境界線

〜7.Epistemology 〜

      

 夢を思い出す。

昔見た夢だ。
真っ白の夢。
人も物も全てが白い影すらも見えない世界。
その中で自分は一生懸命線を引いている。
何もないところに曲がりくねった線を引く。自由に、思うままに…
やがて線は前に引いた線にぶつかり一つの輪を作る。
ここが境界線だ。この中が自分の場所。
何かにぶつからず一つの区切りをつけたことに満足してその輪の中に入って目をつぶる。
ここが自分の世界、自分だけの世界。
何にも邪魔されない場所。
誰にも入れない場所。
そして外は…?

 
 外にはきっと何もないのだ…。
自分が意識を向けなければ何も…何一つ…。
 
 
 
 
 

 何故、そんな夢を今思い出すのか。
 
 
 
 

「おまえがヴァンパイアになればいい…奴よりも強い…」
 

 やたら耳のに響く声で再度囁くように奴は言う。
とんでもない提示に信じられない自分。
今世界にあるのはそればかり。
風も獣の遠吠えも、木の葉の立てる微かな音も、闇すらも消え失せて
意識が全て目の前の事柄に埋め尽くされる。
そうとしかいえない魚眼レンズで覗いたときのような中央ばかり肥大した光景。
 

「…何を…お前が…俺をヴァンパイアにしてくれるとでも…言うのか」
 あがきの代わりか必死で絞り出した声は掠れていて虚勢一つはれなくなっていることを相手に伝える。
目の前の男はそれにほんの少しだけ口の端をつり上げて笑うと

とだけ答える。
あまりにもシンプルで残酷で選択肢すら認めない口調。

「俺が…そんなものになったら、まずお前を喰い殺すだけだぜ…」
 へへ、とそれでも笑うように、相手を脅すように。
そんな言葉にも相手はゆっくりとした笑みを見せるだけ…。
何が楽しいんだ…いや楽しいんじゃない。
酷く混乱を招く、そんな儚さを感じる笑い方。
こんな時に何を考えているのかと自分でも思うが
やたらと間近に感じるそればかりの世界では
意識がもがくように複数の事柄を探り出そうとしてる。
 

何で俺はこんなことに
そしてどうして…
そしてどうしてこいつは…。
そうだ、どうしてこいつは…。
 

問題、目的、方法…。
そして願望。
目的は願望で、問題は方法が未だ見付からないこと。
進むことすら出来ない、それが現実。
今提示されるは方法。結果ではないにしても結果には限りなく近く…。
しかしこれ以上願望から外れたものもない。
そして隠されている矛盾。
見えない全て。あやふやな輪郭。
ならば何がイコールで何がそうでないのか。
心の中で無意識にやる線引きが何一つできない。
 

意識できるところまでが心の世界。
そして認識できるまでが現実。
封鎖された世界でそこから外を感じ取れないなら
その世界の存在する意味は一体どこにあるのだろう。
 
 

ああ、そういえばどこまでが自分だ?
痛むはずの手足、寒いはずの空気…何一つ自覚できない今は
自分はこのねっとりした空気と区別は付かない。

ああ、夢の中で線を引く自分。
でもいまは一番小さい自分という境界線すらあやふやな世界に距離感すらはかれない。
奴の紫に光る目がやけに近く見える。
いや近づいているのかも知れない…同じ物かも知れないような錯覚。
 

「どうした…こないのか?」

 いくものか。
ばかげている。
心のどこかで確かにそう叫ぶ自分がいる
目的を見失ってどうする?
たった一つ持ち得る物すら自信を持てなくてどうする?
それでも己自身の憎悪に四肢を押さえ込まれて、安易な解決法に視線一つそらせない。
 

「おまえが…復讐を真に望むなら選ぶまでも無かろう…」
 こちらへ…
そう端のつり上がった赤い唇が動く。
口の隙間から隠しようもないほどはっきりと人のものではないキバが覗く。
 
 

「う…」
とりあえず全身で抵抗を試みて、手足があっさりと動くことに気付く。
感覚がないなりに動かしているような気がするといった方が正解か。
感覚がない世界に無意識にすら剣を握れる自分を少しだけ頼もしく思う。
生きることにどん欲なためか、圧迫感が実はそれほど大きくないのか…
どちらでもかまわない、自分自身で戦えるのなら。
 

ごほ…目の前の男がまたせき込む。
肺の空気を捨てるような苦しそうな空咳。
やはりもう死にかけているのかもしれないなとぼんやり思う。
とっさに見上げた瞳もさっき好きだなと思った水色の光をちらちらと戻す。
たぶんかけられている術は完全ではない。
頭の中を自分に対してではない危険信号が明滅する。

なぜ…そんなにまでして…。

頭の中を通り過ぎる疑問に答える暇はきっとない。
ああ、それでもさっきから自分を押しとどめる感情以外の警告も
きっとそこなのだ。
見えていない。
まだ自分は自分で箱の中をもがくばかりで
そのくせその自分のことですら見なくてはいけないものを
捕らえてはいない。
しかしまた紫の炎がちらつくたびに頭をかすめる憎悪。
不可解で形容しがたい思考のコントラスト。
感覚はとうに奪われているはずなのに痛む頭。
全てに逆らうように、手の中にあるであろう刀を必死で握りこむ。
 

そのまま目の前の男を切り捨てれば
この馬鹿馬鹿しい混乱は収まる…そう思えるのに…。
 

しかし動けなかった。
憎悪と制止、冷静さからではない疑問符、そして確かに自分のものである混乱。
 

「おま…えは、なにを…望んで」
こんなことをするのか。
怒鳴りたかった、わめきたかった、混乱の原因。
「ほう、まだそんなことを考える余力があるのか」
分かりそうで分からない、何も見えていないようで、実はもう目にしているようなもどかしさ。
「こたえ…ろ」
「自由になりたい…ではだめか?
お前をヴァンパイアにすれば仲間だ。お前が私を殺す理由などないだろう?」
違う!違う!違う。
なぜか頭がその答えを否定する。
「おれは、ヴァン…になった…まずお前を…喰い…」
「仲間が欲しいんだよ…私はね」
かみ合わない言葉。
嘘だ、違う。
それだけが分かる。
また目の前の男がせき込む。
肺が傷ついて…もう直す力もないはずなのに。
その瞬間は呪縛がゆるむことが感じられる。
しかし動けない。
 

どこにこんな制止が働いているのか…。
動けないのはやはりどこまでが自分だかわからないから?
己がとけ込んで区別が付かないのは闇なのか、それ以外のものなのか。
距離がつかめない。
じぶんがどこに立っているかすら…。
ここがどこで何時なのかすらもう自分は捕らえることすら出来ない。
何もない…
 
 

線を引く自分。
切り取られた空間。
あっても認識しなかった外の世界。
あれは今でも俺自身で
境界線の中は今ではすっかり自分一人だ。
でも、たった一つ持ち得る物のはずだった自分自身すら
もうどこにあるのか分からない。
 

箱の中すら認識できなくなったらどうすればいい?
 

境界世界にまるまって自分の外形をその自分自身でつける痛みだけで拾う世界に
自分以外いるわけもない。
 

では外は?
 
 

見えない。
何もない。
 

外は…どこだ?
 

圧倒的な存在で奴が…奴の言葉があるだけで
今の自分には何もない。
あの曖昧な夢の世界ですら。
そこで聞こえる遠い声ですら…
 

外には誰かいるのか?
 

境界線の外にはこの自分に世界を
自分を認識させてくれるものが。
動けない自分の代わりに自分に自分に傷を付けるものでもいい。
今この矮小な世界以外を認識させてくれるもの…。
捕らわれた意識の首根っこをひっつかまえてほんの少しでいい、意識を逸らしてくれるなにか。
 
 

だれか…だれか…
ここは…

ここから…
誰か示してくれ…
あの時…あの全てを失ったときに自分につけてしまった境界を…
 

世界を…

奴と自分の間に見える地面以外の場所があると…

だれか…
 

「………」

口を開こうとしてもう言葉らしい言葉が出ないことに気付く。
答えるものもなにもない。
だって世界は何もない。
少なくとも今ここには自分と奴しか…
いや、自分ですら…。
自分を形作るものですら…もう何一つ…。
 
 

「…お…に…ちゃ………」
 

聞こえるのは目の前の男の発する音と…
 
 

「…おにい…ちゃん…?」
 

「…?」
微かに聞こえる声。空耳?
夢の中で聞いたあの声?
酷くとおく…そして何を言っているかすら分からない。
 

「おにいちゃん…おにいちゃん」
ちがう、読んでいる。
そして感じる…痛み…これは?
俺を…他の誰でもないこの俺を、どこから…この世界の外からだ。
読んでいるのは……
 

「おにいちゃん!!」
とたんに一条の光。
いや光によく似た針のような痛み。
 

「おにいちゃん…しっかりして!」
今度こそはっきりと聞こえる
これは、この声は…俺が助けた、俺が守らなければならない…吸血鬼から!!
ざぁっと風が吹く。
閉ざされた世界に亀裂が走る。
認識される世界。
闇は闇、木は木、風は風。
 

「…ぐぁ…っ」
その世界に向かってめいっぱい意識を向け外の世界を取り込む。
とたんに帰ってくる現実。
たき火の炎に冷たい風。
返り血だらけの岩肌に、それすらも覆うような闇。
そして全てに怯える小さな少女。
身体の痛み、左腕がやけにいたいのは、必死で袖を引く少女がいるからで…
取り戻される世界、そしてその境界線。
すなわち自分。
とっさにその少女を左腕で庇うように抱き込んで剣を目の前の敵に向かって振りかざす。
相手の顔にうかぶのは微かな笑み、そして目が伏せられる。
自分はゆっくりと手の中の剣を相手に向かって投げつけた。
 

剣が岩を砕く、派手な音を立てた。
 


 
 
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おわったー(オイ)
えらく不調ですね。
やっぱりシリアスばかりの熊は熊じゃないような気すらします(爆)
しかし、後は後始末です(笑)

(2002.2.13 リオりー)