4. 中国をのぞく ホテルに辿り着くと、時刻は既に午後11時をまわっていた。辺りは闇に包まれ、困ったことに腹が猛烈に減っている。ホテル内のレストランは全て閉まっていたので外に出て行くしかない。 だが、この辺りは市街地から少し離れた住宅街で、来る途中見かけた食堂はほとんど開いていなかった。 着いたばかりの異国の地で、夜中に出歩くことは少々危険な行為かもしれない。 …ので、出歩くことにする。 今の時間に、果たしてどれだけの食堂が開いているのだろうか。かなりさ迷わなければならないだろうし、強いては何らかの犯罪に巻き込まれることも充分ありうる。 が、しかし。再三、申し上げたように私は空手の達人である。私には、伝家の宝刀、変則右廻し蹴りがあるのだ。 もし、暴漢にでも襲われたら、まずアリをかばって前に立ちはばかり、アリが安心したところで、廻し蹴りをアリにかまし、そのまま暴漢に差し出して、アリも暴漢も驚いている隙に逃げればよいのである。 …で、ホテルの目の前にあるメシ屋が開いていた。歩いて数十秒の距離である。 そこは比較的きれいな食堂で、店内には薄汚れたテーブルクロスを敷かれた長机が三、四脚並んでいる。 メニューは、当然のことながら全て漢字であった。メシ屋のオババに英語で尋ねてみたが、まったく解さない。 「タカに任せるよ」 アリが言うので、適当にメニューを指差しながら注文する。 比較的早く、注文した飲み物がやってきた。中国は、注文してから持ってくるまでが非常に時間かかると聞いていたが、なかなかどうして早い。 しかし、「コーラ、ツーね、二人分、二つだよ」と間違えのないように繰り返し注文し、念には念を押して二本指出して注文したのだが、オババが持ってきたのは1.5リットルサイズのペットボトル二本だった。 オババは、満足げにニッと笑うと、すぐに厨房に戻っていった。 ちょ、ちょっと、待て。ふざけんな。なめてんのか、キサマ。どうやってコーラ3リットルも飲めというのか。 私は中国語で文句も言えるはずもなく、泣く泣くアリと乾杯した。 ![]() 一品めがきてからは、次から次へと料理が運ばれてくる。それにしても、一皿の量が尋常ではない。一皿に盛られる量は日本の二、三人前のそれと同程度の量だ。私は六品も頼んでしまった。 アリは、既にギブアップ状態で、もう食えぬそうだ。私も人から驚かれるほどの大食漢だが、さすがにきつい。 「中国三千年」はどこかへ霧散し、うまいもクソもなく、苦労しながらも何とか全部を平らげる。 「すみません、日本の方ですか?」 膨らんだ腹をさすっていたら、突然後ろから、声をかけられた。振り返ると、長髪を後ろで結んだ無精ヒゲ兄ちゃんがいた。歳は、二十五、六歳といったところであろうか。 待ってました。アジア旅行のお約束、怪しい兄ちゃんその一の登場だ。これぞ、王道である。旅行初日にしていきなり出会うとは、実に幸運だ。 「いやー、料理頼んだは、ええねんけど、ちょっと多すぎましたわ」 怪しい風貌で関西弁を話す兄ちゃんに興味がそそられる。 「そうですよねぇ。自分もやっとこさ、平らげましたよ。あ、ちょっと隣の席にいいですか?」 「どうぞ、どうぞ。ほな、よかったら、このメシも食うてくれませんか?」 まだ、腹の開きに若干の余裕はあった。無理すれば、食えないこともない。しかしそれよりも、テーブルの上に置かれた紹興酒が魅力的だ。 「じゃあ、お言葉に甘えて、いただきますよ(酒もほしい)」 「どこから来はったんです?」 「福岡からです(酒のみたい)。どこから来ました?(酒くれ)」 「大阪の○○ですねん。あっ、よかったら、この酒いりませんか?もう、のめんのです」 「そ、そうですか。そいつは悪いなあ、じゃあ、少しだけ貰いますね」 全部呑んだ。 「そや、ハードロックカフェに行こうと思ってるんやけど、よかったら一緒に行きませんか?」 「ハードロックカフェぇ? そんなもの中国にあるんですか?」 「うん、ちょっと遠いけど、ありますねん。行きまっか?」 「行く行く、もちろん行きます」 ロックは、大好きなのだ。しかも、社会主義国のロックカフェというからには、食指を動かされるではないか。 「アリは、どうする?」 「行きたいけど、疲れとるからやめとくよ」 結局、兄ちゃんと二人で行くことにした。 この旅、アリとは別行動が多い。 決して仲が悪かったわけでもなく、ようするにアリも一人で行きたいところもあるのだろう。その点、アリが旅のパートナーで幸いであった。何をしたいか、どこへ行きたいか、人それぞれ十人十色である。そこを、二人でべたべたくっついて行動するには、多かれ少なかれ、何らかの不満は生じてくるはずである。 この旅における私の最大の目的は遊牧民と供に暮らすことであり、アリはボランティアで世話した子供たちに会うことである。 行きたいところがあれば、勝手に行けばよい。相棒が行くところに興味があれば、ついていけばよいのだ。 「ちょっと、待ってくれはりません。カバンを忘れそうになってしもうた」 兄ちゃんは、慌てていすの上のビニール袋を取った。って、どう見ても、スーパーや、コンビニでもらう不透明のビニール袋ではないか。 「カバンって…。もしかして…」 「そうです。これがカバンですねん。おかげで、どこの空港でも捕まってしまうんですわ」 兄ちゃんは、笑ってそう言った。 怪しい。聞けば、旅行する時は何時もこのスタイルなのだそうだ。 タクシーで、兄ちゃんとハードロックカフェへ向かうことにした。兄ちゃんが檻越しに運転手に地図を渡す。 中国では、全てのタクシーの運転席は、柵で覆われている。また、一人で乗る場合には、助手席に座ることが慣例だ。どちらも、防犯上の理由によるのだろうが、始めはどうもなじめない。 更に、タクシーは二種類ある。一台は、キロ当たり一元のおんぼろタクシーでもう一台は一.六元の日本と同程度のこぎれいなタクシーだ。タクシーで気をつけなければならないのが、料金メーターの有無である。 空港へ行く際、メーターなしのタクシーに乗ったら、十元ほどぼったくられたこともあった。 一般にホテル前にたまっているタクシーの運ちゃんは、旅行者専門に乗せるやつらが多く、地理に不慣れなこちらをよいことに、遠回りしたり、ぼったくることが多い。あくまで、確率だけど。 タクシーは、通りに出て自分で捕まえた方が無難だと思う。 この種の話しにちょっとした笑い話がある。 とある旅行者がいた。彼は、旅には慣れており、タクシーでぼられない方法も重々承知である。彼は、事前にタクシーの相場も調べており、意気揚々と旅先でタクシーに乗り、いつものように知ったかぶりをして、運ちゃんに話しかけた。 「いやぁ、この辺も変わったねぇ。仕事で、ちょくちょく来るんだけどねぇ。やっぱ、移動は、タクシーが一番便利だよ」 「そうですねぇ、だんな。タクシーが一番でしょ」 「そういや、最近この辺も物騒になってきたらしいね」 「そうなんですよ。おまけに、ガソリン代も急に高騰してね、商売上がったりです」 「…? そうらしいね、最近の値上がりは、ひどいもんだ」 彼は、そうか知らなかったと思いながら、予想した以上のタクシー料金を支払った。 その後、到着したホテル先で、いつものようにフロントの人間と世間話をした。 「やあ、ガソリン代も上がって、タクシー代も馬鹿にならんね」 「えっ?!今ガソリンは安くなっているんですけど…」 「!!!」 運ちゃんにまんまと出し抜かれた話し。 タクシーの中で、兄ちゃんにいろいろと話を聞いた。 兄ちゃんは、大阪で居酒屋を経営しており、暇を見つけては、たびたび短期の旅行に出かけているという。危ないことに顔を突っ込みたがるのが性分で、これまで何度も風俗店からの脱出劇を行ってきたそうだ。 兄ちゃん曰く、危険なのはわかっているけど、それで行かなければ、何も得られないでしょ。やっぱ、身の危険よりも、好奇心が上なんですわ。 また、居酒屋のことに話が及ぶと、兄ちゃんは笑いながら言った。 「儲かってないねぇ。うちは、あんま商売に興味はないから。とにかく、お客さんを満足させることが一番ですねん。ギターが好きなんで、お客さんに注文されたら、仕事そっちのけで歌ってやるんです。おかげで、演歌から、ポップスまで何でも歌えるようになりましたわ」 将来居酒屋経営を続けていくのかと聞くと、意外な返事が返ってきた。本当は、旅行作家を目指している、と。 今まで、いくつかの雑誌にコラムを掲載したことがあるそうで、現在修行中の身だそうだ。 「やはり、文書いて食っていくのは、一筋縄ではあきまへんねん。この道は厳しいっすわ」 ハードロックカフェに着いた。カフェ内は白人の溜まり場で、中国人は殆どいない。アマチュアバンドの生演奏をやっていたが、たいしたことなかった。できるなら、私が変わってやりたいほどだ。 ギターならば、そこそこに弾けるのだ。昔、作詞・ヘルマン=ヘッセ、作曲・私、とか、作詞・ゲーテ、作曲・私、などというドイツ文学の冒涜ともいうべき数々の名曲を生み出したことがある。 そこで、飛び入りで参加し、ビートルズナンバーをいっちょやったのだが、もう大盛況であり皆、私の演奏に感極まり、泣き叫び、観客には惜しまれつつ演奏を終えて、ステージから降りると握手攻めにあったらさぞかし面白いだろう。 生ビールを三杯飲んだところで、帰ることにした。 兄ちゃんも同じホテルに泊まっていることが分かったので、ホテルで呑みなおす。 兄ちゃんとはすっかり意気投合し、遅くまで語り合った。 旅人同士は、同等の立場で語り合えるのが良い。地位、仕事、年の差…日本で縛られる諸事は全く関係なしだ。旅の本質は、一期一会の出会いにあるのかもしれない。 私は、気持ちよく酔いながら、自分の部屋の戸をノックした。 まだ、旅行は一日目であるということにそのとき始めて気がついた。 |