エコーとナルシス | |
◇ その3 ◇ |
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そうした日々が続いたある日、ついにその機会が訪れました。 それは、エコーがいつものように、森の中でナルシスが訪れるのを待っていたときのことでした。森の奥の方から、ナルシスの声が聞こえてきたのです。エコーは声のする方へと行ってみました。すると、ナルシスが道に迷ったらしく、仲間のことを呼びながら、一人きりで心細そうに森の中を歩いていました。 エコーがそれを見て喜んだのは言うまでもありません。彼女はナルシスのもとに向かおうとしました。しかし、またいつものように足が前に進まないのです。突然姿を現して彼を驚かせてしまったら、どう話しかけたら、そんな不安が、頭の中を走り抜け、両の足を地面に縫い刺しにしてしまったのです。 エコーはその呪縛を解こうとしましたが、決断の力は足の先まで届きません。さりげなくナルシスの前に出ようと思っても、「さあ」と思うと、胸の中から溢れ出てくるその熱い感じが、さり気なさを装おうとする涼しげな意志を覆ってしまい、全身が熱で麻痺してしまって、体を自由にすることができなくなってしまうのです。 ----こうしているうちに彼が友達のところに戻ってしまったら.... そう思うと、エコーはいても立ってもいられない気持ちになるのですが、そんな気持ちも心の熱を高めてしまうばかりで、どうしてもそれを行動に変えることができません。 ----せめて彼が私に気づいてくれれば エコーがそう思ったときでした。ナルシスが突然、彼女の隠れている方を向いて、「そこに誰かいるの?」と言ったのです。 ナルシスは、この森に来るといつも誰かに見られているような気がして仕方がなかったのでした。仲間の言うように、それが自分の自惚れではないかと思ったこともありましたが、それでもその感じは確かにあるのです。誰かが自分のことを見つめている、その包み込まれているような、覆い被さられているような感触が拭えないのです。それが特に今、はっきりと感じられるのです。道に迷った恐怖から過敏になっているのかも、と考えてみましたが納得がいかず、ついにナルシスは、視線を感じる方に向かって声を出してみたのでした。 しかし、何の答えもありません。ですがナルシスは、声を掛けたときに、これまで以上の熱っぽさと力強さを持った何かが、自分に向かって来るのを感じたのです。目には見えないけれども、風のように確実に力を持った何かが自分に向かって来る。それはナルシスの心に恐怖を巻き起こしました。 この感じが気のせいだろうが、本当のものであろうが、とにかくここから去ろう、そう思い、そこから立ち去ろうとしたときでした。ナルシスは自分が声を掛けた方向から「私です」と、か細い声が発せられたのを耳にしたのです。ナルシスは驚き、一瞬体を硬張らせました。しかし、その声のはかなげな感じは彼の恐怖を幾らか和らげもし、ナルシスは再び振り返りました。 すると、一人の可愛らしいニンフがそこに立っていたのです。ナルシスは彼女の姿を認めると、とりあえず安心しました。 「君だったのかい」 ナルシスが彼女に近づき、言葉をかけると 「ええ、驚かしてごめんなさい」 そのニンフはうつむき加減に、恥ずかしそうな素振りで、小さく答えました。 「名前はなんて言うの?」 「エコー」 「ここで何をしているの?」 ナルシスは少し意地悪な質問をしてみました。 「....」 彼女がうつむいたまま何も答えないのを見て、ナルシスはこの森の中でいつも感じていたあの視線の正体を確信しました。そうして、それほどまでに自分のことを思ってくれているエコーのことを愛しくも感じたのですが、同時に少しばかり腹立たしさのようなものも感じたのでした。 しかし、ナルシスはそのことは口に出さず 「ねえ、道に迷って困っているのだけど、森から出る道を知ってる?」 と、彼女に尋ねました。 エコーは「ええ」と返事をしながら、少し上を向いてナルシスの顔を見ました。 ナルシスはエコーの目を見ながら、にっこり微笑んで 「じゃあ、案内してくれる。どうもこの森は気味が悪くて」 と、うっかり言ってしまいました。 エコーは、また顔を伏せてしまい、小さな声で、それこそ消え入りそうな声で「ええ」と答えただけでした。 しまったと思ったナルシスは、狩りの話をしてその場を取り繕い、二人で森の中を歩いてゆきました。 ナルシスと二人きりになれて、エコーはたいへん嬉しい気持ちの中にいました。しかし、エコーはやはりは悲しくもあったのです。言おう、言おうと思っても大事なことが言い出せない、その焦りと苦しみとがエコーの喜びの上に次第次第に覆い被さっていったのです。 側で見るナルシスはいっそう美しく魅力的でした。しかし、そのこともまた、エコーの思いを封じ込めてしまうことになっていたのです。ナルシスが何を話しても、エコーはただ「ええ」と答えるだけで、あの話好きで会話上手のエコーは、ここにはいませんでした。彼女自身もそのことを感じ、「どうして....」と苦しい問いを心の中で繰り返していました。 ナルシスは、森の中を歩いてゆくにつれて、次第にエコーが沈んだ気持ちになっていっているのがわかりました。そして、彼女の翳りが濃くなるにつれ、同時にあの感じが強くなってゆくのも感じていました。自分を包み込むような、自分に覆い被さってくるような何かが自分を取り巻いている。 ナルシスは、その雰囲気に息が詰まるような思いがしました。エコーのことは、初めて会ったばかりだけど、少し暗い感じもするけど、確かにかわいいと思う、でも、何か耐えられないものを自分に押し付けようとしている、そんな風に思えて、つい 「面白くなさそうだね。僕といてもつまらない?」 と言ってしまったのです。 その言葉を聞くと、エコーははっとした表情となって 「そんなことない。違う、違うの」 と言葉を口にしたのですが、また顔を伏せて黙ってしまいました。 ナルシスは、エコーのその強い感じに驚いて、彼女の顔を見ました。エコーもナルシスの顔を見上げてきました。 「----好きなの、あなたのことが。初めて見たときから、気になって仕方がなかったの。だから、毎日この森に来て、あなたのことを待っていたの。あなたと会って話をしたい、この気持ちを伝えたい、そう思って毎日ここに来ていたの。でも、あなたのまわりにはいつもお友達がいて、それであなたの前に出られず、木の陰からあなたのことを見ていたの....」 エコーは、自分の心の中のあの熱いものが今、言葉となって口から出てゆくのがわかりました。しかし、そのほとんどは言葉となりきれず、涙となって、ぽろぽろと彼女の頬の上を流れ落ちてゆくのでした。 「----違う、つまらなくなんかない。一緒にいたいの。あなたのことが好きなの....」 そこまで言葉を口にすると、エコーは再び顔を伏せてしまいました。 ナルシスは、泣きながら言葉を口にするエコーに恐怖を感じていました。目の前にいるエコーの姿は、確かに小さく見えるのに、目に見えない彼女の実体のようなものが、自分に襲いかかってくる感じがしたのです。 何も言えず、何もできず、ナルシスはただエコーのことを見ていました。そして、彼女が再びナルシスの顔を見上げたとき、彼の恐怖はいっそう高まりました。彼女の涙で潤んだ目に吸い込まれてしまう、そんな感じがしたのです。ナルシスは、思わず視線をそらしてしまいました。 そんなナルシスの仕種を目にして、涙でぼやけたエコーの視界の中に、薄い影が広がってゆきました。影は視界の中に広がりながら、その色を濃くしてゆきました。 エコーの心の中にあった熱いものが、突然、ふっと消え去りました。 「ごめんなさい」 その一言を口にすると、エコーはナルシスに背を向け、森の奥へと走り去っていきました。ナルシスは、呼び止めることもできずに、ただ彼女の後姿を見ているだけでした。何とも嫌な空虚な感じを抱きながら。 エコーは泣きながら森を走ってゆきました。恥ずかしさと、悲しさ、そして後悔が、流れ落ちる涙とともに、心の中から入れ替わり立ち替わり、また入り混じりながら、湧き上がってきました。 視界に広がった影は、彼女に闇の中を走っているかのような感覚を与えました。そして、その冷たい感覚が次第に他のすべての感覚を包み込んでゆくのでした。 エコーは、闇の中を走ってゆくにつれて、自分自身が薄れながら広がってゆくように思えてきました。それは、妙な心地よさを持っており、彼女はそのひっそりとした静けさに身を任せてみるのでした。 それっきり、エコーは姿を消してしまいました。 |
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