10. 丘の上のホーミー使い
とりあえず、ウランバートル市内を一望できるというザイサン丘に昇ってみることにした。デリックがパラグライダーで滑降していった場所である。
ここから、南へ四キロぐらいの距離だというので一時間ほど歩けばつくはずだ。
道すがら、数本の川の上を通ったが、全て凍っていた。
ザイサン丘には、ザイサン・トルゴイという白い塔が立っている。今では、既に過去の事象となったが、この塔はソ連とモンゴルの友好記念碑だという。
それにしても、階段が長い。
体力だけは、知力の数倍持っている私なのだが、上るのは相当きつい。第一に、階段が階段でなくなっている。雪が凍り、段差がなくなり、滑り台状態である。
アリが何回か滑り落ちていき、ふと高度を計ると、千三百メートルを越えていた。
私は、やせガマン得意で、空手部時代に「魔の愛宕神社ダッシュ」という、神社の階段を延々とダッシュするシゴキがあったが、あれこそ私の本力発揮するところだった。
1,000段は有に越える階段を何往復もダッシュするのだが、主将である私(実力が認められて主将になった…のではなく、四年生が私一人しかいなかったので繰上げ当選)としては、何においても後輩の上に立っていなければならない。
そこで、フルパワーで階段を駆け登り、後輩たちを颯爽と追いぬき、ひそかに頂上で休憩するのだ。
この時点で既に息は上がって死にそうな状態だが、後輩を待つ振りをして、肩で息をしながら、一生懸命に深呼吸に努めるのである。
やがて、後輩たちの姿が見えたら、それまで倒れていた身をやおら起こすなり、息切れを殺し、毅然とした態度で後輩たちに言うのである。
「ぜいはぁ、ぜいはぁ。(後輩来る)……んグっ。(息を止める)…おまえら遅ぇぞ。あまりにも、遅すぎるのでオレは待ちくたびれた。バツとして、あと一往復して来い!!(後輩立去る)…ぜいはぁ、ぜいはぁ」
その日の練習日誌にはこう書かれるのだ。
「主将は偉大だ。あんなに走った後、息切れ一つしていなかった。自分も早く、主将のようになりたい。そのために日々精進します。」
体育会系はかくも馬鹿の集まりだ。
「さすが、体育会系やねぇ。タカは、息切れ一つしとらん」
アリが感心した。
「まぁね。それほどでもないよ。フフフ」
本当は、私の見栄だったりするのだが、得意げに威張っていたところに、小学生の集団がわいわいと階段を駆け登っていき、あっさり私たちを追いぬいていった。
「んぐっ、…まっ、まあ、やっぱり子供たちは元気やねぇ」
面目丸つぶれである。
頂上では、一人のおっちゃんがホーミーを歌っていた。
ホーミーとは、一人で低音と高音の声を同時に出すモンゴル独特の唱法だ。そんなモンできるのかと思われるかもしれないが、可能なのである。
一種の神々しい雰囲気さえ感じさせるこの唱法は、モンゴルでさえも使い手は限られており、いっぱしのホーミー使いになるには、数十年の修行を要すると言われている。
ホーミーが聞けるのは、ここモンゴルだけで、口でがたがた説明するよりも聞いていただいたほうがよろしかろう。
今、手元にホーミーが録音されたテープを持っていますので、御希望される方には送って差し上げます。ただし、400字詰原稿用紙2,000枚分の当旅行記感想が必要です。
尚、ただ今、レディースサービス期間中につき、女性の方はスリーサイズを銘記した顔写真、加えて熱烈なファンレターを送ってくださるならば、タダで差し上げます。
それにしても、初日からホーミーを生で聞けるとは、なんという幸運であろう。
きっと、私の日頃の行いが良いからに違いないのだ。ほれ、見ろ。アリはホーミーを歌っていることさえ気づかず、風景を見ながらたたずんでいるだけではないか。
おっちゃんのそばに座ってじっと聞いていると、突然おっちゃんの方から声をかけてきた。
「英語は、できるのか?」
「ああ、ぼちぼちだけど話せるよ」
「韓国人かい?」
「いや、日本から来た。ホーミーが聞けると思わなかったんで、感動したよ」
「ホーミーを知っているのかい? そりゃあ、嬉しいね。まだ練習中だけどね」
知っているに決まっているのだ。私は熱烈かつ純粋なホーミーファンである。
近頃、それを鼻にかけて、ホーミーのダビングテープと交換に、いたいけなモンゴル愛好家女性の写真とスリーサイズを教えてもらうというとんでもない事件が多発しているようなので、ぜひとも気をつけていただきたい。
私は、純粋なホーミー愛好家なので危険はありません。
タバコを差し出すと、左手を右ひじに手を添えて受け取った。
モンゴル式の礼節の現し方である。
「いや、俺の妻は実は日本人でね。日本はすごい好きなんだ。タバコのお礼に、日本の歌をホーミーで歌ってやろう」
北国の春だった。一時、モンゴルで大流行した唄だ。
ここからは、ウランバートル市内が一望できる。
ようやく、モンゴルに来た実感が湧いてきた。
モンゴルの乳臭い風がそっと頬をなでてくれている。
研ぎ澄まされた青空に、吹き散らされた雲がささくれ立っていた。
ホーミーが清澄な空気に再び響き渡り始めると、私は急に満ち足りた気分になり、そっと煙草に火をつけた。
と今回は、やや文学的に締めくくる。
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