僕がスペインが好きになったのもこれが大きな動機の一つなんです、はっはっはっは!」と大きく頷きながら言っていた。しかし、あの美しさは一瞬で、二十歳を過ぎるとどんどん太ってしまい30歳を過ぎると単なるおばさんになってしまう。きっと夜遅くにオリーブオイルたっぷりの食事をしてすぐ寝るからに違いない。

我々はパラドールに帰って食事。我々が行った12月はちょうど70周年だったので記念メニューがあり、僕は「CLAM SOUP IN GIBRALFARO STYLE」とシーフードリゾットのような「BAKED SEEBASS IN GIBRALFARO STYLE」、デザートは「70TH ANNIVERSARY OF PARADORES CAKE」を注文。工藤君は小さなサラダ菜のような野菜を縦に4つに切ってトマト等と一緒に放射状に盛りつけた「グリーンサラダ」と「平目のムニエル」を注文した。食前酒はヘレスでヘレス・デ・ラ・フロンテーラで飲んだヘレスと比べると色が濃くて薄い琥珀色で味も濃厚だった。
スープは濃厚でおいしかったが、リゾットがものすごく塩辛くて我慢して食べたが途中で体調が悪くなってしまった。実は僕は塩辛いものに弱く、自称「なめくじ」なのだ。工藤君は「食事中に体調が悪くなるなんて珍しいですねー」と言っていたがこれは確かに希に見る事だった。
しばらく部屋で水をがぶ飲みして休憩したが回復せず、デザートの70周年記念の特大チョコレートケーキもほとんど残してしまった。まったくもったいない事をしたものだ。
部屋にもどるとまたまたグッドナイト・チョコが置いてあった(小さな白い箱に入っていてメッセージカードと細い金色のリボンがかけてあった。工藤君が箱を開けた途端に「人でなしのチョコだ!」と叫んだので、何だろうと思って見たらヒトデの形をしたチョコが入っていた)

この日は最後の夜を惜しみつつ寝た。


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