8. ナサン



 空港の外に出ると、やはり多くの客引きが待ち構えていた。
「日本人かい?都心まで、タクシーで送るよ」
 客引きの一人であるアバタ面の兄ちゃんから話しかけられる。
「いや、バスで行くつもりだから、タクシーは要らないんだ」そう答えると、
「バス?バス停ならあっちにあるけど…、ほら、駐車場の向こうを抜けたずっと先だ」
 親切にも、バス停の方向を指差して教えてくれた。

 モンゴルではタクシーといえば、白タクである。その辺を走っている乗用車と見分けがつかない。
 では、どうやって判断するのか。
 簡単である。
 手を上げて止まった車が、タクシーなのだ。
 これ、冗談ではなくて、本当の話である。これは、モンゴルのガイドブックにも書かれていることなのだが、タクシーの捕まえ方と表題した説明のなかでは「とりあえず、手を上げること。そして、止まってくれた車がタクシーである」となっている。
 なんとも、面白い国なのだ。

 モンゴルでは、車は依然として手の届きにくい乗り物だ。加えて、ガソリン代も頻繁に高騰化が起っているらしい。ガソリン代を浮かすためにも、副業として白タクをやっている国民が多いのであろう。
 それにしても、日本の考え方でいくと、見知らぬ人間をひょいひょい乗せてあげるのは抵抗はないのだろうか。中国のタクシーと比べると、もちろん運転席は柵で覆われていないし、たまに運ちゃんの子供なんかが助手席に乗っていたりする。
 全ては、おおらかでテキトーでいかにもモンゴルらしい。

 空港を出ると、すぐに草の海を見てとれた。ここはこれでも国内最大の空港なのである。
 周囲は、なだらかな山に囲まれており、都心へ向かう道だけが唯一舗装されている。遠くでは、米粒ほどに見える馬が草を食んでいるのが分かる。空港からして、既に牧歌的雰囲気が満ち溢れているのだ。
 それにしても、寒い。マイナス十度は回っているだろうか。白い息を吐きつつ、バスを探す。

 100メートルほど歩いたが、バスの影すら見当たらない。便利なもので、周囲が開けているから少し歩けば数キロ先まで見渡せるのである。もしかして、あまりバスは走っていないのかもしれない。
 もう一度、客引きの兄ちゃんに尋ねてみるか。

「バス停が見つからなくて…」
 先ほど出会った客引きに告げる。
「だろ! バスに乗ってもいいけど、どうだ、オレの車。もう一度聞くけど、乗らないか?」
「うーん、分かった。もし乗るとしたら、ウランバートルまでいくらかい?」
 この車に乗っていくのもいいかな、と思い始めたので値段を聞いてみた。
「4000トゥグリクだ」
 相場からすれば、相応の価格だ。
 モンゴルの通貨単位は、トゥグリクである。一円=7〜8トゥグリクといったところか。よって、今後は100トゥグリクは10円以下、1000トゥグリクは100円以下との数式独断と偏見で決定した。一桁落として『以下』をつければ、良いのである。
 中国に引き続き、私の素晴らしい計算力を露呈してしまった。
 これから、数学者の道を歩んでいくのも悪くはないだろう。
 果ては、東大理数学科教授も夢ではない。

 そんなわけで、タクシーは四〇〇円以下の料金なのであった。タクシーだと確実だし、悪くないかもな。

 タクシー案を取ろうかと迷い始めた矢先のこと、新手の客引きも現れた。
「都心まで乗せてあげますよ」
 見れば、40歳ぐらいのおばちゃんがいた。人懐っこい笑顔で話しかけてくる。
 ここで、ちょっと面白いことを考えついた。さっきの兄ちゃんと対決させるのだ。
 私、という客を取り合っての勝負である。

「いや、あの兄ちゃんが4000トゥグリクで乗せてくれると言ってたんで、あっちに乗ろうかなと思っていたところだけど…」
「それなら、うちは3500でオッケーですよ」
 よし、来た! 中年おばちゃんvs客引き兄ちゃんの30分一本勝負の始まりである。ちらりと兄ちゃんのほうを見ると、肩をすくめて苦笑いしていた。
 なぬ、もう諦めやがった。試合放棄するの早すぎるぞ、根性ナシめ。
 これじゃ、オバハンの不戦勝ではないか。霊長類最強の生き物は中年オババであるとの定義は永劫不滅、どこでも同じなのである。
「ごめん、こっちに乗ることに決めたよ」
「オッケー、いいさ。これ以下は無理だ」
 兄ちゃんはタバコをくわえて、相変わらず苦笑いしたまま運転席に戻っていった。

 都心に向かう間に車内の中でいろいろ話した。おばちゃんの名は、ナサン。英語は、ほぼ完璧に使える。
 日本語も勉強中だそうで、たどたどしくも、「ワタシノ−、ナマエハー、ナサン、デス」と自己紹介してくれた。
 聞けば、ゲストハウスを経営してるそうで、宿泊してくれる客を探して空港まで来たらしい。ナサンの経営するゲストハウスは、叔母の住んでいるアパートだそうである。
 値段も5ドルと安く、モンゴルで最も一般的なホテルに比べると十分の一以下だ。

「よし、決めた。今日は、ここに泊まってみよう、アリ。面白そうやんか」
 アリも、異存はないようなので、ナサンの申し出を受けることにする。

 40分ほど車で走ると、ナサンのゲストハウスに着いた。ウランバートル市内の中央に位置する7階建ての古いアパートだ。
 アパートの入り口は二重扉になっており、さらにゲストハウスも二重扉となっていた。カギが四つも要るのである。
 話は聞いていたが、案外治安は悪いのかもしれない。
 アパートの入り口は薄暗く、扉を開けた途端しょんべんの臭いがムッとした。

 ゲストハウスは結構狭いが、生活臭が漂っており、一目みただけで気に入った。
 家庭的な雰囲気でいっぱいなのだ。あまり、日本の家庭と大差ない。家主であるナサンの叔母はかなり老齢で、歯もだいぶ抜け落ちている。
 叔母は、くしゃくしゃの笑顔で、私たちを歓迎してくれた。
 ナサンの叔母こと、バアちゃんは、やはり母国語のモンゴル語しか話せないのだが、何時にご飯を作ってくれだとか、お茶が飲みたいだとか、風呂に入りたいとか、肩を揉んでくれとか、歌ってくれ、踊ってくれ、ドロップキックして見せてくれ、等々言葉は通ぜずとも、不思議と意思の疎通は計ることが出来た(若干ウソ)。


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