エコーとナルシス
◇ その5 ◇
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 幾日かが過ぎました。しかし、もはやナルシスにはそんな時間の観念はありません。恋する人を見つめ、返ってこない問いかけをし、自分の中に湧き上がってくる思いに苦しめられる、その繰り返しが果てることなく続いているのでした。
 繰り返される苦しみによって、ナルシスの持っていた美しさもすっかり衰えてしまっていました。髪は乱れ、頬もげっそりと落ちてしまい、顔中に暗い影が広がって、ナルシス自身が一つの暗い影となってしまっていたのです。そして、泉の中の人も彼と同じように影の中へと呑まれていったのでした。
 ナルシスは、恋する人のそんな姿を見ると、ますます深い苦しみのなかに陥ってしまい、悪循環はとめどなく続いてゆくかのようでした。
「あなたはどんどんとやつれてゆく。あなたの影は濃くなってゆくばかりだ。僕はいったいどうしたらいいんだ。このまま何もできずに、ただ黙って見ているしかないのか。だとしたら、あなたが死んでしまったら、僕も生きてはいられない。自分の大切な人が死にゆくのを、何もできずにただ黙って見ているしかない自分など、生きるに値しない。一緒だよ、一緒にいるよ。僕が今、どうすることもできないせめてもの償いに、自分の思いに答えるために、僕は君と一緒に行くよ」
 ナルシスがそうか細い声で話しかけると、泉の人は悲しげではありながらも、うれしそうな暖かみのこもった目で彼を見つめるのでした。
 その目を見るとナルシスは、自分の中にいる蛇がのたくるのを止め、その実体をゆっくりとナルシスの体全体に広げてゆくのを感じました。それは、ゆっくりとやわらかな波となり、暖かな広がりとなり、彼の体に溢れていきました。
 ナルシスの口から、ふと
「ごめんね」
 という一言がこぼれ落ちました。
 その一言と同時に、彼の目からは涙がこぼれ落ちてきました。暖かな涙は頬を伝って流れてゆき、重い涙は水面に落ちてゆきました。
 涙が頬を伝う感触と、水面に落ちた涙が出すかすかな音とが、ナルシスの心の中に広がってゆく暖かみと重なり合い、内部の広がりと外界の広がりがひとつにとけあい、彼は自分が自分自身をも包み込むやわらかで暖かな広がりとなってゆくのを感じました。その広がりの中、彼は自分の落とした涙によって泉の人の姿が薄れてゆくのを見て取りました。しかし、その人は心から喜んでいるようでした。悲しみの影はすでに姿を消していました。
----解き放たれた!
 ナルシスがそう思ったそのときでした。彼は、その泉の人が自分の中に戻って来るのを感じ取り、その人と自分とがひとつのものであるとわかったのです。
----私だ!
 強くそう感じると、ナルシスは一気に自分の頭を水の中に突っ込みました。水しぶきが上がり、その水の冷たさが熱っぽくなっていた彼に心地よさを与えてくれました。そして、水の中から顔を上げて再び水面を見てみると、これまでは見えなかった深い泉の底が、澄んだ水を通して見えるのでした。
 しばらくの間、彼は水の底をぼんやりと眺めていました。あの広がりの感覚は薄れてはしまったものの、まだ感じることができました。
 すっと風がよぎり、肌寒さを覚えたとき、ナルシスの心にふとエコーのことが思い出されました。
「エコー」
 ナルシスは彼女の名を呼びました。もちろん、何の答えもありません。ナルシスは、どうしてかはっきりとわからなかったのですが、彼女に会いたくなったのです。あれから彼女はどうしているのだろう、なぜか気がかりになってきたのです。
 「好き」、「恋」、ナルシスは自分の気持ちに言葉を当てはめようとしましたが、どれも十分でないような気がしました。ただ、会いたい、その気持ちだけが確かなものとしてわかりえたのでした。
 ナルシスはエコーを探しに行きました。彼女と会った森に行ってみましたが、彼の呼ぶ声に応える彼女の声はありません。出会ったニンフたちにエコーのことを聞いてみましたが、誰も彼女の居場所を知りません。ただあるニンフが、女神アルテミスなら知っているかもしれないと教えてくれました。ですが、彼はどうしたらアルテミスに会えるのかわからず、またうかつにその前に姿を現して女神の怒りを買ったりしたら事なので、そのニンフに女神にエコーの居所を教えてもらうように頼みました。
 そのニンフは、女神のもとに行きエコーを捜している者がいると告げました。アルテミスには、すぐにそれがナルシスであることがわかりました。そして、そのニンフにエコーのいる場所を教えました。
 ニンフより居場所を伝え聞いたナルシスは、すぐにそこに向かいました。しかし、女神さえもはっきりとした場所はわかっておらず、ニンフはただ二人が出会った森の奥深くということしか伝えてくれませんでした。
 ナルシスは、再びあの森にに行き、その森の奥深くまで入っていきました。奥に入るにつれ、次第に辺りは鬱蒼としてきて、昼間でさえも薄暗くなってきました。
「エコー、エコー」
 ナルシスは、そう何度も大声で呼びかけながら、森を進んでゆくのでしたが、返事はありません。しかし、森の突きあたり近く、山の麓まで来たときでした。「エコー」と呼びかけると、小さな声で「エコー」と返す声が聞こえてきたのです。再び呼びかけると、また声が返ってきました。
 ナルシスは、声のした方へと進んでゆきました。しばらく行くと、真っ黒な口を開けているたいへん大きな洞窟がありました。ナルシスはここだと思いました。
 中に入ると、確かにエコーがいる感じがします。しかし、いるという感じだけで他に確かなものは何もありません。「エコー」と呼びかけても、「エコー」と声が返ってくるだけです。
 仕方なく彼は、洞窟の入口でエコーが現れるのを待つことにしました。ですが、日が暮れて辺りが真っ暗になると、ナルシスは溜まっていた疲れから寝入ってしまいました。
----ナルシス....
 エコーは確かにそこにいました。しかし、彼女は姿を失っていたのです。洞窟の中の真っ暗な闇、それが今の彼女だったのです。
 ナルシスが自分のことを探しに来てくれたことは、彼女にもわかりました。彼が来てくれたおかげで、エコーは少しだけ自分の意識を取り戻せたのです。

 ナルシスが来てくれた。ナルシスが私のことを探しに来てくれた。でも、もう遅い....
 いいえ、彼が遅かったんじゃない。私が自分の間違いに気づくのが遅かったんだわ。あのとき私は私でなかった、それに気づいていればこんなことにならずに済んだのに。
 あのとき、私は自分を失って、ただひたすらナルシスへの思いだけに心を奪われていた。そして、彼を思う気持ちの苦しみから逃れるために、私は彼に救いを求めていた。そんなことが許されるはずがないのに、私はそれをしてしまった。
 あのとき、私はナルシスへの思いそのものとなってしまっていた。その思いがすべてとなってしまっていた。だから、その思いが断ち切れたとき、すべてが終わってしまったかのように感じてしまった。
 そうして、その影が私を包み、私は闇に呑み込まれてしまった。彼への思いをすべてとしていた私は、影を闇にまで大きくしていた。私は私なのに、あのとき私は自分自身を手放して、自分を越えてしまっていた....
 アルテミスさまが私に注意してくださったことは、このことだったのね。自分を持たないで会話の雰囲気に身を任せてばかりいた私は、いつ自分の姿を失ってもおかしくなかった。それがナルシスへの思いの中で起こってしまったのね。
 あのときアルテミスさまがおっしゃられた考えるということは、自分について考えるということだったんだわ。私には、自分について考え、自分をわかり、自分を持つことが必要だった。
 でも、もう遅い。今頃になって考えてみても、私は私以外のものの中に溶け込んでしまっている。私は闇になってしまっている....
 ああ、どうしたら私自身に戻れるのかしら。今なら、もっとしっかりとナルシスへの思いを抱いていられるのに。
 彼が私のことを愛してくれるかどうかはわからない。でも、私はこの気持ちを大切にしてゆきたい。ナルシスを好きというのは私の中の大切なもの。大切だけど、それは私の心の一部。それを大切に育んでゆくには、まず私が私としてしっかりしていなくては。その喜びや苦しみや悲しみがどんなものであっても、私がそれを受け止めてゆかなくては。たとえそれがどんなに重いものであっても、それは私の中の大切なものなのだから....

 朝になり、木漏れ日からの光でナルシスは目を覚ましました。眩しさに目をしかめながら洞窟の中を見ると、人が倒れています。ナルシスは一目でそれがエコーだとわかりました。
 彼はすぐさま彼女のところに行き、エコーを抱き起こしました。
 エコーは、目を開けようとしたときに、自分に肉体の感覚がよみがえっていることに驚き、ぱっと目を見開きました。すると目の前にナルシスの顔があるので、思わず「あっ」と声をあげてしまいました。
 ナルシスは微笑んで彼女の顔を見つめていました。エコーも嬉しくなって、「おはよう」と微笑みながら声をかけました。ナルシスもうなずくようにして、「おはよう」と答え、「大丈夫」と聞きました。
「ええ」
 少しはにかんだ様子でエコーは答えを返しました。
 しばらく二人は、微笑みを交わしながら、互いに見つめ合っていました。
「帰りましょう」
 エコーの言葉を受けて、ナルシスは彼女とともに立ち上がりました。
 洞窟を立ち去ろうとしたとき、エコーは洞窟を振り返り、大きな声で「ありがとう」と言いました。洞窟からは「ありがとう」という声がこだまとなって返ってきました。
「あれ、君の声じゃなかったの?」
「何が」
「あの洞窟の声、あれてっきり君のものだと思ってたけど」
「失礼ね。私の声とこだまの声を間違えないでよ。あれは私が来る前からああだったのよ」
「えっ、そうだったの。ごめん、ごめん」
 二人は洞窟を後にしました。

 帰り道の途中、ナルシスはふと足を止めると、大地の上にある花をじっと見ていました。
「あの花に何か思い出でもあるの?」
「んっ? まあね。似ていたかなと思って」
 不思議そうな面持ちで彼を見ているエコーに、ナルシスはさっとキスをすると、早足で先に行ってしまいました。
 突然のことだったので、エコーはちょっとあっけに取られていましたが、すぐに「もう」と照れくさそうに声を出すと、その後を追いかけました。
 ナルシスが見ていたのは水仙の花でした。

<『エコーとナルシス』完>

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