16. 遊牧の掟
馬を下りて休憩しているうちに、自然と「日モ対抗モンゴル相撲大会」が始まった。
私としては、前々から遊牧民の地力をじかに体感したかったので、またとない好機である。
モンゴル相撲は、土俵と言うものが存在せず、手の平や、膝をついても負けにはならない。相手を完全に倒さなければ、勝ち名乗りを上げられないので、思いのほかハードだ。
当然のことながら、遊牧民たちに勝負を挑まれたので、相手する。がぶり四つに組み合うと、ずしんとした重圧が体中に広がる。
日本の相撲だとこのまま押し切れば勝ちなのだが、土俵がないのでそういう訳にはいかない。相手を地面に倒し、完全に屈服させなければならないのだ。
私は、体力にモノをいわせこの態勢で押しつづけ、相手が疲労したところで一気に勝負に出ることにした。
がっちりと相手のデールを握り締める。
…相手の荒い息遣いが聞こえてくる。私もだいぶ疲弊しているのが分かる。
お互い息を切らせながら、相手のスキを窺う。腰を落としながら、相手を左右に振る。
汗がじっとにじむ。
次の瞬間、相手は私をぐっと引きこむと、いきなり足を掛け、投げ技に入ってきた。
私は直感的に足を踏み出し、体をひねって半ば強引に横に放り投げる。相手は、そのまま背中からドタリと落ちた。
三分間の死闘。
非常に疲れる。
ビル・ゲイツが肩で息をしながら、何か言った。
「オチコ、なんて言ってるんだ?」
「タカは力がある」
「ふむ」
「でも、テクニックがないって」
…となると、私は頭を使わずに力で押しきるタイプってことか。それでは、私は頭の悪い野生のゴリラみたいではないか。
泥だらけになったデールを着たまま馬に乗り、近所のゲルを訪問する。あちこちで、現地人に間違えられたが、異国の旅人を心安く出迎え、もてなしてくれた。
寒波で死んだ家畜の死骸は、依然として死屍累々とあるというのに、遊牧民たちは、例外なしに見ず知らずの異邦人を優待してくれる。
せっかくの好意を無にするわけにもいかず、少々複雑な心境だ。
オチコが言う。
「訪問先で出された食事を食べないことは、最大の侮辱になるんだ。たとえ、それが遠慮であったとしてもね」
―― モンゴルには、通りかかった人を饗応し、また通りかかった人は饗応されねばならない暗黙のしきたりが根づいている。
もてなしをすることも、また受けることも、この国ではそれが慣例となっている。
食糧不足。貧困。敵。味方。知人。客人。彼らにとって、そんなちっぽけな観念は全く介在しない。例えば、かのチンギス・ハーンの父、エスゲイは、敵対していた部族の宴会に通りかかり、それを知りながらもに宴会に参加したがために、毒殺されている。
モンゴルの歴史的背景を鑑みれば、数え切れぬほどの民族が、無数の対立抗争を延々と繰り広げてきたわけであって、そう行った慣例もお互いの敵愾心のなさを示すために生まれたものではないかと思われるのだ。
また、次の目的地を目指し、車で移動していたときに、たまたま引越し中の家族に出会ったことがあった。
彼らは、車内にいた私たちを手招きするので、私たちは下車し、誘われるまま円座になって座ると、アルヒ(モンゴル式の自家製蒸留酒)とご馳走を振舞ってくれた。
私たちは、そのまま彼らのゲルの組み立てを手伝うことになったが、これがなんとも自然な成り行きであった。「手伝ってくれ」という空気はなかったし、こちらも「手伝ってあげてる」という感じがしない。なんともこれが遊牧民の持つ空気なのであった。
行き当たりばったりに出くわした人間同士で、食事をし、ついでに家の組み立てを手伝ってあげるという行為は、相互において何の衒いもなくごく普通に行われる。
ここに、遊牧民たちの本質がある。
モンゴルには、「ありがとう」にあたる言葉はない。正確に言えば、「ありがとう」という言葉自体の歴史が浅いのだ。ありがとう、つまり「バイルララー」という言葉は、ここ数十年の内に生まれたばかりだという。
ご馳走を出すのが当たり前ならば、お礼を言わないのも当然。
ゲルの組み立てを手伝おうが、ありがとうの言葉はない。見知らぬもの同士の互助精神は、当たり前の事実であり、常識なのだ。「ありがとう」など、せせこましい言葉などなくてもよいではないか、水臭いぜ、ということなのだろう。
次のような出来事もあった。遊牧民と暮らし始めて三日目にして、ヘビースモーカーである私のタバコは、二、三本を残すのみとなった。これがなくなれば、しばらくはタバコ抜きの生活を送らねばならないのだ。
すでにアリも、ヒデも持ち合わせのタバコはなくなっていたので、自動販売機などあろうはずもないモンゴルの草原では、貴重なタバコを節約して吸うしかない。
オチコにタバコはもう持ってないのか? と尋ねると、一本だけタバコをくれた。しばらくしてもう一本貰おうとすると、次のような返事が返ってきた。
「もう、持ってないよ。さっきタカにあげたのが、最後の一本だ」
私は、ショックを受けると同時に、けちけちとタバコを節約していた自分が恥ずかしくなった。何で、自分のタバコということに固執していたのだろうか。
皆のものは、オレのもの。オレのものは、皆のもの、ジャイアン的哲学の倒置的発想なのだ。
二、三本のタバコをケチっていた私と、最後の一本をむげなく他人にあげるオチコ。その在り方を比較すると自分の浅ましい私欲感に深く恥じ入った次第であった。
深く反省した私は、一本のタバコを四人で回し吸いすることにした。『一杯のかけそば』も色あせる『一本のタバコ』である。うーむ、美談ではないか。
「ほれ、アリの番だ」
「ぷはーっ! ……」
「ちょっと待て、アリ。一人一呼吸ずつだぞ。いっぺんに二回吸うのは禁止だ。一回吸ったら、はやく俺に回せ」
なかなか、私のけち臭い感覚は拭い切れぬようである。
一日中馬に乗りながら、あちこちのゲルを回ったが、どこも知り合いというわけでもない。突然の訪問者をどこも同じように、お茶を出し、メシを出し、もてなしてくれる。
用事があろうがなかろうが、外国人であろうが、なかろうが、一向にお構いなしに歓迎してくれるのである。
仮にゲルに誰もいないときの場合はどうするのか、とオチコに尋ねると「勝手に入って勝手に茶を飲んで勝手に飯を食っていっていいんだよ、帰ってきたゲルの住人はそれを知って喜ぶからね」と笑いながら話してくれた。
おいおい、マジかよ、なのだ。
日本では、窃盗罪及び、不法侵入罪ものである。
「近所を散歩していたら、急に腹が減ってきました。たまたま民家があったので、ふらっと立寄り、誰もいなかったので、急須からお茶を注いで、ついでに戸棚の中にあったお菓子を食いました。そして、そのまま片付けもせず、その家を後にしました」
これが許される国がモンゴルなのであった。なんてすてきな国なのだろうか。
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