98年12月7日(月)

セビーリャからグラナダへ

朝はマドリッドと同じで日が昇るのは8時半。
僕はパティオに面したカフェで朝食。真っ青なテーブルクロス越しにパティオを眺めながら若いシェフが作ってくれたオムレツを食べた。目の前のテーブルに座っていた熟年夫婦の高そうなミンクの毛皮をそでを通さないで着ていた奥様は、ビッフェ方式の朝食なのにスペインの朝食の定番の揚げパン(チュロス。ディズニーランドの屋台で売っているものより2倍位太い)だけ取って、ホットチョコレートにひたしながら食べていた(実はこの食べ方はスペインでは朝食の定番)。

この日はスペイン国鉄RENFE(レンフェ)のTRDというタイプの特急でグラナダまで車窓の旅をする日(セビーリャ14:30発-グラナダ17:30 着。TRD1等で4,700円、郵船トラベルで購入)。出発が2時半だったので、午前中一杯はセビーリャの街をもう一度ぶらぶらすることにした。

最初に行ったのはホテルの隣にある今はセビーリャ大学になっている「旧王立タバコ工場」。ここはビゼーの「カルメン」でジプシーのカルメンの勤め先でドン・ホセとの出会いとなっている場所で、行ってみると1757年建造のゴシック様式の建物でまさかと思う程立派な建物だった。タバコ工場をしのばせるものは塀の所々にはめこまれたタバコ工場と書かれた白地に青と黄色のプロヴァンス風の配色のタイルだけだ。
この日は本来であればムスレム(イスラム)風王宮アルカサルを見学するはずだったが、月曜日は休館日なのでせめて「獅子の門」だけでも写真に撮ろうと思って行くと(写真左下)、ライオンが描かれたタイルがアーチの上にはめ込まれた渋い赤い色の外壁の門の前に見学者の列があり、並ぶとラッキーな事に入れてしまった。


どうもこの日は日曜日の憲法記念日の振り替え休日の特別開館日だったようで、これはもう単なるラッキーとしか言いようのない偶然だった。

アルカサル/Reales Alcazaresは8世紀に建てられたイスラムの要塞を歴代のキリスト教の王が改築したイスラム-キリスト教建築が混在した旧王宮で、特にキリスト教の王様ペドロ1世(残虐王の異名があり、暗殺された)が1364年(イベリア半島最後のイスラム王国=グラナダ王国滅亡の118年前)にアルハンブラ宮殿を作った職人(キリスト教に改宗した人をムデハルと言う)をわざわざ呼び寄せて作らせたイスラム建築は「ムデハル様式」の代表作と言われているそうだ。

門の上にアラビア文字の装飾文字で「アラーのみが勝利者である」と書かれた「ペドロ王の門」からイスラム風建築に入った途端、僕の頭の中はTBSの「世界遺産」のテーマ音楽がエンドレステープ状態でかかり、緒方直人のナレーションまで聞こえてきそうだった。
初めてみるイスラム建築は他の建築様式とは明らかに違い、特に砂漠の民にとっては命の次に大事な水をうまく室内やパティオに引き込んでいたのは他の建築様式にはまったく見られない特徴だった。
イスラム建築の建物は、外見は素気ない土色の箱形だが、内部には必ずパティオ(中庭)があり、パティオの中央には水盤付きの小さな噴水や長方形の池があり、その周りを白い小石で敷き詰め、回廊が囲んでいる(写真下)。
回廊は大理石の柱の上部をイスラム独特の逆裾広がりの浮き彫りを施した「柱頭」で飾り(影がやしの木に見える)、その柱と柱の間を弧を描いたアーチで結んでいるイスラム独特の様式だ。

アルカサルには、「乙女のパティオ」、「大使の間」、「人形のパティオ」等々見所は多いが、特に「大使の間」が素晴らしく、壁は赤や緑や紺色のモザイクタイルと金色のイスラム風浮き彫りで飾られ、天井は星型多角形の寄せ木細工で作られ、その周りを金色の小さな突起が連続している「鍾乳石飾り」で花びらのように囲んでいるという、なんともイスラム風な作りで、細かい細工がびっしり施されていて見事だった。多くの部屋の床は、ひやっとしたベージュ色の大理石(大理石の色としてはマーブルと言う)でできていて、屋内にまで小さな水路があり、部屋の中央の床には深さ5cm位、直径1m位の白い大理石でできた浅い小さな噴水まであったのには感心した。水は重要なインテリアだったのだろう。そして水を引き自由に使えることが権力そのものだったのだろう。 
  

僕は、ここの土産物屋で白地に緑色や青い色の幾何学模様のイスラム風タイルと同じような模様のタイルでできた円形の鍋敷きと思われる物(写真下右)、それと金属でできた4〜5cm位のヒラルダの塔のミニチュアとマリア様の飾り(写真下中央)を買い、工藤君は先回の南仏ツアーで「由緒正しいガイドブック」として重宝したガイドブック(イギリスのガイドブックEYEWITNESS TRAVEL GUIDESの「SEVILLE & ANDALSIA」版。由緒正しい場所だけを載せていて、由緒正しい都市はお薦めのディープなお散歩コースまで載っている。日本ではタビト旅行ガイドとしてプロヴァンスやパリ版は出版されているが、アンダルシア版はまだ出版されていない)を買った(写真下左3,600Pts)。

   


我々はアルカサルで出口が見つからなくなってしまった。早くホテルに帰ってチェックアウトしないとへたをすると室料の1/4とかを取られてしまうので少しあせった。パームツリーが繁っているオアシス風の庭園の中をうろちょろしてやっと外に出て、ホテルに帰ってチェックアウトして荷物をクロークに預けてから昼食に行った。
前日夕ご飯を食べたサンタ・クルス地区に行ったが、1時だというのにどこもガラガラ。カフェでは椅子を並べて開店準備をしている店まであった。ラテンの国では2時からが昼食時間なので、すべての時間が2〜3時間遅れにシフトしていると思えば合点がいく。

ちょっとふらふらした後、前日に工藤君がリサーチした店を覗くとどこもガラガラ。
電車の時間が決まっていたので、あまりうろうろできないので小さなレストランテ(La CUEVA)に入ったが、我々が一番乗りだった。二人共オーダーはメニュー(定食の事)。
メニューの内容はサラダ、ガスパッチョ、パエーリャ、そしてデザートはフラン(大甘のカスタードプリン)。2日続けてガスパッチョを飲むとは思わなかったが、スープと言っても結構な量なので黙々と飲んだ。サラダはオリーブオイルとワインビネガーを自分でかけて食べるスタイルで、これもラテンの国ではあたりまえのスタイルだが、ボトルに入っているドレッシングに慣れている僕にはやはり新鮮で、びっくりする程おいしくはないが、ワインビネガーの酸味と風味が独特で何度経験しても新鮮だった。
デザートのフランはスペインではあたりまえのもので、外見はプリンだが甘さが5倍。食後のカフェは工藤君に言わせると「普通」だが、僕にはやはり濃かった(メニュー、アグア1/2、税金IVA7%込みで3,264Pts/2人)。

食事をして中世そのものの路地に出ると、ヒラルダの塔の24個の鐘がハーモニーとは無縁のカーン、ゴーン、カラカラカラといろんな鐘の音を混ぜたような音で鳴っていて、この 時は音と映像が記録できるビデオを欲しいとつくづく思った。独特な音付き画像なら1分づつ30回という録画をしても十分楽しめるような気がした。(左の写真は12月だというのに屋外で咲く大輪のハイビスカス)。
ところで、アルカサルでも前日のヒラルダの塔でも写真を撮ったが、僕が持っていったNikonのプロネアというAPS一眼レフカメラはNikonの最高級カメラのF5と同等の機能を持っている良くできたカメラだったが、機能が豊富すぎて使いこなせなかった。
例えば露出とシャッタースピードは基本的にマニュアル設定とアドバンスド設定があって、アドバンスド設定の場合はポートレート・記念写真・スポーツ・風景、マクロ(クローズアップ)・シルエット(夕焼け)モードの6つのモードがあってそれぞれ最適な露出とシャッタースピードがあらかじめ設定されているが、あるモードで撮った後基本的な風景モードに戻し忘れる事が多く、ヒラルダの塔をマクロモードで撮ったりオレンジの樹を夕焼けモードで撮ったりしてしまった。なぜか撮った後に気づくことが多くで悔しかったが旅の終わりの頃には写真を撮る前にモードを確認するようになった。できあがった写真を見ると(素人目には)それほど変ではなかったが、重くて大きいカメラをわざわざ持っていったのにどうも豚に真珠のような気がした。しかし一度一眼レフの写真に慣れてしまうとコンパクトカメラの画質には満足できないので、困ったものだ。

セビーリャには約1日滞在したが、キリスト教とイスラム教の世界遺産にもなっている建築とスペイン大航海時代のなごりが見れ、またコンパクトな街なので回りやすく、オレンジの街路樹や観光客用の馬車が古い街並みに合っていて雰囲気があって良いと思った。
この日はセビーリャからは3時間かけてグラナダに移動する日で、ホテルで荷物をピックアップしてセビーリャ駅までタクシーで移動した。
RENFEのTRD(写真左)は特急で、これまた荒涼とした大地を約3時間かけてひたすら東へ移動した。AVEと違い高速ではなかったが、ユーカリの大木が見えたり途中白い岩がむき出しになった山が見えた位がAVEから見た風景との違いで、荒涼とした風景が増えたが大差はなかった。途中砂漠かと思うような乾いた風景(写真右下)まであって、アフリカに近づいた事を感じさせる車窓の旅だった。こんな場所に線路を引いたり道を作るのはさぞかし簡単だろうと思わせる風景だった。

僕は日記を現地で書くために持ってきたNECのモバイルギア(WIN CE1.0版)で日記を書いていたが(結局面倒臭くてグラナダ到着までしか現地では書かなかった)、工藤君は砂漠のような赤茶けた風景を見ると、CCレモンののCMを条件反射で思い出すようで「砂漠だー」とパブロフの犬のように言っていた。また、牛(スペイン語でvaca/バカ)が見えると、
「スペインはバカばっかりだ!」
「どいつもこいつもバカばっかし!」
とか
牛が一杯いると「バカバカバカバカ!」とか言って内輪で受けていた。周りの人にしてみれば「牛牛牛!」と言って2人で笑っているわけで、相当変な東洋人に見えたに違いない。

グラナダ到着の車内アナウンスは到着の15分も前にあったが、ここで「ラテンの法則」を実感させられた、乗客が出口に並び始めたのだ。これはAVEでも同じで、せっかちな僕でもなんで今から並ぶのか不思議な位のタイミングから並ぶ。血が騒ぐのか「とにかく他人より早く外に出る」ことに意味があるようで、普段のアバウトな気質がウソのようだ。工藤証言によるとイタリアでも同じだったそうなのでラテン共通の気質のようだ。


グラナダ(人口約30万人)には定刻通り5時半過ぎに着いたが、ちょうど日没直前のオレンジ色がかった太陽の光が横から街を照らし写真撮影にはもってこいの状況だった。
ホテルまでタクシーで行ったが(支払いの時、タクシーの運ちゃんのおじさんに日本語で「ありがとう」と言われたので、「デ・ナーダ」=どういたしましてと言ったら喜んでいた)、タクシーで行く途中やホテルの部屋からちらっと見えた丘の上のアルハンブラ宮殿は西日を浴びて赤みがかったオレンジ色に輝いていて、まさに今が絶好の見物・撮影時間。大慌てでホテルにチェックインして荷物を置き、「由緒正しいガイドブック」に From here the view over amaze of rooftops and the Alhambra glowing in the sunset is magic.と紹介されていたイスラム時代から続く旧市街アルバイシン地区にあるサン・ニコラス教会へタクシーで駆けつけた。
教会前の広場に着いて階段を駆け上がったが時すでに遅く、輝きを失った
アルハンブラ宮殿が谷のような川を隔てて対岸の丘の上に同じ位の高さの場所にそびえていた。しかし幸い残照が残っていたので「これがあのアルハンブラか」としみじみ思わせる眺望だった。

写真撮影にはあまりにも光が足りなかったが、換えの明るいレンズも持って来ていたので、石造りの手すり(というか低い塀、高さ60cm位)にカメラを置き、地面にはいつくばってアングルを決めて撮影した。(この時撮った写真は意外と明るく撮れていて意外だった。しかし宮殿の土色の壁を照らしていた夕焼けの残照の淡いオレンジ色は全く写っていなかった。写真左)。

完全に日が落ち、アルハンブラは闇に包まれてきたが、サンマルコ教会前には見物客が一杯残っていて、なぜだろうと思ったが、ライトアップ待ちだとすぐわかって我々も教会脇にあるBAR KIKIというなぜかハワイのFMステーションの局名がついたバルの店先にあるテーブル席でカフェを飲みながら待つことにした。
しばらくして見てみると、ライトアップが始まっていて残照で見る遠景とはまた別の姿を見せてくれていた。これまた地面にはいつくばって写真をとった(この時撮った写真は手すりに置いて撮ったのに手ぶれでボケていた)。
イスラムの宮殿は外見は単調な四角い土色の建造物なので、遠くから見るアルハンブラ宮殿も四角い箱型建造物群だったが、高さ42mの四角いコマレスの塔がひときわそびえ立ち、その中で宮殿に隣接してキリスト教徒が建てた教会の三角の尖塔が景観のアクセントになっていた。

大慌てのアルハンブラ遠景見物の後は、アルバイシン地区を歩いて降りることにして石畳の坂を下った。
来る時は冗談みたいな狭い石畳の道をタクシーで走っただけなので良くわからなかったが、歩いてみると確かに古い街並みで、門の上部にイスラム風の装飾が施された家が残っていた。また石畳の道の中央が浅いV字型にくぼんでいて溝になっていた、これもイスラム時代のなごりのようだった。
狭くくねくねした道を下っていくと、狭いけど賑やかな通りに出たので、僕がお腹がすいて歩きながらマラソンのかけ声のように
「レッツ ハバ ディナー レッツ ハバ ディナー レッツ ハバ ディナー」
と言っていたので、アラームが点灯した田中が良く検討もしないでレストランテに入る事を警戒した工藤君は、とりあえずバルに入ることを提案してバルに入った。
しかしカフェ・バルだったのでつまみはタパスとして出た塩漬けのオリ−ブとアホ(にんにく)だけで、後はケーキ類しかなかったが腹の足しにとランチのデザートでも食べたバカ甘いフラン(プリン)をセルベッサを飲みながら食べた。
カフェ・バルの後は歩いて新市街にあるホテルにもどり、2人でホテルからバスで連れていってくれる9時半スタートの「アルバイシン地区ミニ観光付き、洞窟タブラオフラメンコツアー」を予約した後食事をすることになった。とりあえずレストランテを探したが、なかなかラテンの法則に合う店が無く、歩き回っていると幅2mも無い道沿いに土産物屋がびっしり並んだ路地を発見。ここで僕はスペインに来て買い物をしていないことに気づいて購買意欲がムクムクと湧いてきてしまった。
食事は探し回ったあげくお客がそこそこいるピッツェリア(PIZZERIA ALHAMBRA)に入った。ここでは工藤君は牛肉、きのこ、白くてホタテみたいな食感もするヤシの芽(パーミット?)入りの「バカなピッツァ(PIZZA ALHAMBRA)」、僕はマルゲリータ(PIZZA STAGIONI)をオーダー。マルゲリータはファーストフード風だったが、工藤君の「バカなピッツア」はなかなかの味だった(セルベッサを飲んで5,190Pts/2人)。
僕はここで疲れているし、買い物もしたかったので結局帰りが深夜になってしまうフラメンコをやめて買い物を選び、一緒に食事した後別行動という事にした。

食事の後、僕は工藤君と別れて自分用のおみやげ探しに没頭。
狭い路地にみやげ物屋が集中しているあたりをふらふらしたら、少し高級そうな店の入口のガラスケースにシルバーっぽいものが一杯飾ってあるのを発見。早速覗いてみると銀製のアルハンブラ宮殿の獅子のパティオの噴水のミニチュアがあるのを発見。12匹のライオンが噴水の水盤を背負っているデザインで、厚さ3cm四方が12〜3cm位の緑色の磨いた石の台までついていた。
僕がじーっと見ているとおばちゃんが「ジス イズ スターリングシルバー」と言ってガラスケースの鍵を開けて見せてくれた。かなり良い出来なので値段を聞くと、電卓で9,900と打つので、スターリングシルバーで9,900ならかなり安いので早速値切り交渉を開始。するとおばちゃんが9,000と打つので、他の小物を2つおまけでつける事を承諾させて9,000Ptsで合意。
早速10,000Pts札を出してニコニコしていると、おばちゃんの様子がどうもおかしいので何だろうと思って念の為もう一度電卓で9,000と押すと、
「No No No No(ノノノノノ)」
と言いながら90,000と押すので、今度はこっちが
「オウ!ノノノノ ノ」
と言ったが、ここで僕は勘違いをしていたことに気づいた。最初に値段を聞いた時おばちゃんが電卓で押した9,900は99,000の見間違い(あるいはおばちゃんの押し間違え)で、値引き交渉の時の9,000は、おばさんは99,000-9,000の意味で打っていたのだ。
僕が間違いに気づいて、99,000円もするものを土産物屋に置いておくなよなあ、という顔をしているとおばちゃんは間髪入れず
「アメックス オーケー」
と笑顔で言ったが、こっちはさっきまでの電卓による商談はなんだったのかと憮然としているのでそんな誘いに乗る訳がない。
しかし、僕は既に購買意欲全開の「サムバディー ストップ ミー状態」だったので、一番いい場所に飾ってあったハーレムと思われる部屋にたたずむイスラム女性の絵が入ったイスラム風の額(高さ30cm、幅20cm位)、直径10cm弱の石膏でできた獅子のパティオの噴水のミニチュア、幅4cm位のハンブラ宮殿のミニチュアを買い(合計10,000Pts弱)、おばちゃんには購買意欲が満たされたのでAdios!と言って笑顔でお別れした。

一方、工藤君が行った洞窟タブラオ・フラメンコ・ツアーは、アルバイシン地区の奥にあるサクロモンテの丘にあり、ツアーは総勢20人位であちこちのホテルでお客をピックアップしてから行く形式のもので、半分位がイタリア人残りはスペイン人や国籍不明。日本人は工藤君のみというツアーで、夜中のアルバイシンン地区を歩いて観光するツアー付きだったそうだ。
ホテルのピックアップは9時45分でタブラオに入ったのが11時過ぎだったので、約1時間のスペイン語、イタリア語解説付きミニミニツアーだったようだ。
工藤君の感想は
「(ツアーは)めちゃ寒かったけど、ガイドのおっさんがなかなかおもしろかった、でもイタリア人がハイでそっちの方がもっとおもしろかった」。
タブラオは総勢10人でやっている家族経営タブラオ「La Rocioラ・ロッシオ」で、3,500Ptsでドリンク付き。お客は40〜50人位で、洞窟は幅5メーター、奥行き20メーター、高さ2メーターちょっと位のサイズで、白い壁に銅の鍋やフライパンが一面に飾ってあり、観客席は壁際の両側に椅子が並んでいるだけのシンプルな造りで、通路がステージだったそうだ。
日本人も10人位いたそうだが、日本人の中にイタリア語がペラペラの女の子(25〜6歳)がいて、周りのイタリアと意気投合していたそうだ。ショーの内容について工藤君は、
「めちゃくちゃうまいのはいなかったが、へたなのもいなかった。目の前50cmで踊るので、バイーレ(ダンサー)が回るとスカートの端がバシバシ当たるので迫力があった。ちなみにツアーガイドのおじさんが実はバイーレで、出てきて踊ったらツアーのイタリア人に大ウケだった。要はここのタブラオは踊りからツアーコンダクターまで家族で全部こなす家族経営だった。最後に観客まで10数人位交代で躍らされ、僕もみんなの前で踊り、隣のスペイン人のおやじからグッドだ、と誉められた。日本人の女の子はいやーどーしよーと戸惑っていた」。

僕はこの日はやれやれと思ってホテル(MELIA GRANADA 12,500Pst/ツイン・税7%別。明るい緑色(黄緑色に近い)のソファに緑色のカーテンと緑色を基調にした部屋で、ベットルームだけだったが20畳位あって広かった。窓の外には8畳位あるレンガ色のタイル張りのバルコニーがあって、夏は丘の上のアルハンブラ宮殿を見ながら過ごせるようになっていた(写真右は翌日バルコニーから撮ったアルハンブラ宮殿)。

ヨーロッパの夏は夜9時まで明るいのでここでお酒でも飲むのかと思った)に帰って寝たが、この日は疲れて10時過ぎにアッという間に寝てしまった(工藤君がフラメンコから帰って来たのは深夜1時過ぎ。僕は深夜4時位にあまりにも部屋が乾燥していたので起きてしまい、部屋にコップで水まきをした)。


NEXT DAY
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