17. 全ては草の中に



 とりあえず野グソをすることにした(失礼)。
 そもそも、野グソとモンゴルは深い相関関係にあり、野グソなしの遊牧生活などは、サクランボのないフルーツパフェと同意である。
 ここモンゴルには、トイレというものは存在しない。一度、外に出れば、そこが便所なのだ。
 殊に野グソという行為は、私が小学生の時分、下校中にウンコ漏らしそうになって路傍の林でいたした以来だが、なかなかよろしいものである。
 実のところ、私は、「野グソ行為を人類史上至便の幸福手段とする会」の発足者にして、会長なのだが(現在の会員数は一名)、大自然のモトのクソは、なかなか野グソポイントが高く、かなり「野グソ(中略)会」選考上位にくいこむと思うのだ。

 蒼き空、風香り、馬がいななく大草原、一人ケツを出し、コトに及ぶのは得も言われぬ感慨に満ちて、実に気持ちがよい。
 只、困るのは辺りが一面まっ平らな草原であることだ。行けども行けども、この草の海原には、身を隠すような場所は存在しない。モンゴルにおける排泄行為は、衆目に曝されながらクソをするという悲壮な覚悟と決意を要するのである。

 遊牧民たちの視力は、平均「五・〇」以上という話を聞いたことがあるので、なかなか必要以上に用心してしまう。
「なぁ、あそこ見ろよ。でっけぇ日本人がクソたらしてるぜ。長い間しゃがんでるから、あいつきっと便秘だよ」
 と、遠くから指差されて、話しをされていたら困るではないか。


 二〇分ほど歩いたところで野グソを垂らし、帰ってくると、またまたモンゴル相撲大会が行われていた。
 遊牧民はヒマさえあれば、相撲を取るのである。
 ドルジバッドとメガが滅法強いらしく、どんどんヒデやアリを投げ飛ばしていた。遊牧民一家の主と、元シークレットサービスのコンビなのだ。強いに決まっている。
 ヒデとアリが交互に飛ばされていく様を見てると、なかなか爽快で気持ちよい、見ているだけだと。
 突如、ドルジバッドと眼があった。ヤな予感がする。

 ドルジバッドが、オチコに何かを言った。
「タカは、日本の空手家だから、何しても強いよ」
 オチコがよけいな通訳をする。そんな通訳はしなくていいのである。
 ドルジバッドがニヤリと笑った。
「オチコ、ドルジバッドは強いの?」
「ああ、この辺では一番強い」


 ドルジバッドが嬉しそうに言った。
「空手家は強いんだろ。オレとやろうか、タカ」
 そら来た。アジアでは、空手家は二本指でコインを曲げるだとか、ピストルの弾を避けることが出来るだとか、滅茶苦茶な空手家伝説が流布しているのだ。化け物じゃあるまいし、そんなことできっこないのである。

 やれやれ、ということで組み合うとあっさり勝ってしまった。もしかして、私はスゴイのかもしれない。願わくばこのまま勝ち逃げして、カッコよく終わらせたいのものだが、「タカ、もう一回だ!!」とドルジバッドが興奮している。
 どうもこのままでは収まりつかないようだ。もしかして、私は活きのいい格好の獲物なのではないのか。ヤな予感だ。

 二戦目になると、さすがにドルジバッドが勝った。
「もう一回、もう一回」
 ますますヤな予感だ。
 三戦目は私が勝つ。
 メガ立ちあがる。
「オレと勝負や!」
 私の勝ち。
「もう一回!」
 メガの勝ち。
 おとっつぁん、立ちあがる。
「もう一度、勝負や」
 以下、十行上から繰り返し×5

 これでは拷問じゃないか。疲労困憊もいいところだ。
 ふと、メガが口を開く。
「なぁタカ、もう一勝負しないか? 一ドルかけての、腕立て伏せ勝負だ」

 ―――しかし、何で私ばかりを指名するのだ。アリも、ヒデも、絶好の身代わりを捧げたがごとく、ホッとしているではないか。
 ここまでくると、やけくそだ。慣れぬ馬に一日中乗っていたコトと、おまけにモンゴル相撲のシゴキが重なり、体は、よれよれにくたびれきっているが、ここで、断ったら日本男児の名が廃るのだ。

「よし、受けて立つ!」
 私は、やる気満々で言い放った。よし。ここまで来たからには、やってやろうじゃないか。
 勝負は私が先手、メガが後手である。私が先に腕立てを行い、後に続くメガが私の腕立て回数を越えられなかったら、私の勝ちである。
 地べたに手をつき、いざ勝負始めだ。
「…さ、さんじゅうはち、…さんじゅうきゅう、…よ、よんじゅうぅ」
 キツい。辛い。
 しかし私はなぜわざわざ憧れのモンゴルに来てまで、腕立て伏せをやっているのだろうか。実に不条理だ。

「…くっ、…よ、よんじょうさん、…よんじょう…よんっと」
「ストップ!」
 ふいにオチコが叫んだ。
「?」
「タカ、休憩した時点で終わりだ」
「…ホントかよ! 聞いてないぞ」
「いや、それで終わりだ」
「まあ、仕方ないか」
 不本意だが、仕様がない。が、このぐらいなら、まずまずだ。きっと、メガも恐れをなしているのに違いないのである。

 メガに視線を向けると、何やらわめいている。
「オレは強い! 俺は強い! 100回出来る! 100回出来る!ウオおおおっ!」
 凄まじい気合の入れようだ。完全にイっている。

 勝敗は結局、私が負けた。メガが白目むきながら、私の記録を超えたのだ。
   しかし、よくよく考えたら、私はモンゴル相撲を連戦しているし、私の体力は既に消耗しきっていたのだ(というコトにして下さい)。
 メガを負かすなんて屁でもないさ(というコトにして下さい)。
 そういえば、旅の疲れもどっと来ていた(というコトにして下さい)。

 メガは勝利した満足感からか、疲労感からか、そのまま仰向けになったまま起きあがらない。気がつくと、ドルジバッドも体を横たえて空をぼんやり眺めていた。
 地面は家畜の糞だらけであったが、私はためらわずに、大地に背中を着けると、皆に習って空を仰いだ。陽は知らず知らずのうちに、落ちかかっていた。
 モンゴルの夕空は、近い。
 紅梅と黄金の光源が、堂々とした大空に一種の壮絶な雰囲気を創造していた。
 草原に伏したまま、ドルジバッドの方を見ると、目があった。
 ドルジバッドはニコリと笑って、唾を吐いた。モンゴル相撲で地面を転がりまわったので、口の中は砂だらけであった。服も、顔も、髪も、土まみれである。
 私だけでなく、ここにいる全ての者は、全身が泥だらけだ。
 私は唾を吐いて、笑い返すと、ドルジバッドは声高らかに笑った。

 私も唐突に笑いが出てくる。
 メガが笑いだし、オチコが笑い出し、ヒデも、アリも突然、笑い始めた。
 言葉も話せない。生活環境も違う。生まれも、育ちも、年齢も、ここにいる人間それぞれがバラバラだ。が、心を通わせるコトなど、案外簡単なコトだ。
 そうか。意思の疎通に言葉なんて関係ないんだな。私は、今更ながらに実感した。

 おとっつぁんがぽつりと言った。
「夏、草原がみどりに覆われる頃、また来いよ。待ってるから…」

 翌朝。私はこのゲルを後にした。
 また、ここに戻ってこよう。
 だんだん小さくなっていくおとっつぁん一家の影を見ながら、
 そう思った。


草の中に
身を投げ出して
柔らかい葦の茂みに
耳を傾ける

葦は風に乱れてささやき
やがて
私の目から
空を覆いかくした

私のあこがれが紡ぎだしたもの
夢は 一つの花となるだろう
私はその芳香の中で
眠りこむのだ

ヘッセの詩より抜粋・改編



なんちゃって。

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