エコーとナルシス
◇ その2 ◇
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 森の中でナルシスを見たその日から、エコーは毎日一人でその森に通うようになりました。ナルシスをもう一度見たい、彼に会いたい、その気持ちがエコーを森へと向かわせていたのです。しかし、エコーには、どうしてそれほどまでに自分がナルシスに惹かれるのかわかりませんでした。あのとき、彼のことを怖がっていたのに、それでもナルシスに会いたいのです。
 仲間のニンフたちは、そんな彼女の行動を好奇の目で見ていました。また、エコーの話好きは以前とほとんど変わらなかったのですが、ナルシスのこととなると彼女は、彼を見た日のように口ごもってしまうのでした。
 ある日、エコーがいつものように例の森に行こうとすると、一人のニンフが彼女に話しかけてきました。
「ナルシスに逢えるといいね」
「えっ?」
 エコーは思わず聞き返しました。
「ナルシスを探しに行くのでしょう。わかってるわよ」
 そう言われて、エコーは自分の頬が急に熱くなってゆくのを感じ、やはり何も言えなくなってしまいました。
「好きなんでしょう、彼のことが。照れないではっきり言いなさいよ。いつものあなたらしくないわ」
 エコーは頬の熱が全身にまで広がってゆくのがわかりました。
 頬を赤く染め、何も言えずに立っているエコーの姿が、そのニンフには何ともいとおしく感じられ
「相手があのナルシスでも、あなたなら大丈夫。いつものように朗らかなあなたなら。ほらっ、そんなに固くならないで。いつものように軽やかでなくちゃ、ねっ」
 と、彼女は言葉をかけずにはいられませんでした。
 そう励まされてエコーも、いくらか体が軽くなったように思え
「ありがとう」
 と、それでも少し恥ずかしそうにそのニンフに言葉を返し、例の森へと向かいました。
 森に向かう道すがら、エコーは先ほどのニンフとの会話の中で感じたことを考えていました。「好き」、その一言を聞いたときに感じたあの感触のことを。
 胸の奥から熱いものがこみ上げてきて、それが頬に、そして全身に広がってゆき、自分自身がその熱っぽさに包み込まれてしまっている感じ。その広がりの心地よさと、その重みのつらさ。彼女は、自分の心の中に何かが生まれ、それが確かなものへと育ちつつあることを実感しました。
 「恋」、その一言がエコーの頭の中を素早く駆け抜けようとしました。しかし、彼女の心は見逃すことなく、しっかりとそれをつかまえたのでした。
 エコーはその時になって初めて、自分の心の中にあるものが「恋」と呼ばれるものだとわかったのです。すると、再びあの熱いものが激しく動き始めました。エコーは突然辺りのものが自分に襲いかかってくるような感覚に捕らわれました。しかし、同時に辺りのものが自分に対してよそよそしくも感じられたのでした。
 それまで彼女が語りかければ、やさしく答えてくれた木々や草花や風などが、今では、彼女が語りかけようとすると、それらは彼女から遠ざかり、こそこそと、エコーには聞かれてはいけないかのように、何かささやきあっているのです。
 エコーは、特別な力によって振り回されているような気がしました。例の森についてもその感じは消えませんでした。
 エコーが眩暈のするような感覚の中で森を歩いていると、何人かの人間がそこに近づいてくる気配がしました。もしかしたらと思い、彼女は素早く木の陰に身を隠しました。彼女の期待通り、それはナルシスたちでした。エコーは、木の陰から出てナルシスのところに行こうとしました。
 しかし、動けません。両の足が地面に打ちつけられてしまったかのように、その場から一歩も動くことができないのです。彼女はただ木の陰からナルシスのことを見ていました。ですが、見ているだけでも苦しくて仕方がなかったのです。初めてナルシスを見たときに感じたあの得体の知れない恐怖が、ナルシスのまわりに漂っているように感じられ、ずっと見ていようと思っても、思わず視線を外してしまうのでした。ナルシスが彼女のほうを見ているわけでもないのに。
 と、突然ナルシスが立ち止まり、エコーの隠れている辺りを振り返ったのです。エコーは驚いて、さっと頭を隠しました。
「どうしたんだい?」
 そう仲間の一人が尋ねると、ナルシスは首をかしげ
「いや、なんでも無い。誰かに見られているような気がして。気のせいかな....」
「気のせいだよ」
「まったくナルシスときたら、お前がいい男なのはわかるけど、始終女に付きまとわれていると思うなんて、自惚れもいいところだ」
「でも、ナルシスなら納得がいくけどな」
「違いない。大方この辺のニンフが、またナルシスに惚れでもしたんだろう」
 そう言いながら、ナルシスたちはエコーの隠れている場所から遠ざかって行きました。
 そんな会話を耳にし、エコーは恥ずかしくて、それこそ顔から火の出るような思いで、木の陰に隠れたまま身動き一つ取れずにいました。
 その日はそれだけでした。話せなかった、そう思うとエコーはどうしようもない暗い気持ちに包まれてしまうのでしたが、その気持ちに反撥するように、胸の中から強い力も湧いてくるのでした。そうして彼女は、「あの人たちがいなかったら、ナルシスと二人っきりになれたなら」と、強く願いました。
 エコーは、それからも毎日その森に行きました。今度は、「二人っきりで話をしたい」というはっきりした思いを胸に抱いて。
 しかし、機会はなかなか訪れませんでした。森へ行っても、ナルシスが来ることは少なく、また来たとしても友達が側にいて、結局エコーは木の陰に隠れたままになってしまうのです。
 「今日こそは」という思いを胸に森に出かけ、「また駄目だった」という暗い気持ちで家路につき、そうして夜は自分の思いに苦しめられる、そういう日々が続きました。
 以前のエコーが持っていた愛らしさも、朗らかな雰囲気も、今ではすっかり翳りの中に姿を隠してしまっていました。これまで好奇の目で見ていた仲間のニンフたちも、エコーのそんな変わり具合を目にすると、何とかしてあげたいと思うのでしたが、何もしてあげることはできませんでした。今では、下手な慰めや励ましでは、彼女の翳りをますます大きくしてしまうように思えて、ただエコーの恋がうまくいくようにと願うだけでした。中には女神アルテミスにお願いするものもいましたが、女神も恋に関してはどうすることもできず、「わかりました」と、悲しげな表情で力なく返事を返すだけでした。
 そんな毎日が続き、エコー自身も自分が疲弊してゆくのがわかりました。このままでは自分が駄目になってしまう、そう感じ、ナルシスのことは諦めて、もうあの森に行くのは止めよう、と何度も思いました。しかし、捨てようと思っても、また捨てようとすればするほど、自分の中にある思いは、かえって強くはっきりとなるばかりで、結局森へと向かってしまうことになるのです。そうして、いつもと同じことが繰り返されるのでした。

 どうしてあの人の前に出ていけないの。あの人と話をしたいのに、自分の気持ちを伝えたいのに....
 でも、どう言ったらいいの。何を言ったらいいのかしら....
 「好き」その一言で大丈夫なの? それで十分に伝わるの?
 わからない。この気持ちは本物なのに、これほど私を苦しめるくらいに確かなものなのに、私はそれを伝えることができない。これまで私は、人と話をするのにこんなに苦しんだことなどなかったのに、なぜこんな大切なときに、アルテミスさまでさえうらやんだ力が使えないの。
 いいえ、まだその機会さえ無いわ。あの人たちが彼のまわりにいると、どうしても姿を見せられない。どうして....

 そう自問してみても、自分の前に目に見えない壁があるように思え、そしてナルシスの前には彼の仲間というはっきりとした壁があって、一歩も踏み出すことができないのでした。
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