98年12月6日(日)

いよいよアンアダルシアヘ、そしてセビーリャでフラメンコを観る

スペイン最初の朝は8時でも夜だった。
冬のヨーロッパで朝日が昇るのは朝8時半過ぎなので、8時過ぎまで星が見えていた。
マドリッドの標高は650mなので、夜明け直後の気温はマイナス3度で空気がキーンと冷えていた(Yahoo!のマドリッドの天気予報は
こちら)。 9時に何か食べる物でも買おうと思って街に出てみたら、歩いているのは数人、開いているのはニューススタンドのみ。マクドナルドのようなファーストフードでさえやってなかった。マクドナルドのドアにはシエスタ(昼寝)の時間(12〜14時)は書いてあったがオープンの時間はなぜか書いていなかった。
しょうがないのでホテルに帰ってルームサービスで何か食べようかと思ったが、ブレックファーストメニューは一番安いものでも2,000Ptsもしたのであきらめたが、普通のメニューを見たらコーヒーが350Pts、ホットサンドイッチが750Ptsと書いてあったので早速「 Hola! Dos カフェ アンド ホットサンドウィッチ por favor」(Dos=2、por favor=プリーズ)と英語とスペイン語のチャンポンで注文。
工藤君は朝食を食べない人だが、朝起きたらカフェがポットに入ってあったので喜んで飲んでいた。ところで、前夜電話で頼んだモーニングコールはどうなるのかと思っていたら、指定した9時30分になると電話が鳴るのではなく寝室のテレビがONになった。

この日の予定は11時にマドリッド発のスペイン国鉄/RENFEの新幹線AVE(アヴェ)に乗ってアンダルシア地方の中心都市、セビーリャまで移動するのがメインだったのでホテルでゆっくりしてから出発した。
ホテルからAVEが出発するアトーチャ駅までは、地下鉄3号線VENTURA RODRIGUEZ/ベントューラ ロドリゲス駅から3つ目のSOL/ソル駅で1号線に乗り換えて3つ目のATOCHA RENFE/アトーチャ・レンフェ駅で下車。ベントューラ ロドリゲス駅で電車を待っている時、朝10時代の時刻表を見てみると「5」と書いてあって、その時は前の電車が行ってから「2:50」と表示されていたのであと2分10秒で来るはずだったが、どうせ時間通りに来るはず無いと思っていると「4:50」に電車が入って来て「5:10」になったら出発した。単なる偶然なんだろうが驚いた。

AVE(アヴェ、マドリッド11:00発-セビーリャ13:25着 )は白い車体の下1/4と上1/4が紺色に塗られたユーロスターに似たスタイルの300kmも出る高速鉄道で、先頭車両と最後尾の丸々1両が機関車になっていた(写真右)。


乗り心地も良く快適で、我々の席は1等だったので(14,500円/人+予約手数料2,100円/件、郵船トラベルで手配)、箱に入ったお持ち帰り自由のウォークマンのイヤホン風のものが各席に置いてあり、車内サービスは飛行機と同じでドリンクサービスやハム3種類とチーズ2種類とパテの盛り合わせ風の軽い「車内食」(写真左)のサービスもあった。
スペインの新幹線の旅と言っても、車窓の風景はマドリッドを出て5分もしない内に見渡す限り何も無くなり。真っ青な青空の下に、ゆるやかな起伏の中に背が低く丸く繁ったアーモンドの木やオリーブの木が則正しく並んでいるか、何も無い荒涼とした乾いた土色の大地が続いているかのどちらかという単調な風景で、途中一カ所だけ谷を通過したが、乾いた大地をどこまでも真っ直ぐな線路が続いていた。あまりにも単調な風景(写真下)だったので日本から持って来たモバイルギアで日記を書いた。
その昔ナポレオンがイベリア半島を称して「ピレネー(山脈)の向こうはアフリカである」と言って、ヨーロッパとして認めなかったのもうなずけるようなアフリカ的な荒涼とした風景だった。

AVEは途中かつて東のバグダッドに並び西のイスラム教主(カリフ)の所在地だったコルドバに停車して、セビーリャには予定通り13時半過ぎに到着。
セビーリャはセーターは必要無い位の気温で、太陽がまぶしくておそらく20度前後はあった。朝マドリッドを出たときの気温は0〜3度だったので、夏は40度にもなるというアンダルシアの灼熱の大地は、冬でも十分暖かいようだ。
駅を出るとタクシーの車寄せの入口をふさぐように何か書かれた横断幕がかかっていて、タクシーの運ちゃんに話しかけると、「ブスブス」と言ってバス停を指したので、どうやらストをしているらしい事が理解できた。いろいろ考えたあげく、バスで行く事にして工藤君は駅の売店で市街地のマップを買ってブスの路線図を確認しようとしたが良くわからないので、結局我々はガイドブックに書いてあったエンカルナシオン広場行きの路線バスで街の中心部まで行くことにした。
エンカルナシオン広場には10分位で着き、そこから偶然セビーリャで1番有名ブランドが集まっているシエルペス通りのすぐ隣のベラスケス・ティテゥアン通りをキャリーバックのキャスターのタカタカタカという音を響かせながら黙々と歩き、大きなカテドラルの横のオレンジの樹の並木が続く大通りを経て、噴水がある広場に面したホテルに着いたのは20分後位歩いた後だった。




人口約70万人のセビーリャ(現地ではセビリアとは言わない、セビーヤとも聞こえる。Yahho!のセビーリャの天気予報は
こちら)の雰囲気は、建物の外壁が渋いオレンジ色だったり、黄色かったり白かったりと、どことなくフランスのコートダジュールのニースを思い出させる感じがしたが、真冬なのに所々に赤紫色のブーゲンビリアや真っ赤なハイビスカスの花が咲いていて、パームツリー(ヤシの木)も所々にあるし、街路樹はオレンジの木で実まで一杯なっていて、僕は南に来たことを実感してホッとした。
前日のマドリッドは序章。いよいよ今回のツアーが始まったのだ。この日泊まるホテルはこのツアーで予約したホテルの中ではとびきり高級(と言ってもツインで30,000Pts)のホテル・アルフォンソ13世(LC HOTEL ALFONSO XIII )。
1916年から28年まで12年間もかかって建造された建物は、イスラム(ムスレム)・スタイルのホテルで、国賓も泊まるというセビーリャを代表するホテルだ
(写真が外観)

早速Recepcion/レセプシオンで工藤君がスペイン語(彼は英語が堪能なのに遊びでは英語圏に行かない人で英語は仕事用のようだった)で「予約した田中と工藤です」と言って、僕がAMEXから会社に送られて予約確認のFAXを見せてチェックイン。エレベーターホールに入ると、柱と柱の間をアーチでつないだ回廊に囲まれたパティオ(中庭)があってなんともイスラムな雰囲気。
エレベーターは木製のドアを普通のドアのように手前に手で開けてから入るアンティークなタイプで、2階に上がると廊下は壁の下1/3がイスラム風の紺色を基調とした星型多角形の模様の多色タイルで装飾されていて、壁の上2/3は唐草模様風の浮き彫り(アラベスク模様)が施された白い漆喰の壁で、すべてイスラム風装飾。
部屋は2階で木製のドアを開けると、畳だったら6枚位縦に並べられる程の広い廊下があり、部屋に入るなり「どひゃ〜」と言いながらマドリッドに続き部屋を見物しながら写真に撮ってしまった
(写真は寝室)
部屋は15〜6畳弱位のリビングルームとこれまた15〜6畳弱位のベッドルームの2部屋。リビングとベッドルームの壁の色」はオリーブ色を少し混ぜたような落ちついた水色で、天井は白。天井が高いのでかなり広く感じられた。しかも室内インテリアはヨーロピアンスタイルwithイスラムテイストと言った作りで、いったいどの位広いのかと歩幅で計ってみたら、入口のドアから一番奥の8畳位もあるバスルームまで34歩もあった(計るところが貧乏臭いが、計らないと気が済まなかった^_^)。

窓を開けると狭いバルコニーになっていて、外に出てみると下には芝生と実がたくさんなっているオレンジの樹とプール(蓋がしてあった)が見えた。
正面の木立の向こうには道越しに今は美術館になっているサン・テルモ宮殿の側面。
左側にはビゼーがカルメンとドン・ファンの出会いの場所に設定した今はセビーリャ大学になっている大きな旧王立タバコ工場(立派なゴシック建築でとてもタバコ工場には見えない)が見え、立地条件も抜群だった。

ホテルに荷物を置いて落ち着いたのが15時30分頃だったが、ガイドブックを見ると世界遺産にも指定されているセビーリャの2大歴史的建造物=世界で3番目に大きいカテドラルとイスラム様式の宮殿アルカサルが日曜日は午前中でクローズ、しかもアルカサルは次の日の月曜日はお休みとなっていて、万事休す状態だった。
パリでオランジュリー美術館の休館日をチェックし忘れて見逃した事を思いだし、綿密に日程表を作ったつもりだった己のうかつさを恨んだが、見れないものはしょうがないので、きっぱりあきらめ、幸いこの日は日曜市をやっている日だったので行くことにした。しかし、工藤君を僕の趣味で引っ張り回してはいけないので18時30分集合という事にして別行動をとることにした。

僕はホテルを出て一路日曜市に行ったが、季節がらクリスマス用品(クリスマスツリーの飾りの他、キリストの誕生を祝う「ベレン人形/プレゼピオ」の部品が多かった)ばっかり売っていたので、すぐあきらめてカテドラルの外見だけでも見ようと思って行ったら、カテドラルの入口の「免罪の門」に50〜60人位人が並んでいて、どうやら入場を待っている様子なので並んでみると、やはりカテドラルに入る為の行列で10分位並ぶと門の内側にチケット売り場があり入場料700Ptsを払おうとすると「フリーフリー」と言われて入れてくれた。
なぜオープンしていて無料だったのかは不明だが、良い方に変わるのはウェルカムだ。憲法記念日の振り替え休日と聖母受胎の日にはさまれた日だったので特別扱いの日だったのかもしれない。

入り口を入ると水盤を中心としてオレンジの木が整然と植わっている「オレンジのパティオ(中庭)」があり、正面に1401年(終わったのは1519年=応仁の乱の頃から北条早雲が死去する頃まで)に建造が開始された大聖堂、周りは回廊、左手奥には1198年(源頼朝の死去の前年)にイスラム王朝が建てた塔がそびえていた(写真下が「オレンジのパティオ」から見上げたヒラルダの塔)
このヒラルダの塔はもともとイスラム王朝支配時代にモスクのミナレット(お祈りの時間を知らせる塔で光塔と言う)として建てられたもので、セビーリャがキリスト教徒に奪回された後の1400年に塔の一番上の部分のイスラム様式の飾りを十字架に付け替え、1568年には70mのイスラム様式の塔の上に38mのゴシック様式の塔(鐘を一杯つるした鐘楼)を増築したいわく因縁付きの塔で、セビーリャのお土産屋さんではこの塔のミニチュアが一杯売られていてセビーリャのランドマーク的存在。
塔は登れるようになっていて、階段ではなくスロープの登り坂を32周すると、たいした苦労もなく24の鐘がつるされている鐘楼部分(70m部分)に昇ることができて街の眺望を楽しむことができる。ここには日本人観光客が一杯いた(塔の入口はカテドラルの中の入口から入って左奥にあるが、カテドラルの中央にある金ピカの中央祭壇やその奥のコロンブスの棺に行ってから行こうとすると柵に阻まれて塔の入口には入れない。僕は入口にもどろうとしたが中央祭壇前の椅子に一杯人が座り立っている人も一杯いたので断念して結局一旦外に出ざるを得なくなってしまった。この日は無料だったので良かったが、塔に行くには入口からすぐ左に曲がって行く事をお薦めする)。

カテドラルは外から見るとさほど大きく感じないのだが、さすがに世界で3番目に大きいだけあって、聖堂の内部は広く、ゴシック様式の天井(箱型に逆V字型の天井をつけた左右対称の様式)は高かった。高い天井に1500年代のステンドグラスがありステンドグラスが午後の日を受けて輝いていた。見学者入口の正面奥にはコロンブスのお墓もある。
アンダルシア地方はヨーロッパでキリスト教化が一番遅れた地域で、しかもこのカテドラルが建設された頃はイスラムのグラナダ王国が目と鼻の先にあったので、大きい事に宗教的・政治的意味があったのだろう。建設当時セビーリャの議会は「とにかくとてつもなく大きいカテドラルを作ろう」という決議をしたというのだから、意気込みが感じられる。

ところで、このカテドラルには日本人観光客軍団が一杯いて、僕はヒラルダの塔に登る為に2度目に入場する時、観光客の後をついて歩いていたら団体の入口から入れたりしてラッキーだった(ちなみに田中さんの時と違って日本人は殆ど見かけませんでした。そのかわり、アメリカ人と思われる団体客がかなりいました by工藤)。
添乗員さんが「みんさ〜ん!こちらに集まって下さ〜い!」と一生懸命案内をしていていたので、僕は「添乗員さんも大変だ」と、どうしても添乗員さんの立場に立ってしまい、後で工藤君に添乗員さんは大変だ大変だと言っている内に、この日以来、なぜか田中・工藤はお互いを「お客様」と呼ぶようになってしまい、名所に来ると「お客様、こちらが〜で有名な〜でございます」とか「よろしいですか?お客様」とか言い合うようになってしまった。

セビーリャはこのヒラルダの塔と、グアダルキビル川のたもとに建つ黄金の塔が有名で、かつて大陸貿易の帆船が川岸に碇を降ろしていたグアダルキビル川にかかるサンテルモ橋から見る黄金の塔は、セビーリャを代表する風景だ。
黄金の塔という名前はその昔外壁に金色のタイルが張られ宝物の倉庫と監獄に使われていたそうだが、今は尖塔が付いた単なる茶色の円筒八角形の塔だ。

しかし、ニューススタンドでアグア(水)とキットカット200Ptsを買ってサンテルモ橋の途中にあるベンチでひと休みしながら塔付近の風景(写真左)を眺めると、川の向こうに見える黄金の塔と両側に生えているパームツリー、そしてブーゲンビリアの花が美しかった。黄金の塔を眺めながらひと休みした後は、今度は1929〜30年に開催されたイベロ・アメリカ博覧会の会場だったマリア・ルイサ公園の中にあるスペイン広場へ行った。

ここはU(半円)の字の塔がついた明るいレンガ色の元パビリオンの建物の前に同じくUの字の形の池があってボート遊びができるようになっていて、運河風の池と建物のコントラスが売り物のようだった(写真下、写真で見ると実物以上に良く見える)。しかし、ヨーロッパでは1929年建造の建物はその辺のアパートより新しく、70年の歳月が建物に古色を付けているので、見て損はないと思うが、「由緒正しい」度合が低すぎる。日本で言えば京都の平安神宮みたいなものである(あれも確か明治時代の博覧会場跡)。
別行動中の工藤君の行動は「カテドラル〈ヒラルダの塔〉→サンタ・クルス街→サンフランシスコ広場〈日曜市のところ〉→マグダレナ教会〈ちょっとサンタフェ風な造りの教会〉→ヌエヴァ広場近くのカフェ→黄金の塔、ということで田中さんとあまり変わりません by工藤」          

ホテルに一旦帰って、我々はこの日はフラメンコを観ることにしていたが、夜遅い回でないと都はるみや美空ひばり級のダンサーは出てこないらしいので、ホテルで休憩することにした。
まだ7時前だったので、9時から夕食という事にしてそれまで部屋で休憩することにした。
ぼーっとしていると、チャイムが鳴って工藤君が出てみると「あっはっは!」と笑いながら戻ってきたので何だろうと思っていると「チョコを持って来たよ!グッドナイトチョコレートだって、白人は寝る前にチョコなんか食べるのか?」と言いながら小さな金色の紙の箱に入った小さなチョコを見せてくれた。僕は「チョコ?寝る前に?」と言いながらも即食べた。
工藤君は地元のスポーツ新聞「スペインリーグでバルセロナ、デポルティボ・ラ・コルーニャに敗れる!!」という記事を読んでいたが、僕はやる事がないので横になっていたら寝てしまい夢まで見てしまった。
8時半になったので、ホテルのフロントに良いフラメンコを見せる所はありませんかと聞いてみると、Los Gallos/ロス・ガジョスという店のチケットを紹介してくれて、9時と11時半(!)の回があると言われたが、わざわざ遅い回のチケット(1ドリンク付き3,000Pts/人)を買いフロントの女性が予約の電話をしてくれた。

フラメンコの予約をしてから食事に出発。
ラテンの国では9時〜10時からが食事時間で、7時〜8時はバルでセルベッサを飲みながらタパスをつまんでおしゃべりをするのがお約束なので7時〜8時ではレストランはガラガラで開いていない店まである。ガラガラの状態で店を選ぶのは「混んでいる店ほど安くてうまい」というラテンの法則が使えないので危険なのである。
夕食は工藤君が単独行動中にチェックした地区に行くことにして、カテドラルやアルカサルがあるサンタ・クルス地区に行った。ヒラルダの塔がオレンジ色にライトアップされていて美しかったが、僕は腹ペコ状態だったのでヒラルダの塔の目の前にあったEL GIRALDILLO/エル・ヒラルディーリョという店のメニューを少し見て即入ってしまったが、「ラテンの法則」に反して、あまりにも僕が簡単に決めてしまうので、工藤君は「呆然」としていた。
法則無視もさることながら、彼は単独行動中のリサーチがパアになってしまったのだ、彼はこの時大事な事を学習した。
腹をすかしている田中にはバルで適当に軽目のものを食わせておかないと、良いレストランを探す余裕がなくなってしまう事。さらに目がキョロキョロし始めて落ちつきがなくなったら要注意という事を学んだ。この日以来僕は「僕の(と言うよりラテンの国以外の国の)食事時間」になると目の動きを見て、あとどの位保つか観察されてしまうようになってしまい、食事時間になって大丈夫か?と聞かれ、僕が「まだ平気」と言っても、工藤君は「目はそうは言っていない。キョロキョロしている」と言われてしまう事が多くなってしまい、あまりにも簡単に心を読まれてちょっと悔しかった。

スペインでの最初の夕食はセビーリャだったが、レストランの内装は白い壁で、所々に金色の額に入った絵が飾られていた。テーブルクロスは真っ青でテーブルには花や真っ白な皿がセットされていた。椅子は赤く塗られ座る所が籐で編んである地中海地方独特の木製の椅子で、店内は真夏だったらどんなに清々しいのだろうと思わせる雰囲気だった。しかし夜9時過ぎだというのに店内はガラガラだった。
メニューを注文し、選択制のメインは工藤君は、アンダルシアは揚げ魚ではスペインNo.1、という情報を入手していたので白身魚のフライのサフランスープ、僕はビーフシチューをチョイス。スープは二人共夏のスペインアンダルシア地方の代表的な野菜スープ・Gazpacho/ガスパッチョ(アンダルシア地方の名物で、トマト、タマネギ、にんにく等の野菜と乾燥したパン、オリーブオイルを一緒にミキサーにかけて作る冷たいスープ。クルトンや角切りのきゅうりを浮かべて飲む)をチョイス。

ガスパッチョは去年の4月末にバルセロナで飲んだ時とは気候が違うせいか感動はしなかった(地中海地方は4月末はもう初夏の陽気なので行くなら4〜5月です)。
ビーフシチューはドミグラスソースを使ったものとはまったく違い、オリーブオイルと赤ワインのソースにバジルをたっぷり入れたもので煮込んであって、予想とは違っていたが肉が柔らかくておいしかった。工藤君のチョイスは魚のフライの上にオニオンやニンジンがたっぷり乗っていて、味はあっさり目だったが「とにかく量が多かった」。

レシートを見ると、MENU DE LA CASAはGAZPACHOとPAN Y MANTEQUILLAは2人共一緒。
工藤君が食べた魚のフライのアサフランスープ煮込みンダルシア風はMERLUZA A LA ANDALUZA。
僕が食べたビーフシチューはCALDERETA TERNERA。
デザートFLAN DE LA CASAが付いて3,000Pts×2。
さらに1/2BOT.VALDEPENAS AGUA MINERAL 250Pts。
僕が飲んだセルベッサ/CERVEZA COPA 40 CLは300Pts。
工藤君が飲んだCOPA FINO P.HIERRO(アンダルシアの地酒とも言えるシェリー酒)は400Pts。
CAFE 300Pts×2。これに税金IVA込みで合計8,079Ptsだった。

工藤君は後で「他に私がハウスワイン(Vino de casa)を頼んだはずですが、レシートにありませんでした? 」と言っていましたが、レシートに書いてなかったので結果的にただ飲みだったようだ。

食事が終わるといよいよレストランから歩いてすぐのLos Gallos Tablao Flamenco/タブラオ・フラメンコ(ステージ・フラメンコ)へ(写真下は翌日撮影したタブラオの外観)

着いてみると、石造りの暗いシーンとした旧市街の一角に11時だというのに20人位の列ができていて我々は出遅れていた。店内はさほど広くなく、椅子をきちきちに詰めても70〜80人位しか入れなさそうだった(チケットは3,000Ptsで1ドリンク付き。僕はコーラ、工藤君は白ワインをオーダーしたが、来てないよと1回アピールしたが「わかってる、心配すんな」という顔をするだけで、結局ドリンクは出て来なかった。やはりラテンはアバウトである)。
僕はフラメンコは初めてだが、工藤君はフラメンコのビデオを4本ももっていて、日本でステージまで見に行くフラメンコファン(というよりラテン民族が好きなサッカー、モータースポーツも好きなラテンファン)だが、フラメンコの本場のタブラオで見るのは初めてだったそうだ。実は日本はフラメンコの人気が高く、全国に2,000のスクールがあって5万人も習っていて、スペインにフラメンコ留学に行く人も多いそうだ。

ここのフラメンコは小さなステージに椅子に座ったギターラ(ギタリスト)と黒いスラックスと白い Yシャツを着たシンガー(カンテ。独特のリズムの手拍子付きで歌う)が2人並び、バイーレが踊るスタイで、バイーレは1人20〜30分位踊って5人(女4人男1人)出てきた。
最初は2人のギターラの演奏(アトラクシオン)、独特の演奏方法はまさに「弦の嘆き」。次にいよいよバイーレの踊りの始まり(クアドロ)、最初は黒髪を後ろでしっかり止めピンクの半袖で裾がフリフリになっているドレスを着た若い女性バイーレが登場。右へ左へと体操みたいに飛び跳ねていたので僕はフラメンコは随分スポーティーだなあーと思っていたら、工藤君は随分とご不満のご様子だった。

バイーレの踊りが終わるとカント(シンガー)とギターラが店内の通路を通って観客から声をかけられたりしながら一旦我々の後ろに消え、ほんの2〜3分でまたカント達が出てきて次ぎのバイーレの踊りが始まる。バイーレは交代でもカントは出づっぱりで「魂の叫び」を歌いながら手拍子をしているのだから大変だ。特に黒髪オールバックベテランおじさんカントは盛り上げの演出を歌と手拍子のテンポで表現していたので実質的に舞台を仕切り、バイーレに踊りの途中に「オレー!」とかけ声もかける。                                       
2人目は全身黒づくめの服を着た若い黒髪ロン毛の男性バイーレ。
力強い小刻みのステップ(サパテアードと言う)の「テクニカル」なフラメンコで拍手が多かった。
3人目は長いぼわっとした黒髪で黒いノースリーブのドレスを着た情熱的な歌付きおばちゃんフラメンコで、歌付きだったのでステージの構成としてはアクセントになっていた。
4人目はとりで都はるみ級。黒髪を後ろでしっかり止めたブルーのノースリーブのドレスに茶色い長袖のドレスを重ね着したベテラン女性バイーレで、この人は素人にも違うと思わせるフラメンコで、手先の繊細な動きと腕の動きのバランスが良く踊りが終わると大きな拍手。
5人目は大とりで美空ひばり級。栗毛色の髪を後ろでしっかり止めレモン色の長袖のフリフリの裾付きドレスにベージュのスカーフを付けた超ベテランバイーレでカスタネットを小刻みに鳴らしながらの踊りはやはり大とりだけあって渋さがバツグンで、悲しそうな顔も笑顔も良かった。踊りが終わると拍手喝采。
5人も続けて観ると、僕のような素人でも違いはそれなりにわかるようになって、特にとりと大とりおばさんの踊りはよかった。

ショーとしては、最後に女性が赤や花柄の派手な衣装に着替えて皆で楽しそうに踊って終わったが(写真左、美空ひばり級は写っていない)、僕はジプシーの踊りらしく物悲しかったり、お祭り風だったりと意外とおもしろかったので見て良かったとつくづく思った。玄人の工藤評は「最初の3人まではどうなることやらと思ったが、最後の2人を観て来て良かったと思った」というものだった。

シーンとした深夜の小さな広場や昔の王宮アルカサルの高い城壁の横の石畳の道を抜けると、オレンジ色にライトアップされたヒラルダの塔が見える場所に出たので写真に撮ろうと思った瞬間にライトアップの明かりが目の前で消えたので驚いた。
僕は街路樹のオレンジを飛び上がって1つもいでホテルに帰って寝た(工藤君は寝る前にほんの数秒だが小刻みにステップ(サパテアード)を踏んでいた。彼は「全然記憶に無いんですけど、そんなことしてました?」と後で言っていたが、寝る前にサパテアードをしている人なんて忘れる訳がないので絶対間違い無いと彼に言うと、「ふーん。全く覚えてないのはハイだったからなんでしょうか?」との事。ハイの時フラメンコを踊るなんて、なんとまたラテンな人なんでしょうと改めて感心した)。
この日も時差ボケも無く良く寝れた。



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