11. 出発前夜
それにしても、ナサンのゲストハウスは落ち着く。よくぞ素性の全くわからぬ私達を、無条件に受け入れてくれるものだ。
というのも、宿主のバアちゃんは、カギを私達に預け、よくふらりと外に出て行く。「留守番は、まかせておいたから」とのことである。
おかげで、電気代の徴収員への対応も私がやってしまった(不思議と通じた)。
また、ある時なんぞ、パスポートを無くさぬよう預かってくれるというので、そのまま渡すと、バアちゃんの金の隠し場所を教えてくれ、そこにパスポートを入れてくれるのである。
アリ、広島県人バックパッカー・ヒデと私の三人で留守番していた時のことだ。いつものように、バアちゃんは私たちに留守番を頼み、そのまま外出してしまった。
一人が何気なしに口を開いた。
「ここ、オレらを信用し過ぎだよな。オレは。善良な旅行者だからいいものの、悪い奴が来たら、どうするんだろ?」
「いや、いくらなんでも、部屋にカギはかけているだろ?」
「調べてみるか?」
「…やるか?」
「やろう」
部屋を散策したが、どの部屋もカギは掛かっていない。問題は、家の金と一緒にしまってあるパスポートの場所だ。
「まさか、ここぐらいは、カギ閉めているよな?」
「まさか…ネ?」
隠し場所の引出しに手をかけると、すっーと開いてしまった。
家の金もそのままだ。
「……開いた」
「……信じられん」
「取るつもりなど、毛頭ないけど、ここまで無防備だと…」
「…なにも、取れない」
ここ、数日で全ての準備は整った。あとは、遊牧民たちの生活するモンゴル高原に出発するだけだ。
ナサンが、目的に応じて車と人員を用意してくれるというので、今夜その詳細を話し合うことにした。
しかし、それについてはちょっとした不安があった。
最近観光客も多くなってきたモンゴルでは、観光客用のゲル(中国語ではパオ。遊牧民の住む円錐型のテント式住居)に加え、観光客向けの偽者遊牧民が存在するらしい。
旅行社で手配されるツアーは、ほとんどがこれを巡る類のものなのでこんなエセ遊牧生活など味わいたくはないのだ。
これは、忍者村の忍者を見て「Oh!ニンジャマスター!」、和服姿の女性に出会い、「Oh!ゲイシャガール!」、その辺の禿山を目にし、「Oh!Mt.フジね!ファンタスティック!」と叫んでいる日本観光バカ外人客と何ら変わらないではないか。
「ナサンの言っていたサポートの話しだけど…」
私は早速、ナサンにその意向を伝えることにした。
「ああ、コースはいっぱいあるわよ。ゴビ沙漠探検、ツーリーストキャンプへの滞在…」
「いや、ナサン。そうじゃない。オレは、そういったツーリスト向けの観光はしたくないんだ。本物の遊牧民たちの生活が知りたい。そしてそれが昔からの夢なんだ」
私は、祈るような思いでそのことをナサンに伝えた。
一瞬の間を置いて、ナサンは口を開いた。
「それは、アウトサイド?」
「もちろんだ。場所はどこでもいい。本当の生活を体験したいんだ。可能かな?」
「…出来ます。出来るけど、ガス、水道、電気、トイレ、何もない生活よ」
「当然、その辺は分かっているんだ。その生活を体験するためにおれはここに来たんだから」
「…分かりました。それならば、そっちの方向で話を進めましょう」
ナサンは、ちょっと驚きつつも、喜色の表情を見せて承知してくれた。条件を付け足せば、付け足すほどナサンが嬉しそうにするのは気のせいだろうか。
さて、遊牧民との生活が実現できそうなことはわかったものの、まだ別の心配はある。二ヶ月前にモンゴルを襲い、莫大な被害をもたらした大寒波である。
ここ、ウランバートルには、影響はそれほどでなかったものの、郊外ともなれば、予測がつかない。
十数年に一度といわれる暴風雪に見まわれたモンゴルは、今だその被害を引きずっているとのことだ。
以下は、一ヶ月前の状況である。
●モンゴル寒害における被害状況
国際赤十字社連盟の報告によると、中期的予測では11県の23万8千人の住民が食料難に見舞われ、生活にも長期的に支障が及ぶと見られている。モンゴル政府が2月13日に公表したデータによると、死亡した家畜頭数は83万6100 頭にも上っている。
現在まで、人命への被害に関する情報はほとんど入っていない。しかし家畜への被害は収入減に影響するだけではなく、母体や子どもの健康に悪影響を及ぼし、病気や栄養失調の増加につながる恐れがある。
国連人道援助調整局の報告文より抜粋
「でも、心配があるのだけど」
私はその懸念をナサンにぶつけてみることにした。
「なに?」
「いま、大寒波に襲われているだろう。遊牧民たちは、その日の食料もままならないと聞いているけど、その点は大丈夫なのかな?」
「大丈夫…でしょう。NO PROBLEM! 何とかなるわよ」
何とかなる…か。思わず私は笑いそうになった。
これまでの全ての道程は「何とかなるだろう」の一辺倒でやって来たのだ。
そうか。そうなのだ。
………………。
さて。
旅程は、ウランバートルを出て、あちこちの遊牧民のゲルを泊まり歩きながら、半時計回りにぐるっと廻るもので、全五日の行程となる。
移動手段は、ロシア製ジープ。
モンゴル語は、全く解さないので、モンゴル人の通訳も雇う。英語と、モンゴル語しか話せないそうだが、一日10ドルと安く、遊牧民たちとコミュニケーションを計る為にはかかせないと感じたため、即決した。
現時点で、アリの参加は決定しているので、二人で分割できる。
「アリは、当然行くとして…、ヒデっ、行こうや! ヒデも、参加してくれるのなら、三分の一の費用で済む」
私は傍らで話を聞いていたヒデを誘った。
まだ出会って二日目だが、いろいろ話をした。いっしょにメシを食いに行ったり、お互いの夢を語ったり、持ち物を交換したりしていた。魅力的なヒトだ。単に金だけの問題ではなく、ヒデと一緒に旅もしたかった。そして何よりヒデの参加により費用が折半できる。魅力的なコトだ。
「うーん、ずっと迷っているんやけど…」
「今、何パーセントぐらい?」
「…60パー」
「遊牧民はいいぜ、自由がまっている!」
「70パー」
「どうせ、これからの予定ないやんか。絶対有意義やって!」
「80パー」
「モンゴルに来て、大草原を見ないなんて…」
「……」
「よしっ! それじゃ決定!」
「わかった、じゃあ、参加するよ」
…よし、落ちた。
「ナサン、じゃあ、三人とも参加するからこのメンバーで計画を勧めてくれないか」
「オッケー。じゃあ、一人あたり、133ドルで、決定ね」
「ナサン、ちょっと待ってくれ」
ヒデが口を挟む。
「キリのいいところで、130ドル!」
「オッケー。それで手を打ちましょう」
さすが、アジアを放浪してきた男。
アジア旅行では、買い物は値切りナシには始まらない。
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