9. 怪しき旅人たち



 町へ出た。
 既に日は傾きつつある。ついでに晩飯も食おう。

 外へ出ると改めて寒さを感じる。道路はカチコチに凍っている。
 道路が凍るとは不可思議な表現だが、現にあちこちに氷の幕が張っていた。
 途中見かけた身なりの良いサラリーマンは、その即席のスケートリンクの上を通るたびに、器用に滑りながら家路についていた。
 冬のモンゴルは、あちこちでスケートが出来るのである。


 モンゴルは、世界史上二番目の社会主義国だ。
 かつては入国規制が厳しく、外国人が大手を振って自由に旅行できるようになったのもここ数年のことである。
 1922年のこと、「モンゴル人民共和国」は「モンゴル国」となり民主化を遂げた。また、この年は、私が日本を代表する勤勉高校生として、文部省に招聘された時期とちょうど重なる。
 本当か?ウソだろう?との疑問は、鋭く核心を突いた疑いであるので、とりあえず割愛するが、この時期よりモンゴルは劇的な革新が進みつつある。
 加えて、「政治改革」と「市場経済」における相関関係及びその展望についてもぜひ触れておきたいが、残念なことに紙面が足りないので、ここでは伏せておくことにしたい。どうせ知らんのだろう、との声もついでながら伏せておく。

 どうしても聞きたいと言うのなら、個人的に教えてあげますので、教授料として二万円の小切手を添えて、私のところまで連絡ください。本の切抜き詳細を返信します。

 で、町は革新が行われつつある様がまざまざと目に出来る。特に、店の看板など分かりやすくて、キリル文字(ロシア語)、モンゴル文字、英語と多種多様だ。ここでは、民主化以前は、キリル文字の使用が強制化され、民族固有のモンゴル文字の使用は禁じられていたのだ。
 現地の人に聞いたところ、英語の看板などが目立つようになってきたのは、ごく最近のことだそうである。

 食のことについて触れると、ここウランバートルには妙に味付けされたメシが多い。大陸の中央に位置しているだけあって、国際色豊かなメシのアレンジである。
 西洋風モンゴル料理、中華風モンゴル料理、日本風モンゴル料理、ロシアン風、ブラジル風、インド風、マダカスカル島風、セントクリストファー・ネイビス風、関西風…と後の方は適当に言ったので本当にあるのか知らないが、変に味付けされたものが多いのは事実である。

 モンゴル初の晩飯も、なんだか気取って西洋風に味付けされていて、モンゴル料理を味わった気にはならなかった。
 値段は三品で1800トゥグリク(180円以下ね)と安く、美味かったけど、やはり真のモンゴル料理を食ってみたいではないか。

 レストランと言うよりは、食堂、食堂と言うよりは台所といった狭い店で、西洋風のモンゴル料理を食い終え宿に戻る。

 ところで、ウランバートルの中心に「たけちゃんラーメン」という店がある。ホントである。こんな僻地にしては、あまりにも怪しいラーメン屋なのだ。
 実は、ここはモンゴル人にも定評があり、有名どころである、…そのまずさで。
 一応、たけちゃんラーメンというノレンが掛かっているので、意を決して入ると、店内は薄暗く、客は皆無。スナック並の薄暗さと、ラーメン屋の猥雑さに、何故かカラオケセットもある。
 店員は、二人の女性のみ。
 ラーメン屋でカラオケを歌ってみたいという衝動にかられたが、あくまで私の目的はラーメンを食うことにある。  早速、餃子とメインのハンちゃんラーメンを注文する。
 "たけちゃん"ではなく、"ハンちゃん"というところがさらに謎である。

 ラーメンが来た。ハシを割る。食う。期待通りに、まずい。麺は延びきって、しょうゆなのか、とんこつなのか何とも判断しがたい。おまけにぬるい。麺のコシは、その微塵すら感じさせない。実に立派なラーメンだ。
 続いて、餃子であるが…これも、素晴らしい! なるほどオリジナル性がひしひしと伝わってくる。これはモンゴル風の独自の工夫であろう。う−む、さすがだ。絶妙である、味以外は。
 餃子は、ベッチャリと牛乳に浸っており、詰まるところ私が食したのは、餃子の牛乳漬けである。

 宿に戻ると、別の客も泊まっていたので、さっそく挨拶をしに行くと、よれよれのTシャツを着て、頭髪が少し後退しかかった人懐っこそうなおっちゃんがメシを食っていた。
 彼の名はデリック。ニュージーランド人の旅行者だった。歳は36歳で、身長は165cmほどのちっちゃい男だ。
 デリックはおしゃべり好きのおっさんで、一度話しかければマシンガンのような返事がくる。

「どのくらいここにいるんです?」
「うーん、三ヶ月くらいかなぁ」
「三ヶ月!長いなぁ。どのくらい旅をしているんですか?」
「ニュージランドを離れて、二年以上になるよ」
「二年っ!」
 旅の経緯を聞きたいと言うと、嬉しそうに次々と話してくれた。
 彼、デリックは、まずシンガポールに行き、そのままタイに入国し、何を思ったか自転車で旅をすることを突然思い立ち、タイでチャリを購入。そのまま、チャリで北上し、中国に入り、その後はモンゴルへ。その後、ロシアに入国し、再びモンゴルに戻ってきたとのこと。
 うーむ、世界は広い。いろんな奴がいるもんである。

「…もしかして、玄関に立てかけてあったぼろぼろの自転車はデリックの?」
「ハハハ。その通り」
「正真正銘のメイドイン・タイか…。すごいですねぇ」
 デリックの自転車は、マウンテンバイクとままチャリの中間と言った中途半端なチャリで、明らかに旅のためではなく、日常生活に使われるような実用的な自転車だ。よくも、まあこんなものでユーラシア大陸を半分も北上したものである。
 この人は、きっと筋金入りの変態なのだ。

「そうそう中国じゃ何回も殺されかけて楽しかったな。僕は、見ての通りのチビだから、中国人に囲まれて、胸ぐらつかまれて…。」
「ははっ。そうなの? じゃあ、中国はあまりいい思い出がないでしょ」
「いや、あそこが一番面白かったかな。中国は長かったから、いろいろあったんだ。苦労した分思い出も多いよ」
 全く、おもろいおっちゃんだ。

 ウランバートル滞在中は、デリックとその日の出来事を話し合うのがいつのまにか習慣となり、宿に戻るたびに会話を楽しんだ。
「デリック、今日は何があった」

「…丘の上から、パラグライダーで跳んでみた」
「市場で殺されかけた。モンゴル人に捕まえられて、ナイフ突き付けられながら、片言の英語で、キル ユー!キル ユー! だって。ハハハ」
「民族衣装買ってきたよ。着てみるかい?」
 最高である、この人は。

 モンゴル一夜めは、家庭的な雰囲気にすっかり落ち着くことが出来、深い眠りについた。

 明くる、早朝…。
「おはようございます」
 寝ぼけているのだろうか。聞こえるはずもない流暢な日本語の声で目が覚めた。
「おはようございます。はじめまして」
 いや、気のせいではない。ベッドから身を起こしたら、日本人が立っていた。
 この宿は次から次へと人が登場するのである。

「Mといいます。さっきモンゴルに着いたばかりで」
「ああ、どうも。まだ、寝ぼけてて…。えらく早いお着きですね」
「いやぁ、ロシアからの夜行列車に乗ってきたので…」
 ベッドに横たわったまま話をするうちに、この人も生粋のバックパッカーであることが分かった。
 広島在住の24歳、ぼろぼろのバックパックが旅の年期を物語っている。聞けば、もう日本を出て六ヶ月目を過ぎ、中国、ネパール、インド、パキスタン、ブルガリア、ロシアをぐるっと回ってきたそうだ。

 敬語で話していると、敬語はやめてくれ、方言が聞きたいというので博多弁で話すことにした。
「じゃあ、博多弁で話してよか?」
「よか、よか」
 彼は、嬉しそうに返事した。
「オレ、今日ビザを取りに行かないかんけん、すぐ出て行くっちゃけど、今日の予定は何かあると?」
「あれ、博多弁も"けん"って使うと? わしのとこも使うよ」
「使う、使う。でも、スースース−って意味わからんやろ?」
「わからん。あーたいぎ−」
「ここ、とっとっと?」
「わし、広島出身じゃけんのぅ」
「ばってんオレ、博多モンばい」

 意味不明の会話が延々続くので、以下省略。
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