エコーとナルシス
◇ その4 ◇
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 それからしばらくが経ちました。エコーの仲間のニンフたちは、木の精から彼女に何が起こったのか、おおよそ聞いていました。女神アルテミスは、エコーのことを伝え聞くと、「そうですか」と、ただ悲しい顔をしただけでした。
 一方、ナルシスはと言えば、森で出会ったニンフのことがしばらくは気になっていたのですが、再びその森に一人で行くようなことはありませんでした。
 彼はエコーのことが怖かったのです。以前にも、人間の女性はもちろんのこと、ニンフに言い寄られたことも幾度もありました。それらのときは、別にあのような恐怖は感じませんでした。ただ、何となく嫌な気持ちは感じていました。うっとおしいとか、付きまとわないでくれとか、そんな気持ちは確かにありました。しかし、エコーとのときには、そのときにも確かにそういう気持ちはあったのですが、それ以上に恐怖、取り込まれてしまうという恐怖の方がはるかに強く感じられたのです。
 だから、彼は、あのとき何も言えず、ただ黙ってエコーを見ているしかできなかったのです。いつもなら、やさしく断わっていたナルシスが、エコーには何もできなかったのです。
 そして、それからというものナルシスは変わりました。それまでは、言い寄られればやさしい言葉でもってそれを退けていたのですが、エコーとのことがあってからというもの、彼は冷たく言い放って断わるようになったのです。
 エコーとの時に感じた恐怖、それが女性に言い寄られると思い出され、その恐怖を振り払おうと、冷たい言葉を言い放ってしまうのでした。しかし、ナルシスの変化はそれだけではありません。
 彼は自分から進んで女性に言い寄ってみるのでした。自分から事を起こすぶんには、そんな恐怖も感じなくて済むだろうと思ったからです。
 しかし、結局それは無駄な努力でしかありませんでした。そんなことをしてみても、はじめのうちはいいのですが、その女性がナルシスに惹かれてゆくにつれ、次第に息が詰まるように感じられてきて、結局それに耐えられなくなり、その女性を捨ててしまうのがお決まりでした。
 そんなことをしてゆくうちに、ナルシスの評判は、彼の美しさとは反対に、どんどん悪くなってゆきました。

 アルテミスのもとにも、そんなナルシスの噂は届いていました。女神は、彼だけがエコーを救い出せることを知っていました。しかし、どうしたら彼がエコーを救えるのかはわかりませんでした。
 また、現在のナルシスにエコーを救い出せるだけの力があるとも思えません。今の彼は、自分自身さえもどうすることができないのです。
 このままではエコーだけでなく、ナルシスも破滅へと向かってゆくように思え、女神の悲しみは増してゆくばかりでした。
「二人はもうどうしようもないのかしら。あのとき、私が意地を張らずにアフロディテに頼んで、エコーの恋を実らせてあげれば、こんなことにはならずに済んだのかも。でも....」
 ふとアルテミスがそうつぶやいたときでした。
「そんなに悲観しなくてもいいのよ」
 風とともに運命の女神の声が聞こえてきたのです。
「私たちがみだりに力を使うのは危険なこと、それはあなたもよくわかっているはず。あなたもエコーにそう忠告したはずです。それを忘れたの」
「しかし、このままでいいのですか。二人はこのままどうにもならずに、闇の中に閉じ込められたままでいるしかないのですか」
「安心しなさい。すべてのものはなるようになるのです。二人が、ごまかしや偽りを行わないかぎり、彼らは大丈夫です。たとえその道のりがどんなものであるにせよ、誠実さを失わない者には、必ず調和がもたらされます。すべてのものは、さまざまな流れのなか、進むべき道を探し、そこを歩んでゆくのです。私は、それらの流れを見守っているだけです。流れはそれ自身の力で活動するものであると同時に、その中にいる者たちによって作られるものでもあるのです。二人を信じなさい」
 風は止み、運命の女神の声は聞こえなくなりました。
 しかし、その言葉を聞いて、多少の不安は残るものの、アルテミスは安心しました。何がどう流れてゆくのか、はっきりとはわからなったのですが、女神は「大丈夫」という気持ちを感じたのでした。
「なるようになる、そう、きっとそうね。二人を、二人の心を信じましょう。彼らがそれをないがしろにしなければ、必ず二人は助かるはず」
 アルテミスは、二人のことは彼ら自身と、彼らを取り巻くものたちに任せて、下手な干渉はせず、このまま黙って見守ってゆくことに心を決めました。
 しかし、女神はそれでよかったかもしれませんが、ナルシスに冷たくあしらわれた女性の中には、当然激しく彼を恨む者もいたのでした。そんな女性のうちの一人が、ナルシスに実らぬ恋の呪いをかけて欲しいと、復讐の女神に祈願したのです。
 はたしてその願いは聞き入れられました。

 ある日のこと、ナルシスは狩りの途中非常に喉が乾いたので、水の匂いを頼りに泉を探しました。
 すると、背たけの高い草に囲まれた中にその泉はありました。その泉には、非常に澄んだ水が湧いていました。しかも、周囲をそのように囲まれているおかげで、風に乱されることもなく、その水面はまるで水銀のように深みのある輝きを保っていました。
 ナルシスが水を飲もうと、その泉を覗き込んだときでした。ナルシスは泉の中に美しい人がいるのを認めました。彼は、それを水に住むニンフだと思ってしまったのです。
 水の中にいる女性の美しさは、これまで出会った人間やニンフなんかとはくらべものになりませんでした。短かな金の巻毛や、ふくよかな頬は男性的な感じを与えましたが、目もとや口元の繊細な感じは女性的でもあり、その中性的な魅力は、すぐさまがっしりと彼の心を捕らえてしまいました。
 それが水に映った自身の影であることがわからぬナルシスは、水に向かって話しかけました。
「君は誰? 名前はなんて言うの?」
 水に映った影は答えることもなく、ただ語りかけるような表情を見せただけでした。しかし、答える声はなくても、その少し甘えるような表情はナルシスを求めていることを物語っていました。
 水の中の人のそんな表情を目にすると、彼は自分の胸の中に、熱い炎のようなものが激しく広がってゆくのがわかりました。それを感じたとき、ナルシスは本当に自分の胸が内部から燃え出してしまうような感覚に襲われ、身震いしてしまったほどです。しかし、水の中の人も彼と同じように不安な表情をするものですから、彼はすぐさま、「いいえ、大丈夫」という気持ちを伝えようとして、にっこり微笑んだのでした。すると、水の中の人も安心したように、微笑みを返してきました。
「ああ、この人は僕のことをわかっている。この人には、駆け引きも偽りも通じない。何もかもがお見通しだ。だが、なぜ答えてくれない。僕のこの気持ちもわかっているはずなのに、なぜ....」
 そんなナルシスの思いにあわせて、泉の人も悲しげに彼を見つめてくるのでした。
 彼女の目もまた、ナルシスに「なぜ」と問いかけていました。しかし、ナルシスには、その「なぜ」の意味がわかりませんでした。もちろん、それに答えることができるはずもありません。
 もどかしさに駆られて、ナルシスは水の中に手を差し伸べました。しかし、ナルシスの両手には、その人の体の暖かみの代わりに水の冷たさが、しっかりとした肉体の感触の代わりにあやふやな水の感触が伝わっただけでした。そして、彼が差し出した両手によって引き起こされた銀色に光る波が、泉の人の姿を消してしまったのです。
 ナルシスは、「あっ」と声を上げ、両手を引っ込めましたが、手遅れです。泉の人の姿は消えてしまいました。彼はなす術もなくざわめきたった水面を見ていました。
 ナルシスは不安でたまりませんでした。自分はあの人を消してしまった、殺してしまったのではないか、そんな後悔と不安とが、ざわめきたった水面の動きに合わせて、彼の心に波立っていたのでした。水面が落ち着くまでの時間が、気の遠くなるほどに長く感じられました。
 次第に水面が落ち着いてゆくにつれて、ナルシスのそんな気持ちも薄らいでゆきました。泉の人が、再び姿を取り戻したのです。
 ナルシスは、ほっとしました。その人も嬉しそうな表情で彼のことを見つめていました。しかし、やはりその表情には、隠しきれない悲しみが漂っているのでした。
「あなたはここに閉じ込められているの? その美しさのために、誰かに呪いをかけられて、ここから出ることも、話すこともできずにいるの?」
 泉の人は、やはり何も答えません。しかし、その顔に広がってゆく悲しい色合いは、ナルシスにそうであることを告げていました。
「ああ、でも僕にはあなたの呪いを解く力もないし、あなたの名前もわからなければ、誰があなたに呪いをかけたのかもわからない。せめて、それさえわかれば神にお願いして何とかできるかもしれないのに....」
 ナルシスは、どうしようもない思いが心に広がってゆくのがわかりました。自分の無力さに対する怒りとも、悔しさとも、悲しみともつかない思いが、入り乱れて湧き上がってくるのです。自分の中で一匹の蛇がぐるぐるとのたくっているかのようで、吐き気さえも催してくるのでした。
 泉の人もたいへん辛そうな顔をしており、それがますますナルシスのその思いを煽ってゆくのでした。
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