98年12月9日(水)晴

憧れのアルハンブラ宮殿
A MAGICAL USE of space,light,water and decoration characterizes this most sensual piece of architecture.


この日は12時40分発17時20分着のRENFEでジブラルタル海峡の街アルヘシラスに移動する日で、グラナダ滞在は実質半日しかないのでアルハンブラ宮殿のオープン時間(朝9時)前に行って並ぶ決意をしていた。そこで真っ暗な内から起きて(と言っても7時半)ルームサービスで朝食を頼んだら、大味のカステラみたいなパンが出てきて、
「もしかしてこれがカステラの元祖か!」
と勝手に思いこんでしまった。
後で工藤君に、お土産にはあのパンが最もふさわしいと言ったら
「それは単なるスポンジケーキでしょ、そんなに欲しかったらパン屋にでも行きますか?」
と軽くかわされてしまった。
その後「綺麗なお姉さん」の水野真紀が出演していた「カステラのルーツをポルトガルで探す!!」という番組を見たら、そのなかでカステラはポルトガルの「パン・デ・ロー」がルーツで、今でも復活祭や誕生日で食べられている伝統的なお菓子だと紹介していた。
「パン・デ・ロー」は(パンですから)さっぱりしたシンプルな味で、カステラの「べた甘感」はないそうですが、ポルトガル北部のお菓子の街で有名なアマランテという街にある「カバナ・アウタ/Cavana Alta」というケーキが、最も日本のカステラに近い味なんだそうです。勉強になりました。

朝起きて出発の準備をしていると工藤君が「まだ暗いのに何やってんだよ」という顔で眠そうに薄目を開けたので
「10時にアルハンブラ宮殿の獅子のパティオで待ってるからね」
と言い残してホテルを出た。
外は日の出直後で寒かったので、タクシーでアルハンブラ宮殿がある丘の木立に囲まれた道を昇り、9時10分前にチケット売場に到着。
既にチケット売場(700Pts)には20人位並んでいたが、ゲートには人があまりいなかったので先頭集団に並び開門と同時に入った。ゲートは前日アルバイシン地区から見たアルハンブラ宮殿の裏にあり、宮殿までは並木道が続くゆるやかな昇り坂を10分位歩いて行く。
途中、予約できなかったスペインの国営ホテル、「パラドール・サン・フランシスコ」が見えたが悔しいので写真にはとらなかったが、外見はアルハンブラ宮殿と同じ箱型の土色をしていて由緒正しそうな外見だった。
宮殿に近づくとパラドールの他にもホテルが少しあって、ゲートの内側にあるので入場時間に特典があるのではないかと少し気になった。
いよいよ宮殿という時に(この頃は30人位の見学者集団の先頭を歩いていた)、平行してあった道を進む日本人観光客軍団を発見。これはいかんと思ってズンズン進んで宮殿に一番乗りした。

宮殿はまだ静かだったが、入場直後は先頭を歩いていた勢いと日本人観光客軍団より先に行くことばかり考えていたので、ろくろく見もせず進んでしまい。途中で引き返して見直した(この時も頭の中はTBSの番組「世界遺産」のテーマ音楽が鳴りっぱなしだった。ちなみにアルハンブラを紹介した番組のビデオはTBSから売られていて、あらかじめ買ってあったので、帰国後見直して見ると(帰国後10回は見た........)、テーマ音楽と一緒に流れる緒方直人の最初のナレーションは、
「アラビア語で赤い城を意味するアルハンブラ。かつてスペインの地を支配したイスラムの王達はコーランに描かれた天上の楽園をこのアルハンブラに再現しようとしました。グラナダのアルハンブラ宮殿とフェネラリーフェ離宮、そしてイスラム時代の旧市街アルバイシン地区は1984年、世界遺産に登録されました」となっていた。「由緒正しいガイドブック」のアルハンブラの書き出しは「A MAGICAL USE of space,light,water and decoration characterizes this most sensual piece of architecture.」と格調高い書き出しとなっている。

イスラムのナスル朝が建てたこの宮殿は別名「水に浮かぶ宮殿」、「雲の上の守り神」、「世界の花」とも言われていて、僕には華やかというよりは落ちついた涼しげな風情を感じた。イスラム建築は前日のセビーリャのアルカサルで予習していたので驚きはしなかったが、風通しのよさそうな作りといい、遠く3,000m級のシエラネバダ山脈から引かれている豊かな水といい、涼しげな回廊も何もかも真夏を想定して建てられた作りであることは間違いなさそうだった(写真左下のように室内にまで小さな噴水があった)。


アルカサルと決定的に違うのは純粋なイスラムの建築であるという点と、建物が丘の上に建っている点で、窓からは谷を隔てたアルバイシン地区が望め、景色が良く、窓からは前日ライトアップされたアルハンブラ宮殿を見た朝日を浴びたサン・ニコラス教会が良く見えた。

工藤君との待ち合わせにはまだ時間があったので、どこかにイスラム模様のタイルの破片か漆喰でも落ちていないかキョキョロして歩き回ったが、残念ながら収穫は無かった。

ヨーロッパ最後のイスラム王国ナスル朝は800年間も続いたが、カスティーリャ王国のイザベル女王とその夫アルゴン王国のフェルナンド王が指揮するレコンキスタ(キリスト教徒国土回復運動)軍に降伏して最後王様ボアブディル王が城門の鍵束を渡したのは1492年。コロンブスが「インディアス」(新大陸)を発見した年でもある。
日本ではちょうど室町幕府の将軍で銀閣寺を建てた足利義政が死去した頃で、アルハンブラは銀閣寺と同時代の建物と言う事になるが、僕は大理石・レンガ・しっくい製のアルハンブラが当時の美しさを保っている事よりも、木と紙でできている銀閣寺が現在もそもまま残っている事に妙に感心してしまった。

僕は一通り見学しようとふらふらしていると、日本人のおばちゃんに「出口はあっちですか?」と聞かれた。僕は海外で必ず日本人観光客に道とかを聞かれる。デパートでも係員に間違われるのでよっぽど日本人面をしているのだろう。

見学が終わると、獅子のパティオ(写真下)に面した回廊に置いてあった背もたれが革張りの左右に折りたたむ木製の椅子に座って(写真下の中央の水盤の右上の柱の向こうの壁沿いに、かすかに椅子が写っている)工藤君を待ったが、この間も続々と日本人観光客が3団体も入ってきて。皆さん思い思いのポーズで記念写真を撮っていた。


僕は回廊の椅子(左右からたたむ折り畳み式)に座って、しばらく124本もある大理石の柱がある回廊に囲まれたパティオの雰囲気を味わい、またパティオの中央にある水盤を背負った大理石でできた12匹の獅子の口から落ちる水の音を聞きながら(昔は水時計だったそうだ)、僕はこの回廊を真夏の光の中で見たらどう変わるのだろうか、と考えながらぼーっと待っていた(結局30分待ったが名所の一つの場所に30分もいるなんて自分の性格ではやろうと思ってもできないので貴重な待ち時間だった)。

しばらく座っていると、いきなり目の前に紺色のウールのコートを着たスペイン人のおやじが立ち、何だろうと思っているとそのおやじは日本人観光客のスペイン人ガイドで、
「皆さん、この椅子を見て下さい」
と言いながら他に3つも椅子があるのに、よりによって僕の座っている椅子の隣の椅子をステッキで指して言った。あれよあれよいう間に僕の周りに日本人観光客が20人位も集まってしまい、僕は観光客に囲まれてしまった。ガイドは続けて
「この椅子の背もたれは何でできているでしょう?わかりますか?これは牛の革です。牛はスペインではバカと言います。つまり、この椅子はバカです!(一同アッハッハ!)」
僕はもう少しでバカ!と答えそうになってぐっと耐えたが、しょうもないジョークに一緒になってへらへらしてしまった。とにかくなんでもいいから早くいなくなって欲しいと祈っていたら、いなくなる直前に
「このバカの革は高いです。あの有名ブランドのロエベです」
などと言っていなくなるもんだから、集団が去った後も若い女の子が3〜4人も残り、交代でスリスリと隣の椅子の背をなでて行ったので最後までムッとした。

 その後再び静寂があり、入口にまた観光客軍団が襲来したと思って見ていると、パティオの入口にある「彫り飾りの間」の人混みをすいすいとすり抜けて工藤君登場。彼はホテルから歩いて丘を登って来たそうで、勢いがついてしまってチケット売場を通り過ごしてしまいそうになったそうだ。
待ち合わせ後、記念撮影やバカな解説の話しをしながら
「お客様 あちらに見えますのがアルバイシン地区でございます」
などとガイドのマネをしながら見て回ったが、日本のおばちゃんが、王様がお妃様の誕生日プレゼント用に作って贈ったという高い立木の下の低い植木を立方体風に刈り込んだ壁に囲まれ中央に噴水を配した由緒正しいリンダラハ庭園を見ながら「この程度の庭なら素人にでも作れそうだわ」などと言っているのを聞いてしまい“どこから来るのかその自信”と驚いてしまった。「だったらお前作ってみろ!」。

アルハンブラ宮殿は実は複合建築群で、遠くから見ると1群の建築に見えるが、大きく分けると9世紀の王宮跡の遺跡「アルカサバ」、イスラムのナスル朝時代の王宮「アルハンブラ宮殿」、グラナダ王国滅亡後に建てられた「カルロス5世宮殿」に分かれている(左の画像はアルハンブラ宮殿の柱の上部=柱頭/とうちゅう)
アルハンブラにあるキリスト教建築には全く興味が湧かなかったのでイスラムのナスル朝の王宮だけ見たが、全部見学すると最低半日はかかりそうだった。
前日遠くから見た高さ42mの四角い「コマレスの塔」は、内部がイスラムの王が外交使節と謁見したという「大使の間」になっていて、天井が高い四角い部屋で床に小さな噴水付きの水盤がはめ込まれていた。ここは壁一面に浮き彫り(アラベスト模様)が施されていて窓が塔の上の方にだけある。昔は使節が暗い部屋に入って目が慣れなくて戸惑っている姿を王様が王座からじっと見ていたそうだ。

アルハンブラ宮殿はこの「大使の間」の他に「ライオン=獅子のパティオ」、「アラヤネスのパティオ」、「2姉妹の間」が見所としてはあり、どこも床はかつてはカーペットが敷かれていたであろう冷やっとした質感の大理石で、壁の下1/4はタイルモザイク(彩釉タイル)、上3/4は象牙色に近い白い漆喰に浮き彫り装飾、天井は「鍾乳石飾り」、「寄せ木細工」または太い木の梁が渡してあった。

宮殿を出るとアルハンブラ宮殿で一番古い「パルタル宮」前の庭に出る(写真左)。
パルタルとは屋根付き回廊の意味だそうで、手前の長方形の池の向こうに屋根付き回廊があり、回廊は丘の際に建っているので回廊のアーチの向こうにアルバイシン地区の風景が見えた。パルタル宮の前は段々畑のような「パルタル庭園」になっていて、水たまりに薄い氷まで張っているのにバラの花が少しだったが咲いていた。

我々はここでアルハンブラの側面にある谷を越えて次の目的地「ヘネラリーフェ離宮」まで10分位歩いて行った。
ここは「由緒正しいガイドブック」にはthe Generalife was the country estate of the Nasrid kingsと紹介されていたので、離宮というのは日本式の呼び名であろう。
ここからは左少し下にアルハンブラ宮殿の側面が見え、景色が素晴らしい。
ここは正方形や長方形に刈り込まれた植木の庭園が主体で、建物は多くないが「アセキアのパティオ」には回廊に囲まれた長方形の池があり、池の両側から弧を描いて池に落ちる細い水の噴水がいく筋も並んでいた。回廊の壁にはブーゲンビリアが咲き、12月とは思えない緑や花に囲まれていた、ここも強い夏の光の中で見てみたかった。

ここでアルハンブラの見学は終わったが、最後に階段の両側のてすりが幅15cm位の水路になっていて、水が滝のように流れている場所(The Escalera del Agua)があって、改めて水の豊かさを実感させられた。
我々は歩いて丘を下り、門の上にザクロ(アラビア語でグラナダ)の彫刻が3つ並んでいる「グラナダスの門」をくぐってホテルにもどり、タクシーでグラナダ駅に向かった。
前日の夕方の5時半に到着し、翌日の昼の12時半には次の都市に向かってしまうというスケジュールは、いくらなんでも僕でももったいないと思った。せめて到着日の翌日の夕方まで、欲を言えば2泊はしたかった。また、アルハンブラ宮殿のパティオを真夏の強烈な光で見て回廊や部屋の涼しさを体験し、大理石の上を素足で歩いてみたかった。

「世界遺産」のビデオはグラナダについて次の言葉で終わっている。この言葉を引用してグラナダを終了したい、
「イスラムの栄華と悲哀に満ちた中世の面影を留め、きょうもグラナダの街を見おろすアルハンブラ宮殿。
20世紀のスペインを代表する学者アソリンはこんな言葉を残しています。何度グラナダを訪れてもグラナダは何も変わらない、ただ一つ変わったとすればそれは自分の中に流れた歳月だけである」。

グラナダ駅にはジブラルタルの海峡の街アルヘシラス行きのRENFEの「アンダルシア・エキスプレス」の出発の30分位前に着いたので、チケット(2,325Pts)を買ってから駅の待合い室のようなカフェでお茶をした。
僕は平べったいアップルパイ(車内販売があると思ったのでパイしか食べなかったが、車内販売が無かったので結局お昼ご飯はこれで終わってしまった)とカフェ(エスプレッソ)、工藤君はカフェだけで休憩。出発は12:40で到着は17:19なので4時間40分の長旅なのでアグアも買い込んだ。カフェからは直接ホームに出れるようになっていて、改札を通らなくてもよいのかと思ったが、良く考えるとスペインでは地下鉄以外では改札は通った事が無かった。車内でキップを車掌さんがチェックするだけだ。

ジーゼルの「アンダルシア・エキスプレス」(写真左上)は、途中までは前日グラナダまで来た時と同じコースを東に向かって走り、途中から南に進路を変えて一路ジブラルタル海峡までひた走ったが、ただただひたすら荒涼とした風景が続き、またまた工藤君が砂漠風の風景(写真左下)を見ると「砂漠だー」と言い、牛(バカ)を見るとどちらともなく「バカバカバカバカ!」「どいつもこいつもバカばっかし!」と言って内輪で受けてしまった。今から思うとしょうもない事だが何故かこの時はおかしかった。

人家はたまにしか見えず。1日数本しか電車が通らないので沿線には手を振っている子供も見えた。
なかなか着かないので、ミシュランのアンダルシアの地図(MICHELIN Espana,Andalusia-Costa del sol)で駅名を追っていると、どこかで聞いたような地名が多かった。例えばLos Angeles、スペインではロス・アンヘレスと読むが、他にもSan Diego,San Jose,Santa Barbara,Nevadaがあって、かつてメキシコの領地だった時代のカルフォルニアやネバダの大地に立ったスペイン人が、新大陸で故郷と同じ風景を見て思わず故郷と同じ名前を付けたのだろうと想像した。カリフォルニアも地中海性気候なので確かに風景が似ている。
キップのチェックの時車掌さんが「君たちが乗っている車両はロンダで切り放されてしまうので、前の車両に乗り替えなければならない」と教えてくれて、3時半頃に前の車両に乗り移ろうとして車内を移動したが、同じような人が一杯いて僕があせっていると車掌さんに「トランキエーロ トランキエーロ」(落ちつけ 落ちつけ)と制止されてしまった。
車両を乗り換えると、えらく混んでいて僕は入り口に座り込むしかなかった。この状態で2時間弱過ごしたが、乗客がどんどん乗って来て、工藤君は「お盆の帰省ラッシュの時の特急あさま状態だー」と言っていた。
途中、延々と深い緑に包まれた深い谷沿いの風景が続き、谷を越えて電車が下り始めると、元祖Los Angeles(ロス・アンヘレス)を通過した。ここが元祖LAかという目で見るとLA郊外の風景にひどく似ていた。
長い電車の旅は最後にジブラルタル海峡に突き出た三角形のとてつもなく大きい白っぽい岩山が見えて、岩山を左に見ながら海岸から離れた所をしばらく走るとアルヘシラスに到着。


アルヘシラスに着いたら、ここがアフリカへの出発点だと思うと僕の頭の中に何故か久保田早紀の「異邦人」が鳴り始め、「子供達が空に向かいー両手を広げ〜♪」とか「ちょっと振り向いて みただけの異邦人〜♪」とずーっと歌っていた。

アルヘシラス/Algecirasは全てのガイドブックに「アフリカとのフェリーの発着の玄関口」とは書いてあっても、「見るべきところは無い」と書いてある単なるのスペインの田舎街。
アルヘシラスについてはJTBの「スペイン・ポルトガル自遊自在」が一番詳しくて、写真や市街地の地図まで載っているが、見所は「モダンなデザインの市場(メルカード)」、お薦めレストランは「望海楼」という中華料理屋が1軒載っているだけ。
駅から港に向かう道があって他の乗客は港に向かって歩いていたが、我々の泊まるホテルも港に面しているので、他の乗客と一緒に15分位歩いて行った。
予約したホテル(HOTEL AL-MAR)はフェリーターミナルの真っ正面で立地条件はバツグン。値段も1泊7,500円/部屋と嘘みたいな料金。ホテルの入口付近にはアルヘシラス発のモロッコツアーを扱っている旅行代理店が軒を連ねていて、ホテルの入口が派手な旅行代理店と旅行代理店の間にあって気付かないで通り過ぎてしまった程だ(写真左はホテルの部屋から見た風景。手前がフェリーターミナル、遠くに湾をはさんでジブラルタルの「ザ・ロック」が見える)。

地味なフロントであらかじめ日本の代理店に料金を支払ったバウチャーを渡してチェックインして部屋に入ると、古いが10畳位の広さがあって文句はなかった(写真左下)。


窓を開けると目の前のフェリーターミナルが見え、その向こうに海に浮かぶような姿でイギリス領ジブラルタルの大きな岩が正面に見えた(アルヘシラスとジブラルタルはCの字の形をした地中海の湾に面していて、Cの内側の一番左側にアルヘシラスが、Cの字の書き始めの部分にジブラルタルがあるので、ジブラルタルは海越しに見える)。 

ホテルに荷物を置いて次の日の予定を検討(工藤君は電車の中でカバンについてしまったガムを取ろうと悪戦苦闘していた)。
ホテルのフロントにアルヘシラス発のツアーのパンフレットが置いてあって、見てみるとジブラルタル海峡の向こうにあるスペイン領セウタまで高速船(35分)に乗り、セウタからモロッコ領ティトゥワンまで行き、最後にタンジールからアフタヌーンに帰って来るツアーが7,500Pts(昼食付き)であったが、ツアーに参加するつもりは無かったのでフェリーのチケットだけを食事の後買う事にした。日帰りツアーがなんでまたアフタヌーンに帰って来てしまうのだろうかと工藤君に聞くと「夕御飯が出ないってことでしょうね」と言っていた。
次の日の予定が決まったので、食事をすることにして外に出た。
まず、JTBのガイドブックに書いてあった唯一の見所という市場に行ったが、行って見ると「これか?!」という程の規模の建物で、しかも所々壊れていた。「これが唯一の見所じゃあ、よっぽど何もない街なんだねー」などと言いながらレストランテを探したが、何も無し。
途中屋台から魚を焼いた懐かしい臭いが漂っていて、さんまを焼いたような臭いだったので、工藤君に「ポルトガルではさんまを焼いて食べるらしいけど、ここはポルトガルに近いから売っているんだ」と言って、少しばかり興奮した。商店街もあったがごくごく普通の田舎町の商店街と言った風情で、
僕が「なーんも無い」
と言ったら工藤君は
「いかにもスペインの地方の街という感じじゃないですか、まあこんなもんでしょ」
と言っていた。なぜか時計屋、靴屋、貴金属屋が多く、モロッコから買い出しに来る客目当ての店なのだろうと思った。
少し歩いてカフェに入ったが、食事がしたかったので奥の殺風景なレストランテに入りセルベッサと僕は白身魚のフリッター(フリートス)、工藤君はいかのフリッターを注文した(1,200Pts/人程度)。工藤君は食べている途中でテレビでサッカーの試合が始まったのでずーっと見ていた。

帰りにお金を降ろして来る時見たいわしの焼いた臭いのする屋台を見ると、臭いの元は実はたこの足で、たこ足焼きだった。しかし生っぽかったので買うのはやめたが、屋台の近くにほとんど食べていない足が捨ててあったので買わなくて正解だったのだろう。
街は見るべきものは無いので、フェリーターミナルまで行って次の日のフェリーの時間を調べてチケット(
Euro Ferrys 9:30発、往復7,300Pts。チケット売場でも+600Ptsで食事付きで高速船に乗れるぞと薦められたが断った)を買って、とっととホテルに帰って寝た。
工藤君はユーロ・スポーツ・チャンネルで食事の時に見ていたサッカーの試合のダイジェストを僕が寝た後も見ていたようだ。


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